第二十一話:雨
本日は雨。
徒歩の外回りにはいやーな天気だ。
これが雪なら話題にもなるが……。
……まあ、雨でも多少の話題にはなるんだけどな。
次の取引先へ移動中、橋の上で、傘も差さずに川を覗き込んでいる若い女性を見つけた。……いや、覗き込んで、というほどではないか。川に視線を落としているだけのようだな。飛び降りる心配はなさそう。
雨に濡れたせいか、白いブラウスとロングスカートが身体に張り付いて、肌が透けてしまっている。
普段なら、気にはなりつつも放置だ。面倒はごめんだから。
……しかし……。
チリ、と、なにか静電気でも走ったような感覚。
(……生き霊……かな? あるいは……あーもうっ!)
いくつかの理由から、放っておくことも出来なくなってしまった。
「こんにちは。雨に打たれてしまっては、風邪を引きますよ?」
微動だにせず濁って水嵩の増した川を見つめる女性に傘を差し出し、雨を遮ってやる。
すると、女性は虚ろな瞳をこちらに向けてくる。なぜ声をかけられたのか、分からない様子だ。
「どうしました?」
と、出来るだけ穏やかに問えば、
『…………帰りたい…………』
と、焦点の合わない瞳から、一滴の涙を溢してしまう。
女性の涙は苦手。だが、仕事の時間ではあるものの、話を聞いてみることにした。
曰く、長く病に臥せっていたものの、そろそろ家に帰りたくなったので歩いていたら、疲れて歩けなくなってしまったのだという。……姿勢良く立つ姿は、とても疲れているようには見えないが。
さらに、住所こそハッキリとしていたものの、この橋からの道順はハッキリとせず、しまいには首を振って、分からない、と言いきってしまった。
……うーん……。
しばし、首を捻って考える。
や、住所がはっきりしているので、何も問題はないんだが。
まあ、あるとすれば、俺の財布に打撃かな?
……まあ、いいか……。
スマホを取り出し、ヘイ、タクシー。
「お、毎度どーも。また女性連れですか?」
にやにや笑いの女性ドライバーに、ため息一つ。
以前、松葉杖の女性の怪異を強制送還したときや、高級寿司店で桜井さんやメリーさんと昼を一緒に食べたときと同じ女性ドライバーだった。
なんだかなあと思いつつ、女性をタクシーに乗せ、少し悩んでから俺も一緒に行くことにする。
……まあその、ちょっとした心配ごともあるし。
行き先は、たぶん取引先の内の一つだし。
「お客さん、今度もまた違う女性ですね?」
ミラー越しに、にやにや笑う女性ドライバー。
イラッとするが、事実だし。
何か言っても無駄だな、と、外の景色を眺めることにする。
……や、全身濡れてる女性が、寄り添って腕を組んできている状況からいって、言い訳のしようもない。
長く臥せっていると言ったわりに……。いやいや、鼻の下なんか伸ばしてられんわ。
……ところで娘さん。
どうして頭を俺の肩に置くんですかね?
どうして腕を抱き締めてくるんですかね?
どうして胸を押し付けてくるんですかね?
……どうして、そんなに安心したような顔になるんですかね……?
俺は、きみの父でも兄でもないんだよ?
目の前には、なかなかお目にかからない広い敷地の大豪邸。
高い塀と庭の木で、屋敷は見えないが。
タクシーを一応待たせておいて、正門のインターフォンを鳴らして事情を説明する。
すると、意外にも、すぐにタキシードを着た老紳士が門を開け、タクシーごと敷地へ入るよう促してきた。
断る理由もないので……おいこら、逃げんなよ?
豪邸の扉の前には、複数のメイドさんと、中年紳士と淑女。
気分はファンタジー。
ここは、本当に日本か?
タクシーのドアを開けて、手を差し出せば、女性が手を……取りはしたが、座席から立ち上がることが出来ない様子。
……あれ? 疲れているのは、本当のことだった?
