第37話:薬師長の甘言
翌日の朝。俺たちの隠れ家は、夜明け前から、奇妙な熱気に包まれていた。
カシムが、ほとんど一睡もせずに、部屋の中をうろつき回っていたからだ。
彼は、鏡の前で、何度も自分の表情をチェックしていた。
「マスター・ヘリオ、お待ちしておりました!……いや、これじゃあ、へりくだりすぎか。……ようこそ、マスター。お待ちかねでしたぜ!……これじゃ、軽薄すぎる!」
一人でぶつぶつと、リハーサルを繰り返している。
俺は、そんな彼の様子を、部屋の隅の暗がりで、杖を抱きしめながら、ただ黙って見ていた。
「カシム」
俺は、静かに声をかけた。
「本当に、大丈夫か。あの男の目、蛇のようだった」
「蛇だと? あれは、大人物の眼光ってやつだよ、相棒!」
カシムは、俺の懸念を、自信満々に笑い飛ばした。
「心配するな。この俺様が、きっちり有利な契約を結んでみせるさ」
彼はそう言ったが、その指先が、小刻みに震えているのを、俺は見逃さなかった。
やがて、扉をノックする音が響いた。
ヘリオは、約束通り、再び姿を現した。
彼は、昨日とは違い、近衛魔術師を伴っていなかった。たった一人で、まるで旧知の友人を訪ねるかのように、にこやかに俺たちの部屋へと入ってきた。
そして、開口一番、テーブルの上に、ずっしりと重い、金貨の袋を、これ見よがしに置いた。
チャリン、と。
部屋の、貧しい空気に、不釣り合いなほど、豊かで、そして、危険な音が響いた。
カシムの喉が、ゴクリと鳴る。
「約束の、金貨だ。君たちの薬草は、全て、これで買い取ろう」
ヘリオは、椅子に腰掛けると、本題に入った。
彼の言葉は、蜜のように甘かった。
「カシム君。昨夜、一晩、考えたのだよ。君の、そして、君の師の素晴らしい才能が、市場の片隅で埋もれているのは、この国にとって、大きな損失だと」
彼は、まるで父親が息子を諭すかのような、優しい目でカシムを見た。
「知っているかね? 王都の薬草市場は、長年、『翠蛇組合』という、腐敗した組織に牛耳られておる。奴らの長であるサイラスという男は、強欲で、目的のためなら手段を選ばん。奴らは、王宮と癒着し、不当な価格で、質の悪い薬草を納入し続けてきた。私自身、薬師長として、ずっと、その状況を憂慮しておったのだよ」
ヘリオは、嘆かわしげに、首を振ってみせる。
「私は、この腐った現状を、改革したい。王家と、この都の民のために、本当に価値のある薬草を、適正な価格で供給できる、新しい流れを作りたいのだ。だが、私一人では、どうにもならん。私には、若く才能にあふれた信頼できるパートナーが必要なのだよ」
カシムは、その言葉に、完全に心を奪われていた。
金と、名声だけではない。腐敗した組織を打ち破る、「正義の味方」という甘美な響き。
彼の虚栄心を、完璧にくすぐる物語だった。
「私と、手を組んでくれたまえ」
ヘリオは、カシムの肩に、そっと手を置いた。
「最初は、秘密裏にだ。我々の動きを、組合に悟られてはならん。君はこれまで通り、君の師から薬草を仕入れ、それを私だけに卸してほしい。我々で、王宮の薬草ルートを、完全に掌握するのだ。……そうすれば、君には、富と、そして、いずれは宮廷薬師としての、確かな地位を約束しよう」
カシムの目が、恍惚と潤んでいた。
俺は、暗がりの中で、必死にサインを送った。首を小さく横に振る。
だが、今のカシムには、もう俺の姿は見えていなかった。
彼は、ヘリオの前に深く頭を下げた。
「マスター・ヘリオ……! 光栄です! このカシム、いえ、我々師弟は、あなたのその、高潔なる理想の、剣となりましょう!」
『……違う、カシム。俺たちは、剣じゃない。ただの、使い捨ての駒にされるだけだ』
俺の心の叫びは、届かない。
ヘリオは、満足げに微笑むと、懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
その羊皮紙には、微かに黒い魔力がまとわりついているのを、俺の目は捉えていた。
「うむ。そう言ってくれると信じておったよ。……これは、我々のパートナーシップを、正式なものにするための、契約書だ。もちろん、魔法的な拘束力を持つ。我々の相互の利益と、そして、秘密を守るためのな」
その、用意周到さに、俺の胸騒ぎは、確信へと変わった。
俺は、咄嗟に杖を床に、コツン、とわざとらしく突いた。
その音に、カシムが一瞬、我に返ってこちらを見る。
俺は、もう一度強く首を横に振った。
だが、カシムは、俺の警告と目の前の金貨の山を天秤にかけた。
そして、一瞬だけ迷った後、彼は、俺から目をそらした。
「サインを、したまえ。これで、君も、我々の仲間だ」
ヘリオが、羽ペンを差し出す。
カシムは、何の疑いもなく、震える手でそれを受け取り、羊皮紙に自分の名前を書き記した。
その瞬間、契約書が、禍々しい紫色の光を放ち、そして消えた。
契約は成立した。
俺たちの運命が、俺たちの知らないところで、完全に、売り渡された瞬間だった。
ヘリオは、満足げな笑みを浮かべると、部屋を去っていった。
「はは……ははは! やったぞ、ゴブスケ! 俺たちは、ついに、やったんだ!」
カシムが、金貨の袋を、高々と掲げて叫ぶ。
俺は、そんな彼の狂喜の姿を、ただ冷たい目で見つめていた。
彼は、自らの魂を売り渡したことに、まだ気づいていない。
俺の耳には、遠い未来で、俺たちの首を締め上げる、絞首台の軋む音が、確かに聞こえているような気がした。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




