第38話:蛇の巣への招待
俺たちの間に重い沈黙が流れるようになってから、数日後のことだった。
一人の男が、俺たちの隠れ家を訪れた。裏路地の薄汚れた壁に、溶け込むような影をまとっている。翠蛇組合の男だった。
彼は一枚の、分厚い羊皮紙を、両手でカシムへと差し出した。
「……なんだ、これは」
「組合長からの、ご招待状だ」
男の口元が、かすかに歪んだ。
「お前たちとの、輝かしい未来を祝して、ささやかな宴を開いてくださるそうだ。今夜、港の第七倉庫で、お待ちかねだぜ」
カシムは、その立派すぎる羊皮紙を、呆然と受け取った。
美しい筆記体で彼の名前が記され、翠蛇組合の長サイラスの署名がなされている。
「……おい、ゴブスケ。……なんだ、これは?」
カシムの声はいつもの自信過剰な響きを失い、ただ上ずって震えていた。
「意味が分からない。この間、俺たちのことを嗅ぎまわっていた連中だぞ? なんで、そいつらが、俺たちをパーティーに招待するんだ?」
彼は部屋の中を歩き回り、必死に答えを探そうとしていた。
「罠……なのか? いや、だが、それなら、なぜこんな回りくどいことを? これは……もしかして、俺たちの実力を認めて、本当に、仲間になろうってことなのか……?」
彼の頭の中が、疑問符でぐちゃぐちゃになっていく。
去り際に、組合の男が残した言葉が、その混乱に拍車をかけた。
「組合長だけじゃない。お前たちのことを、高く評価しておられる、『とても偉いお方』も、いらっしゃるそうだ。くれぐれも、粗相のないようにな」
『とても、偉いお方……』
その言葉を聞いた瞬間、カシムの顔から血の気が引いた。宮廷薬師長、マスター・ヘリオ。その顔が、彼の脳裏に浮かんだのだ。
俺は、そんな彼の混乱を見ていた。
俺には人間の複雑な駆け引きや、裏切りは分からない。だが、もっと、単純なことは分かる。
俺は、カシムの手から羊皮紙を受け取った。そして、そこに書かれた、一つの言葉を指差した。
「港。第七倉庫」
「ああ、それが、どうしたって言うんだ」
「……蛇の、巣だ」
俺の声は低く、部屋の隅まで響いた。
「蛇が、獲物を、自分の巣に、誘っている。……ただ、それだけだ」
俺の言葉に、カシムの混乱した思考が、ぴたりと止まった。
そうだ。どんなに立派な羊皮紙で飾られていても、どんなに甘い言葉が書かれていても、その本質は変わらない。
蛇の巣に、自ら足を踏み入れろ、という、死への招待状だ。
「……じゃあ、どうするんだよ。断るか? 断ったら、どうなる……?」
行けば、罠。行かなければ、報復。
どちらにしても、地獄だ。
カシムは頭を抱え、その場にうずくまった。
恐怖と、後悔と、そして、断ち切れない野心。彼の心が、その間で引き裂かれそうになっていた。
やがて、彼は震える足で、ゆっくりと立ち上がった。
「……俺は、行くよ」
彼の声はか細かったが、その瞳には奇妙な覚悟が宿っていた。
「俺は、俺自身の野心に、賭けたんだ。だったら、この勝負から、逃げるわけにはいかねえ。……お前は、ここにいろ。これは、俺が、一人で招いたことだ」
彼は杖を手に取ると、一人で扉へと向かった。
俺は、その痩せて頼りない背中を見つめていた。
見捨てればいい。こいつの自業自得だ。
それが、最も賢い、生き残るための選択。
だが、足が、動かなかった。
頭の中に、この数週間の日々が蘇る。
くだらない冗談で笑い合った夜。初めて金貨を手にした時の、子供のような笑顔。
そして、俺を「相棒」と呼んだ、あの時の、少し照れたような顔。
俺は静かに立ち上がると、自分の杖を強く握りしめた。
「……俺も、行く」
「……なんでだよ! 罠だって、分かってんだろ!」
カシムが、振り返って叫ぶ。
「……お前は、俺の、相棒だからだ」
その言葉に、カシムは目を見開いたまま、動けなくなった。
俺は彼の横を通り過ぎ、先に扉を開けた。
「行くぞ」
王都の夜は、霧が深く、ランタンの光をぼんやりと滲ませ、すぐ先の道も見通せない。
俺たちは港地区の、水たまりのできた石畳の上を、並んで歩いていた。潮の匂いに、魚の腹わたの腐った匂いが混じる。遠くから、誰も乗っていない船が、波に揺れて、ぎい、ぎい、と軋む音が聞こえてくる。俺たちの間にもう、言葉はなかった。
やがて道の先に、巨大な黒い影が見えてきた。
港の第七倉庫。
その二階の窓から、一つだけ明かりが漏れている。まるで、俺たちを誘う獣の目のように。
俺たちは倉庫の前で、一度だけ顔を見合わせた。
その目には、同じ、悲壮な覚悟の色が浮かんでいた。
俺は、重い鉄の扉に手をかける。
ギィィィィ……と、錆びた蝶番が断末魔の悲鳴を上げた。
俺たちは、蛇の巣の暗い口の中へと、足を踏み入れた。
そして、俺たちの背後で、扉は、ゴウ、と、重い音を立てて、閉ざされた。
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