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第3話 とりあえず拳で挨拶した件

「あれシーゼル大丈夫かにゃ? 目が真っ赤だよ?」

「ふむ、心配はいらん。予想以上にあの百科事典という書物が面白くてのう。ワシでさえ聞いたことのない知識が惜しげもなく記してあるので、ついつい読みふけって徹夜をしてしまっただけじゃ。かかか、この年になってまだまだ学ぶことがあるのだから面白い。ワシほど長生きしてもまだまだ足りんとは、人生は捨てたもんじゃないのう」


 朝日が差し込むリビングの床から心配そうに黒猫のぬいぐるみが心配そうに見上げ、それに爺臭い口調で小柄な少女が答えるというシュールな光景だ。

 しかし分厚い三冊組の百科事典を一晩で読みきり、また内容をある程度とはいえ理解しているのだからシーゼルはとんでもない頭脳をしている。また自殺を企てた少女の前で「人生捨てたものじゃない」と言い放つ無神経さも並ではない。

 

「徹夜なんて健康と美容に悪いんだからにゃ! もう少しそのボディに感謝の心を持って大切に使うべきにゃ!」

「そういうお主はよく寝ておったのう。普通魂を無機物に移せば睡眠の必要もなくなるはずじゃが……あそこまですやすやと眠れるとはなかなかこっちも興味深いのう。どうやってぬいぐるみの身で鼻ちょうちんを作れるのかちと調べてみたくはあるな」

「あー、そういえば今日から学校に行くって言ってたけど本気かにゃ? 通学してた私が断言するけれど空気悪いよあそこは。しかもいじめられてた私の姿で行くってなると、かなり厳しいんじゃないかにゃあ」


 露骨に話を逸らす綾。さすがに寝不足の赤い目をギラつかせたシーゼルに色々と調べられるのは嫌らしい。

 だがいくら自殺を試みるほど追い詰められていたとはいえ、肉体を奪われたのにその相手が自分の代わりに通学するのを心配するのだから相当なお人好しである。

 いや、そうではない。

 自分の体を勝手に使われているのは癪に障るが、それ以外にはシーゼルに悪印象を持っていない。だが学校に対する印象は彼に対するよりも遙かに悪いからだ。


「綾よお主はもう少し考えて発言せい。世界の王を目指す者がいちいち若人(わこうど)の戯れでどうこうされるはずがないじゃろう。それより、お主のことや通っている学校について色々話してくれんか。一般的知識はざっと百科事典から記憶したが、お主や通う高校などに関する情報は不足しておるからな」

「それは構わないにゃ。でもうちの学校は名門っていう変なプライドがあるせいと、一部の父兄による寄付金の額がけた外れに大きいせいで教育レベルやテストとかじゃなくて人間関係がややこしいんにゃ。初手を間違えるとすぐ詰んでしまうというか……」


 黒猫なのに顔色が悪いとはっきり判別できるほど嫌そうに喋る綾。

 

「まあこの姿で行く以上は、お主が初手を間違ったのを引き継ぐのは変えられん。ならば詰んだ状況を力尽くで盤上ごとひっくり返せばいいだけじゃ」

「ど、どうするつもりにゃ?」

「かかか、百科事典によると日本の学校の頂点には必ず表看板の生徒会長と裏を仕切る番長がいるらしいのう。その二人の首を取れば自然とワシが学校の王となれるじゃろうが」

「……あの百科事典の内容はそんなにおかしかったかにゃ? それは現代の高校の発想じゃなく戦国時代の下克上にゃー!」

「ふむ、戦国時代――この国の動乱期の名称だったか。そこでまずは群雄割拠する一学校の番長から順々に規模を大きくする下克上を繰り返したうえで、天下布武を達成した者が天下人たる暴れん坊将軍になれるんじゃったよな。なるほど、ワシの手法はこの国の伝統にも(のっと)っておるようで結構なことじゃ」


 満足げに何度も頷くシーゼルの姿に説得するだけ無駄だと思い知ったのか「そっかー、なら下克上頑張るにゃー」と力ない応援をする。


「うむ、だがその前に腹ごしらえをしなければならんのう。百科事典を読みながらワシが的を射ていると感心したこの国の言葉の中に、腹が減っては戦ができぬというのがあった。まずは腹を満たさねばな」

