第39話:相棒の覚悟
俺たちが足を踏み入れた倉庫の中はカビ臭さと、湿った潮の香りが混じり合って鼻をついた。
見上げるほど高い天井の梁からは、まるで灰色のロープのように太い蜘蛛の巣が何本も垂れ下がっている。床に散らばる木箱の隙間を、ネズミが走り抜ける音がした。
俺たちの背後で、鉄の扉がゴウと、地の底から響くような重い音を立てて閉ざされる。
退路は、断たれた。
部屋の奥に置かれたたった一つのランタンの光が、俺たちを取り囲むように立つ、十数人の男たちの長い影を、壁に怪物のように映し出していた。
そこには翠蛇組合の長サイラスと、その部下であるチンピラたちが武器を手に待ち構えていた。サイラスは、まるで玉座のように木箱の上に腰掛け、油を染み込ませた布で、長大なナイフの刃をゆっくりと拭いている。
そしてその中心に立つ男、マスター・ヘリオ。
彼の口元から、これまで浮かべていた人の良い笑みは完全に消え失せていた。
その姿勢は背筋が伸び、両手を後ろで組み、まるで標本でも検分するかのように、俺たちを冷ややかに見下ろしている。その目はまるで獲物を前にした蛇のように、感情の光を一切宿していなかった。
「……ようこそ、カシム君。そして、その影に隠れる『供給源』君」
ヘリオの声ががらんとした倉庫に響く。
「さて、茶番は終わりだ。単刀直入に聞こう。お前たちの、あの極上の薬草はどこで手に入れている? その秘密を、我々に譲り渡してもらおうか」
カシムの顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。
普段の自信に満ちた態度は見る影もなく、その膝は、ローブの上からでも分かるほどがくがくと小刻みに震えていた。彼の視線は俺とヘリオと、そして床の間のどこか一点を定まらずに彷徨っている。
「小僧ども、お前たちの供給源を全て我々に譲り渡せ」
ヘリオは最終通告を突きつける。
「さすればこのサイラス殿の組合の下で、下働きとして使ってやらんでもない。お前たちの命はそれで助かる。……どうだ? 悪い話ではあるまい。お前のような三流魔術師には、分不相応なほどの、慈悲深い提案だと思うがね」
ヘリオの言葉には、あからさまな侮蔑が込められていた。
俺は一歩前に出た。フードの奥で、ヘリオの蛇の目をまっすぐに見つめる。
そしてはっきりと告げた。
「……断る。悪いことには、協力できない」
俺のその言葉に、倉庫の中の空気が凍りついた。
サイラスが、ナイフを拭う手を止め、面白そうに口の端を吊り上げた。彼はゆっくりと木箱から立ち上がると、猫のようにしなやかな足取りで、カシムの目の前まで歩み寄った。
「……ほう。衛兵の前では『悲劇の助手』を連れ歩き、市場では『謎の師匠』の威を借る。……全く、助手になったり、師になったり、お前さんたちは、実に忙しいこったな」
カシムの顔から、さらに血の気が引いた。
自分たちの、付け焼き刃の嘘が、全て、この男たちの前ではお見通しだったのだ。
サイラスは、ナイフの切っ先をカシムの喉元に向けた。
「……カシム君」
ヘリオが、俺を無視してカシムの名を呼んだ。
「君は、賢い人間だと思っていたのだがね?」
ヘリオは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
あの日、カシムがサインした、魔法の契約書だ。
「忘れたとは言わせんぞ。この契約書には、こう記されている。『我々の事業の秘密を保持し、その発展に最大限寄与すること』。そして……『違反した者は、その魔力と未来を、永久に失う』、と」
ヘリオは、その契約書をカシムの目の前に突きつけた。羊皮紙が、禍々しい紫色の光をかすかに放っている。
「さあ、選ぶがいい。このゴブリンと共に、ここで魚の餌になるか。それとも、契約に従い、賢明な判断を下すか」
「供給源の秘密を渡せ。そうすれば、君の命も、魔力も、そして、私が約束した輝かしい未来も、全て守られる」
カシムの顔から、血の気が完全に引いた。
喉元に突きつけられたナイフの、冷たい感触が、その決断を急かす。
そうだ、賢い選択。ここでゴブスケを売れば、自分は助かる。金も、組合での地位も、そしてヘリオ様を通じて、王宮への足がかりすら手に入るかもしれない。
それは、彼がずっと夢見てきた成功そのものだ。必要なのは、目の前のゴブリンを見捨てる、ほんの少しの決断だけ。
彼は俺の姿を見た。
フードで顔も分からない、ただ一人この絶望的な状況で背筋を伸ばして立つ、小さな相棒の姿を。
罠だと知りながら、自分のために、この死地までついてきてくれた男の姿を。
『相棒』。自分が、ただの駒として利用するために、馴れ馴れしく口にした言葉。だが、このゴブリンは、その言葉を、真っ直ぐに信じてくれた。
そして彼は、自分の震える手を見つめた。
この手は、人を騙し金を稼ぐためだけにあったのか?
違う。
この手は、いつか偉大な魔法使いになるためにあったはずだ。エリアスや、ヴァレリウスのような、本物の。
ヘリオやサイラスのような、腐った連中の下僕になるためじゃない。
彼は一度、ぎゅっと固く目を閉じた。まるで何かを振り払うかのように、長く震える息がその唇から漏れる。
そして、次にその目がゆっくりと開かれた時、そこに宿っていた怯えの色は、決意という硬質な光の裏に、かろうじて押し込められていた。
彼は震えを無理やり押さえ込むように拳を固く握りしめると、サイラスのナイフを、震える手で、しかし、断固として押し退けた。
そして、ヘリオをまっすぐに見据えた。
「……断る」
カシムの声が静かな倉庫に響いた。
「俺は……あんたらの下僕になるために、魔術師になったんじゃねえ! 一流に、なるためだ!」
彼は叫んだ。腹の底から、絞り出すように。
ヘリオは心底つまらなそうに、肩をすくめた。
「……そうか。愚かな選択だ。契約は履行されるぞ。君はもう、二度と魔法を使えなくなるが、それでもいいのだな?」
「……上等だ!」
カシムは叫び返した。
「三流のままで、あんたらの犬になるより、よっぽどマシだ!」
「……よろしい」
ヘリオの目が、冷たく細められた。
「サイラス殿、後は、お任せします。契約違反者と、そのお仲間だ。好きになさい」
サイラスが、チンピラたちに向かって顎をしゃくる。
「やれ。二人とも、港の魚にくれてやれ」
男たちが武器を握りしめ、下品な笑みを浮かべながら、じりじりと俺たちとの距離を詰めてくる。
絶体絶命。
俺は杖を構えた。先端のマナの結晶が、冷たい青色の光を放ち始める。
カシムはその背中を守るように隣に立った。彼の震える手から、ちっぽけだが、決して消えない、決意の炎が生まれる。
俺たちの間にもう言葉は必要なかった。
彼が本当の意味で俺の「相棒」になった瞬間だった。
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