最終話:人間になりたかったゴブリン
崖の下を離れ、アンナの村へと続く道を歩き始めた。
夕日が木々の間から黄金色の光を投げかけ、俺の影を、長く、長く前に伸ばしている。
全ての思い出を胸に、全ての始まりの場所へ。
変異魔法は使わなかった。人間の少年の姿にはならなかった。
手に強く握りしめた杖。その先端に埋め込まれたマナの結晶が、俺の覚悟に応えるように、力強く温かい光を放っている。
この姿で、会いに行く。
アンナが「ゴブスケ」と名付けてくれた、ありのままの、緑色の肌を持つゴブリンの姿で。
それが、俺の長い旅の、最後の答えだったからだ。
森を抜ける。
視界が開け、懐かしい土地が広がった。実り豊かな畑、その向こうに立ち上る夕煙、小さな家々の並び。
アンナの村。
数年前、森の暗闇から見つめ、その窓から漏れる光に、俺は焦がれた。
あの光の中に、入りたい、と。
今、俺は、その光の中へと、自分の足で、堂々と歩いていく。
村の入り口に、立つ。
畑仕事を終え、家路についていた村人たちが、俺の姿に気づき、足を止めた。
一人、二人と、その数は増えていく。
誰も、悲鳴は上げない。石も投げない。
ただ、遠巻きに、信じられないものを見る目で、俺を見つめている。
その視線に、かつてのような剥き出しの憎悪はない。
困惑と、畏れと、そして……噂に聞く「英雄」への、静かな好奇。
彼らは知っているのだ。言葉を操り、人間と共に戦い、戦争を止めたゴブリンのことを。
俺は、動かなかった。
ただ、その時が来るのを、静かに待っていた。
やがて、人垣が、波が引くように左右に分かれた。
その開かれた道の先から、一人の女性が、こちらへ歩いてくる。
夕陽の逆光を浴びて、キラキラと輝く、栗色の髪。
俺が記憶しているよりも、背はずっと高くなっている。素朴だった村娘の服は、落ち着いた色合いの、大人の女性のドレスに変わっていた。
だが、その眼差しは、あの頃のままだった。
真っ直ぐで、優しくて、俺の心を射抜く光。
成長した、アンナだった。
彼女は、俺の緑色の姿と、手に携えた杖を認めると、一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
だが、次の瞬間には、その唇が花のように綻んでいく。
あの頃と、何も変わらない、太陽のような笑顔を浮かべた。
彼女は、俺の目の前で、足を止めた。
長い、沈黙。
風の音も、村の喧騒も、世界中の音が消えたようだった。
ただ、俺と、君だけが、ここにいる。
俺は、震える喉で、ずっと言いたかった言葉を、紡いだ。
それは、人間の言葉でも、ゴブリンの言葉でもない。
誰の真似でもない、俺だけの、魂の宣言。
「……俺はゴブリンでも、人間でもない」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、ゴブスケだ」
その言葉に、アンナは、瞳に涙を一杯に溜めて、ただ一言、答えた。
その声は、俺が夢にまで見た、世界で一番優しい響き。
「おかえり、ゴブスケ」
その一言で、全てが報われた。
どれだけ傷ついても、どれだけ遠回りをしても。
俺の長い旅は、ようやく、本当の場所にたどり着いたのだ。
俺は、何も言えずに、ただ、こぼれ落ちる涙を隠そうともせずに、何度も、何度も頷いた。
アンナの笑顔が、夕日と涙の中で、滲んで輝いて見えた。
涙が止まった頃、彼女は、ハンカチで俺の頬を拭いながら、微笑んだ。
「これから、どうするの? ゴブスケ」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。
アンナの顔を見た。彼女の後ろで、まだ戸惑いながらも、敵意のない瞳で俺たちを見守る村人たちを見た。そして、村の向こうに広がる、俺が生まれ育った故郷の森を見つめた。
調停役としての仕事は、まだ山積みだ。人間とゴブリンが、本当に笑い合える日は、まだ遠いかもしれない。俺が作るべき道は、まだ始まったばかりだ。
けれど。
俺は、アンナに向かって、初めて心の底から笑った。
その笑顔は、かつて人間になろうとして鏡の前で練習した、ぎこちないものではない。
ありのままの、ゴブスケとしての、本当の笑顔だった。
「さあな。……でも」
俺は、彼女の手を、そっと握った。
杖の先で、二人の再会を祝うように、結晶が瞬いた気がした。
「もう、独りじゃない」
俺たちは、二人並んで、地平線へと沈んでいく夕日を見つめていた。
夜が来れば、また朝が来る。
物語は終わらない。
俺たちの、本当の旅は、ここから始まるのだ。
(完)
本作を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
プロットなしで挑んだ本作は、私にとって試練の連続でした。
矛盾や書き直しに頭を抱え、PVの伸び悩みに不安を感じることも多々ありました。
ですが、そんな不格好な作品にも関わらず、最後までついてきてくださった読者の皆様。
皆様の応援があったからこそ、ゴブスケは故郷へ帰り、私も「完結」というゴールテープを切ることができました。
この物語が、誰かの心に残る物語になれたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
本当にありがとうございました!
え?まだある?
最終回じゃないぞよ もうちっとだけ続くんじゃ