「ああ、結局昨日はなにも食べにゃかったからにゃ」


 いろいろあったせいで、夕食のことなど綾の頭からも吹き飛んでしまっていた。まあそれは世界を股に掛けたシーゼルも同じだったから致し方がない。

 自由にならないぬいぐるみの姿でもあれこれと世話を焼こうとする黒猫の綾。


「そこの棚にパン――は分かるにゃ? そうそれとハムは冷蔵庫――そうその白くて大きいクローゼットみたいなのを開けてすぐ右にあるにゃ。難しい料理はする暇がないからそれでサンドイッチでも作って朝はそれで済ますにゃ」

「ふむこれか」


 磁石を使っている冷蔵庫の扉にちょっとだけ開けるのに手こずっったが、シーゼルはすぐに順応してハムを取り出す。それからさらに綾の指示通りマヨネーズとマスタード、それに飲み物としてミルクも手にする。


「とりあえずそれらをパンに挟めば簡単な朝食にはなるにゃ」

「いささか素朴じゃが、パンは真っ白で混ざりものもないしハムもなかなか素材は良さそうじゃな。これは高級品じゃからなのか? それともこの国ではこれぐらいが当たり前なのかの?」


 しげしげと皿の上にある自分で作った幾分不細工なサンドイッチを眺めるシーゼル。


「別にパンもハムも特別高級ってわけじゃないにゃ。日本ではこのぐらいの物は普通にゃ」

「なるほど……豊かな世界、いや豊かな国なのだな」


 喜ばしいことに、日本の食事はシーゼルの舌に合うものだったようだ。頬を綻ばせて自作のサンドイッチを口にしている。


「ほれ、お主もミルクを飲むがいい」

「え? ぬいぐるみになっても食事ができるのかにゃ?」

「ぬいぐるみが喋ってる時点でもうそんな細かいことを気にしても仕方ないじゃろ。そんな無駄に几帳面じゃとハゲるぞ」

「にゃ!? ま、まあいただくにゃ」


 気になるのか頭の天辺を前足で確認した後で、綾は小皿に注がれたミルクを舐めた。

 

「なんだか凄く美味しく感じるにゃー!」

「まあ味覚の基本がぬいぐるみのモデルである猫に変化したんじゃからな、ミルクが美味しくも感じるだろうて。しかし、ワシの朝食もうまいのう。これだけ柔らかいパンは城の料理番でも焼けなかったぞ」

「まあ、日本の料理はレベルが高いからにゃー」

「なんでお主が自慢げなのか分からんが、たしかにどれも美味じゃな」

「……そっちの世界の料理はどうだったのかにゃ? ファンタジーっぽく魔法があるぐらいだからやっぱり文化レベルは西洋の中世ぐらいかにゃ?」


 ミルクを舐め終わると綾は自然と前足で身繕いをしている。猫の仕草が無意識に身についているようだ。


「中世というと……うむ、騎士や領主が幅を利かせる時代のことじゃったな。たしかえらい調理が雑で単純じゃったとか。まあでもワシの国はこの日本とまではいかんが、それなりに料理の種類も豊かじゃったよ」

