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第36話:宮廷薬師の訪問

 

 翠蛇組合の警告は、すぐさま、俺たちの「共同事業」に、暗く重い影を落とした。


 これまでカシムを「先生」と呼んで、高値で薬草を買っていた市場の商人たちは、手のひらを返したように、彼を避けるようになった。


 俺たちの収入は、激減した。

 隠れ家には、再び、貧しさと、焦燥に満ちた空気が漂い始めていた。

 俺は、ため息をついた。


 その視線の先には、カシムが金回りが良かった頃に買い込んだ、ガラクタたちが転がっている。どこの獣の毛とも知れない、けばけばしい毛の長い絨毯。そして、意味もなくキラキラと光る、ガラス細工の鳥の置物。


「……だから、無駄遣いをするなと、言ったんだ」

 俺の静かな言葉に、カシムは、ぐうの音も出ないようだった。彼は、テーブルの上の、安物のエールの瓶を、ただ、忌々しげに見つめている。


「クソッ! あの蛇野郎ども……!」

 カシムは、毎日、酒を煽って、組合への悪態をついた。


「このままじゃ、ジリ貧だ。どうする……どうすりゃいいんだよ……」

 俺は、そんな彼を横目に、ただ黙々と、新しく手に入れた『高等幻術魔法入門』の解読に没頭した。


 次に脅威が訪れた時、俺は、もっとうまく、自分の姿を隠せるようにならなければならない。

 自分の身と、そして、あの役立たずだが、今や唯一の「相棒」となった男の身を守るために。


 そんな、重苦しい空気が続いていた、ある日の午後。

 コン、コン、と。

 俺たちの隠れ家の、古びた扉を、誰かが、静かに、しかし、丁寧な仕草でノックした。


 俺とカシムは、同時に、びくりと体を震わせた。

 翠蛇組合の連中か!? 


 俺は、音もなく杖を手に取り、カシムは、顔を真っ青にしながら、扉に駆け寄った。

 彼は、扉の小さな覗き穴から、外の様子を窺うと、信じられない、という顔で、俺の方を振り返った。


「……嘘だろ……」

 彼の唇が、声もなく、そう動いた。


 彼は、震える手で、扉の閂を外した。

 そこに立っていたのは、一人の、品の良い老人だった。


 派手な魔術師のローブではなく、実直な学者が着るような、しかし、最高級の布地で仕立てられた、簡素なローブを身にまとっている。その顔には、深い知識と、そして、眠れぬ日々の疲労が刻まれていた。 


 その背後には、少し離れた場所に、あの、王宮の近衛魔術師が、二人、石像のように直立していた。 


 ただ者ではない。

 カシムは、ゴクリと喉を鳴らした。


「……ど、どちら様で……?」

 老人は、カシムの、そして、部屋の奥の暗がりに隠れる俺の姿を、値踏みするかのように、その鋭い瞳で、ゆっくりと見渡した。

 そして、穏やかな、しかし、有無を言わせぬ響きを持つ声で、名乗った。


「……君が、カシム君かね。私は、ヘリオ。王宮で、薬師長を務めておる者だ」

 宮廷薬師長。


 その言葉の重みに、カシムは、声も出せずに、ただ、呆然と立ち尽くすだけだった。

 ヘリオと名乗った老人は、カシムの許可も待たずに、部屋の中へと足を踏み入れた。 


「無礼は、承知しておる。だが、少々、急を要する事態でな」

 彼は、部屋の混沌とした様子には、一切、興味を示さなかった。 


 ただ、テーブルの上に、俺が仕分けのために置いていた、数本の薬草に、その視線を注いでいる。


「噂は、かねがね。君が、極めて希少な薬草を、独自のルートで仕入れている、と。……まずは、その腕前、見せてもらおうか」

 彼は、薬草の専門家として、カシムを試すように言った。


 カシムは、冷や汗をかきながら、俺が教えた通りの、付け焼き刃の知識を披露する。 


 ヘリオは、その拙い説明を、黙って聞いていたが、やがて、テーブルの上の一本、『月影草』を、指先で、そっとつまみ上げた。 


 彼は、懐から、魔法のルーペを取り出すと、その葉脈を、食い入るように見つめた。葉を一枚ちぎり、その香りを確かめる。 


「……見事なものだ。この品質は、本物だ」

 ヘリオの目に、初めて、本物の感嘆の色が浮かんだ。


 彼は、俺が隠れる暗がりへと、ちらりと視線を向けた。その目は、まるで、俺の存在など、最初から見抜いているかのようだった。

 彼は、すぐにカシムへと向き直る。


「カシム君。単刀直入に言おう。王宮は今、ある、困難な問題に直面しておる」

 彼の声が、少しだけ、翳りを帯びた。


「ご存知かもしれんが、王妃陛下が、こよなく愛されている、温室の『月光花』が、原因不明の病に侵されておる。宮廷の魔術師、薬師、その全てが、この数ヶ月、治療法を探しておるのだが……病状は、悪化する一方だ」

 彼は、金貨がずっしりと詰まった、大きな革袋を、テーブルの上に置いた。 


「これは、君が持つ、全ての薬草の代金だ。言い値で買おう」

 そして、続けた。


「それだけではない。我々は、この病に効く可能性がある、あらゆる薬草を、探している。君の、その『謎の師』の知恵を、ぜひ、お借りしたい」

 その丁寧な物腰の奥に、決して断ることを許さない、王宮という巨大な権力の、冷たい圧力を感じさせた。


 翠蛇組合とは、質の違う、だが、それ以上に、抗いがたい脅威。

 ヘリオは、最後に、もう一度だけ、俺が隠れる暗がりを見た。


「明日、また、伺おう。君たちの薬草を全て買い取るための金貨と、そして、我々からの『正式な提案』を持ってな。……良い返事を、期待しておるよ」

 彼は、それだけ言うと、近衛魔術師たちを伴い、静かに部屋を去っていった。

 後に残されたのは、金貨の匂いだけを残した、重い沈黙だけだった。


「……見たか、ゴブスケ……」

 カシムが、震える声で言った。


「宮廷薬師長だぞ……! 俺たちの、大チャンスだ……!」

 彼の目には、恐怖と、それ以上に、強烈な野心が燃えていた。

 だが、俺は、静かに首を横に振った。 


「……これは、罠な気がする」


「罠!? これは、天からの蜘蛛の糸だろ!」


「いや、わからない。……わからないけど、嫌な予感がする」

 俺の、理屈ではない、ゴブリンとしての野生の勘が、警鐘を乱打していた。


 だが、カシムの、野心に燃える目は、もう、目の前のチャンスしか見えていない。

 俺は、そんな彼を、ただ、見つめ返すことしかできなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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