第6話 教室でお掃除をする件
「なかなかの歓迎ぶりじゃな」
時計の針が動く音が聞こえるほど静まり返った教室の中、動いているのはシーゼルだけだ。
小柄な体が入り口からゆっくりと歩いてくるだけなのに、その姿からはまるで獅子が堂々とサバンナを闊歩しているような威圧感が漂っていた。
おそらく綾の机に対する行為は校門前の事件が起こるずっと前にやられていたはずだ。
こんな机に水をかけたり死者を悼むかのうように花を供えるといったいじめの証拠が残りかねないやり口は、万が一にも実行中に被害者に目撃されるわけにはいかないのだから。
「こういうことはよくあるのかのう?」
「ここまであからさまなのは初めてにゃ」
だからクラスの空気が張りつめていたのかにゃと綾は納得する。
大々的にいじめをやろうとした矢先に、いじめる相手が不良を一撃でKOするほどの戦闘力をもっていると知ってしまったのだ。
しかし飾ってある花はともかくすでにびしょびしょに濡らしてしまった机の痕跡を消すのは難しい。下手に始末をしようと掃除をしても、その掃除をしている最中に綾に見られたら犯人だと断定される可能性が高い。
そう考えてクラスメイト全員が「いじめの痕跡を消したいけれど、バレそうで動けない」という自縄自縛に陥っていたのだ。
これまでの綾ならば表面上は何でもない風に気丈にふるまっても、自分の机の惨状にがっくりしていたはずだ。
だがこうしてシーゼルという世界に二人といない魔法使い――しかも物理的にも結構強い――の肩から客観的に眺めているとそれが些細なことに思えてくるのが不思議だった。
例えるなら戦車に乗っている時に子供に水鉄砲を向けられたような、まるで問題にする方が馬鹿らしい感じである。
クラスメイトだけが一方的に緊迫した空気の中、綾とシーゼルが自分の席へと到着する。ここまで彼女の足音以外一切の物音はなし、隣りの教室から挨拶や雑談が届いてくるだけだ。
その中で動いているのは肩に乗せた黒猫のぬいぐるみとお喋りをしながら歩を進めていた少女。
汚され、不吉に花を飾られた自分の机を確認してもにこやかさを崩していないだけに怖い。
シーゼルが――クラスメイトはまだ彼女を綾だと認識しているが――ようやく自分の席についた今、一体どういう行動を起こすのか。
全員が固唾を呑んで成り行きを見守っている。
その緊迫した空気をぶち壊すように、いきなり教室の扉が開け放たれた。
予想外の方向からの物音にビクッと体を震わせるクラスメイト。
入ってきた細身のデザイナースーツを寸分の隙もなく着こなした担任教師は、フレームレスの眼鏡をくいっと持ち上げてクラスを見回す。
そして不快気にまだ席に着く前のシーゼルに目を留めた。今にも舌打ちしそうに表情を歪めると、首を振って出席簿を開く。
「ほらほらお前たちは動物園の猿なのか、教師が来たらさっさと席に着け。出席をとるぞ」
どこか苛立ちを秘めた耳障りの悪い命令口調である。
今も教室を見回した際に目の当たりにしたはずの、綾の席が汚されている状況についても彼は気がつかなかった振りをするつもりのようだ。
最初から期待はしてなかったが、やはり自分のクラスの担任はこんなものかと綾の天を突いていた尻尾と髭がちょっと垂れ下がった。
だが、それは早計だったようだ。
「彩田、自分の机がそんなに汚れていても気にならないのか? さっさと掃除をしろ」
ピンとまた空気が張り詰める。
ああ、にゃるほど。綾は得心した。
このクソ教師はイジメを無視するどころか、被害者に責任を負わそうとするのだ。おそらく彼はまだ校門で起こった事件を把握してないのだろう。だから綾のことを完全に舐め切っている。
