第35話:市場の噂
俺たちの「共同事業」が軌道に乗ってから、数週間が過ぎた。
隠れ家の暮らしは、以前とは比べ物にならないほど豊かになった。
床には、カシムが買ってきた毛足の長い絨毯が敷かれている。テーブルの上には、干し肉ではなく、市場で買ってきたばかりの、温かい肉と野菜のシチューが、鍋の中でいい匂いを立てるようになった。俺が読むための魔導書も、今では十冊以上に増えている。
この安定した生活は、俺とカシムが、毎日繰り返す、危険な綱渡りの上に成り立っていた。
その日は、冷たい雨が降っていた。
俺たちは、いつも通り、王都の西門へと向かう。雨のせいで、衛兵たちの機嫌は、いつもよりさらに悪い。
案の定、新顔らしき若い衛兵が、俺たちを呼び止めた。
「おい、お前たち。毎日毎日、物好きだな。こんな雨の中まで、薬草採りか?」
「ええ、ええ、衛兵様。彼の火傷には、雨の日にしか採れぬ、特別な苔が必要でして……」
カシムが、いつものように悲劇の主人公を演じる。
だが、若い衛兵は、疑念の目で俺を睨みつける。
「……本当に、火傷なのか? 少し、その助手の顔を見せてみろ」
まずい。
俺は、ローブの下で杖を握りしめた。
カシムの顔から、すっと血の気が引くのが分かった。
だが、その時、隣にいた年配の衛兵が、面倒くさそうに口を挟んだ。
「やめておけ、新人。見ても、気分のいいもんじゃないぞ。それより、後ろがつかえてる。行かせてやれ」
若い衛兵は、納得いかない顔をしながらも、先輩の言葉には逆らえず、渋々、道を開けた。
俺たちは、足早に門をくぐり抜ける。
俺たちの日常は、こんな、薄氷一枚の上にあるのだ。
その危険な日課は、しかし、俺たちに確かな富をもたらした。
カシムが持ち込む、高品質で希少な薬草は、すぐに王都の錬金術師や薬師たちの間で評判となっていった。
その日の午後。
カシムは、王都でも最高級と名高い、錬金術師ギルド御用達の店を訪れていた。
店の主である、高名な錬金術師の老人は、いかにも気難しそうな、鼻持ちならない男だ。彼は、カシムのことなど、まるで存在しないかのように、水晶の乳鉢で何かの粉をすり潰している。
「……ごめんください、マスター。本日も、極上の品を、お届けに上がりました」
カシムは、いつもの軽薄さを完全に消し去り、卑屈なほどの営業スマイルを浮かべていた。
「ふん。また、あの『謎の師匠』とやらの、お土産かね」
老錬金術師は、鼻で笑いながらも、カシムが木箱から取り出した『月影草』を一瞥すると、その手を止めた。
彼は、魔法の単眼鏡を目に当て、月影草を、舐めるように観察し始める。
「……信じられん。これほどの純度の月影草は、二十年以上、この王都には入ってきておらん。若いの、君の師とは、一体何者かね? 」
「さあ、それは、私にも……。師は、大変な秘密主義者でして」
カシムは、完璧なポーカーフェイスで、そう答えた。
老人は、しばらくカシムを睨みつけていたが、やがて、ため息をつくと、金貨の入った重い袋を、カウンターに置いた。
「……よかろう。今日の分は、全て買い取ろう。……それと、カシム君。君の師は、他に、どんな薬草を扱っておるのかね? よければ、今度、ゆっくりと、話を聞かせてもらいたいものだ」
その目は、笑っていなかった。
その夜。
隠れ家に戻ってきたカシムの顔は、喜びと、それ以上に、強い疲労と恐怖に、引きつっていた。
「……やべえよ、ゴブスケ。思った以上に、話がデカくなってる」
彼は、あの高名な錬金術師とのやり取りを、俺に語って聞かせた。
「それだけじゃねえ。帰り道、ギルドの連中に、三人組に、路地裏で声をかけられたんだ。『お前の師とは、何者だ』『どこで、薬草を手にいれている』ってな。やけに、しつこかったぜ」
カシムは、ようやく、俺が抱いていた不安の、本当の意味を理解し始めたようだった。
彼の顔から、いつもの軽薄な笑みが消えている。
「俺たちは、ただ、金を稼いでいただけのつもりだった。だが、どうやら、もっと、ヤバい連中の、縄張りに、土足で踏み込んじまったらしい。……なあ、ゴブスケ。俺たち、これから、どうなるんだろうな」
俺は、窓の外を見た。
王都の喧騒は、いつもと変わらない。
だが、その奥に潜む、見えない何かが、俺たちの存在に気づき、その触手を伸ばし始めている。
錬金術師、薬師ギルド、そして、おそらくは、翠蛇組合も。
そんな、確かな気配があった。
俺たちの成功は、俺たちの首を、ゆっくりと、しかし、確実に締め上げ始めていた。
もう、後戻りはできない。
俺は、静かに立ち上がると、カシムが買ってきた、新しい魔導書を手に取った。
その表紙には、『高等幻術魔法入門』と書かれていた。
これから来るであろう、嵐に備えるために。俺は、もっと、強く賢くならなければならない。
隠れ家の、小さなランプの光の下で、俺は、黙々と、新しい知識を頭に詰め込み始めた。
俺たちの、つかの間の平穏な日々は、もう、終わりを告げようとしていた。
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