「へー、そうにゃんだー。いっぺん行ってみたいにゃー」

「……たとえ世界を渡れても、もうワシの国は残っておらんから無理じゃがな」

「んにゃー?」

「なんでもない、それよりもう腹は満ちた。そろそろ準備をして学び舎へと向かおうか」


 サンドイッチに使用した食パンが三枚という女子高生にしてはいささか多い朝食での会話を打ち切ると、ようやく登校の準備に取りかかる。


「分かった……んにゃ!?」


 その時綾の前足がミルクを入れていた皿にぶつかってテーブルから落ちた。ずいぶんと馴染んではいたがどうやらまだ完全にはぬいぐるみサイズには慣れていないようだ。 

 皿を一枚割っただけ、だがその反応は激甚だった。

 綾は全身を震わせ、尻尾を股の間に挟んでうずくまる。そうしているとまるで丸いクッションのようだった。

 そんな彼女をどうしたものかと観察していたシーゼルは「ほれよく見てるんじゃ」と一声かけると割れた皿を一撫でする。

 するとそこにあるのは傷一つない元通りの皿だ。


「にゃ! もしかしてシーゼルは壊れた物を完全になおせるのかにゃ!?」

「まあ、マジックアイテム以外なら軽いな」

「そうなのかにゃ……」


 黒猫のシーゼルを見る目には尊敬と希望が点っていた。


「いつかその力を貸して欲しいにゃ」

「別にこのぐらいなら構わんが……っと、じゃから準備をしなければならんかったな。それでお主がこれまで着ていた制服はどこれかのう?」

「あ、こっちあるにゃ。でもそうか、私の制服じゃなきゃいけないのか。やっぱり、その、本当にそれを着なくちゃいけないのかにゃ?」 

「お主はもう着れないんだし、ワシにしても別段女装ぐらいで狼狽(うろた)えるような年ではないわ。それより、ほれここはどうなっておるんじゃ?」

「にゃー、そこ引っ張ると千切れちゃうから力を入れちゃ駄目だにゃー!」

「むう、このセーラーとやらを着るのは嫌ではないが、面倒ではあるのう。それにほれこのすかーととやらは短すぎないか?」

「あ、だったらスパッツを履けばいいにゃ。でも、ここまで面倒なら無理して別に学校に行かなくても……」

「そういうわけにはいかんじゃろ」


 これまでになく真面目な口調だった。


「お主の学び舎に 巣くっておる、お主をいじめたという敵をまず滅ぼさないと世界征服は始まらんのじゃから」

「……敵討ちをしようとしてくれるのは嬉しいけれど、世界征服の前座ってのがにゃんだかにゃ~」


  ◇  ◇  ◇



「おやおやぁ、これはこれは彩田(さいだ)さんじゃないかぁ。たぶん今日もまたお休みだろうと思ってたんだけどなぁ。すぐに学校へ顔を出せるなんて、どうやら俺たちの予想よりずっと恥知らずだったってわけかぁ」


 ねっとりと絡みつくような声がかけられた途端、黒猫――中身は彩田 綾だ――の体が硬直する。

 ふむ、そういえば彩田というのが綾の名字だったかとシーゼルが振り返ると、下卑た笑みを唇に刻んだ少年がいた。

 ぎりぎり校則に違反しない程度に着崩された制服で髪は茶髪という中途半端に派手な少年がである。

 登校でごった返す校門前にもかかわらず、彼がいると分かると潮が引くように人が遠ざかるのだからこの少年が周囲からどう思われてるかが伺える。

 その空白地の中心に立つのは不良少年と黒猫のぬいぐるみを肩に乗せた少女。


「髪をポニーテールにしたりして、ずいぶんと印象が変わったからすぐには分からなかったじゃないか。イメチェンするなら、まず俺たちの許可を得なきゃダメだろうがグズが」 


 手前勝手な理屈をこねる少年だが、そう言われる通りかなりそこにいる少女の印象は変わっていた。

 中身が綾からシーゼルになったおかげで雰囲気が変化したのは当然として、まず外見で目に付くのは髪型だ。おさげからポニーテール、しかも通常より高い位置で留めているおかげで武士の総髪(そうはつ)のようになっている。

 しかも短めのスカートの裾からはスパッツが覗きいつも丸めていた背筋を伸ばしているのだから、文学少女からスポーツ系の少女へとがらっとチェンジしたようである。かなり時期を逸した高校デビューだと思われてもおかしくない。


 そんな風にジロジロ観察されているシーゼルは逆に無礼者を上から下まで一瞥した。この少年は肉体的には脆弱、魔法的素養はゼロ、礼儀は皆無。あと確認が必要なのは綾との関係性だけだ。

 肩の上でメデューサと対面したように硬直している黒猫へ優しく問いかける。 


「ふむ、綾。こいつは敵かのう? 味方かのうの?」

「敵にゃ!」

「あぁ? ちょっとお前一人でなに言ってんだ?」

「こんにち()ぁ!」


 轟、と風を斬って魔力によって強化されたシーゼルの裏拳が少年の鼻にヒットし見事にその鼻っ柱を完全に押し潰した。軟骨が潰れる音を残してかなり体格のよい少年が完全に宙を舞っている。

 交通事故級の一撃を決めたシーゼルは薄い胸を張り、小鼻を広げて周囲のギャラリーへ宣言した。

 

「一撃で打倒完了――こういう場合には……そうそう、秒殺勝利というんじゃったよな。かかか、やはり童同士の喧嘩ならば先手必勝に限るわい」

「いや、いきなりはマズイにゃ……」

「敵意を見せて油断する方が阿呆なんじゃ」


 どうやらシーゼルは、現代日本とはやや違う倫理を持った魔法使いのようだった。


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