たしかに担任は生徒から慕われるタイプでも、同僚とも上手くやっていけるタイプではない。今朝起きたばかりの校内ニュースに疎くてもおかしくない。
――うちの高校の教師採用基準ってどうなってるにゃ? 生徒指導の黒根も粗暴だしこっちはコミニケーション能力が不足、そして両方とも生徒に責任転嫁が常識だなんて、私立で進学校ならもう少し教師の質を精査してもいいんじゃないかにゃ。
そんな疑問と哀れみを持った綾だが、シーゼルの感想は違ったようだ。
陶器が割れる鋭い音が耳に刺さる。
クラスにいる全員の視線がその発生源に注がれた。
綾の机で飾られていた花瓶が机から落ちて床で割れていた。
そしてこれが教師対女子高生とぬいぐるみの戦いを告げるゴングとなった。
「おや、どうしてこんなところに花瓶があるのかのう?」
「まったく不思議にゃ」
注目を一身に浴びながらリラックスしている一人と一匹。
「……うるさいな、私はさっさと掃除をしろと言ったはずだが」
うちの担任が優しくなるのはキレる前にだけ、だから余計にその落差が怖い。そうクラスメイト同士で囁かれている通り、爆発寸前の顔を赤く染めた担任教師の声からはむしろこれまでの尖った響きは消えていた。
そしてまたも静まり返った教室の空気を自分の威圧感だと勘違いした教師が怒鳴ろうとする刹那、もっと静かで柔らかい声が室内を制した。
「うるさい、黙れ」
一段と静けさが強まる。
これまでは隣の教室やグラウンドなどからざわめきが聞こえてきたが、今度はそれさえも教室内への進入を許されなくなった。
無音という自然にはあり得ない環境が逆に耳鳴りがするほど鼓膜を圧倒している。
結界に包まれたような教室で、シーゼルが告げる。
「お主が掃除をするんじゃ」
「は?」
ぽかんと口を開いた阿呆面をした担任などクラスメイトの誰もが見たことはなかった。
「だからお主が掃除をするんじゃ」
「バ、な、なにを言って」
「ワシはお主に掃除をしろと言っている」
シーゼルは最高裁判官が死刑判決を読み上げるように、担任はそれに対して裏返った声で必死に抗議する被告ぐらいに威厳の差がある。
「掃除をしろと言ってるにゃ」
「それはもう聞いた……ってなんで彩田はぬいぐるみなんて持ってきているんだ! 学業や部活動に必要ないものは校内へ持ち込み禁止だぞ!」
「これは綾に絶対必要なものだ、それよりも早く掃除をしろ」
「はあ? だから……」
「掃除をしろと言っている」
「だから…‥今するところだろう」
クラスメイトからどよめきが上がる。
いけ好かない担任に掃除をさせるという偉業を達成し、彼らから畏怖の眼差しを受ける対象となったシーゼルはなぜか浮かない顔だった。
「おかしいのう、校門でも思ったが昔よりも暗示の効きが悪い。なぜじゃ?」
「……もしかして今のは相手がメガネかけてたせいかじゃないかにゃあ」
「そのぐらいで効きが悪くなるはずがないんじゃが……」
「元の世界ではそういうことはなかったのかにゃ?」
シーゼルは顎を撫でて記憶を探る。この仕草をするたび、少女のすべすべした肌に顎髭がないのを少しだけ寂しがっているように見える。
「ふむ、そうじゃな……個性的……まあ早い話がアクの強い奴ほど暗示は効きづらかったな」
「それって暗示は雑魚にしか効かなかったってことかにゃ?」
「まあそうじゃな。大物ほどアクが強いのは当然じゃったし。じゃからこの学園の番長や生徒会長が小物なら問題ないんじゃが」
「ああ、それじゃあ……問題しかないにゃ」
猫のぬいぐるみという丸い体ながら肩をすくめるという器用な仕草をする綾。
「うちの頂点にいる学生二人は特別製だからにゃ」
「ほう……それは楽しみじゃな」