メイドさんと老執事に助力を乞うが、やんわりと断られる。
豪邸の主人らしき中年紳士に目を向ければ、なぜか大きくうなずく。
……俺に、どうしろと?
仕方がないので、ひと言断りをいれてから抱き上げ、タクシーから下ろして……えっ? ちょっと? こっち来いってなにさ? 俺今、お宅のお嬢様をお姫様だっこしてるんですが? 不届きものだよ?
いやいや、お嬢様? 首に手を回さないでくれませんかね?
何でそんな嬉しそうに頬ずりしてくるんです?
ちょっと執事さん? メイドさん? 何でそんな感極まったように瞳を潤ませてるんですかね?
はいはい、ただいま、ただいま、参りますから。
老執事の案内で、静まり返った豪邸の二階へ。
『あは、なんだか不思議』
でしょうよ、お嬢様。
どこの馬の骨とも知れないやつに、お姫様だっこされながら、自宅の階段登るのなんて、そうそう無いだろうさ。
ある部屋の前で、こちらでございます。と、老執事がドアを開ける。その部屋のなかには……。
『あ、あはは……。そっか、私、死んじゃったんだ……』
大きなベッドに眠る、女性の姿があった。
はらはらと、涙が止まらなくなってしまっているようだ。
やがて、俺の胸に顔を押し付けて、肩を震わせて、声を押し殺して泣いてしまう。
自分の、本当の姿を見て、我慢できなくなってしまったのだろうか。
いつの間にか、夫婦も、老執事も、メイドたちも、揃いも揃って、泣いていた。
……俺以外、みんな泣いていた。
…………。
………………。
泣き声は、止まない。
……………………。
…………………………。
泣き声は、止まない。
………………………………。
…………………………。
泣き声は、止まない。
……………………。
………………。
うん、気に入らん。
何が出来るというわけではない。
きっともう、手遅れ。
けれど、俺が、こんな終わりは、気に入らん。
触れるが重さのない生き霊という、不思議な状態の女性をベッドに横たえる。
その瞳は、雨に打たれていたときのように、焦点の合わない虚ろな瞳。
今にも消えてしまいそうな、その泣き顔に、自然と、微笑みかけた。
『まだだよ。こちらに来るのは、まだ早い。坂を下るのは、生を謳歌してからでも遅くはあるまい?』
俺の口から出てきたのは、俺のものではない年配の男性の声。そして……
『……生魂。……あるべくところへ、……帰るべし。……黄泉路帰り』
ところどころ、聞き取れない言葉があったが、年配の男性の声が途切れたあと、ベッドが一瞬光に包まれる。すると、女性が片方消えていた。生き霊だった方だ。
そして、元々ベッドにいた方は……。
俺は内心、冷や汗だらだら。
一歩二歩と後ずさり、この場を夫婦に譲る。
……や、だってさ? いかにも既に手遅れだったお嬢様が、今は、顔も赤みが戻ってるし胸が規則正しく上下してるし。
……ほんと、何があったんだろうね?
……俺は、ほんとに何も知らないよ?
お嬢様が、ゆっくりと目を開ける。
歓声と共に、夫婦が娘に抱きつく。
老執事とメイドたちは、歓喜の涙を流す。
……俺は、気配を殺して逃げ出した。
俺の手におえる状況じゃないし!
律儀に待ってたタクシーに転がり込み、女性ドライバーに雉二羽を掴ませて、全速でこの場から逃げ出した。
……何が起きたのか、俺が一番知りたいわ!!
タクシーから降りたときには、もうくたくただった。
受け取った料金は大分余る、と言われたが、そんな気分じゃない。
釣りはくれてやる。代わりに、誰にもしゃべるなよ? と言えば、
「わっかりました! 私も頑張って貯金するんで、行き遅れたら、もらってくださいね? 子供は二人は欲しいなぁ!」
……何でそうなるかな?
タクシーを見送ったあと、雨に打たれながら、取引先に電話かけなきゃ、と、スマホ取り出したときだった。
(・ω・)
さーっ、と、顔が真っ青になっていく気がした。
手が震える。身体も震える。凄まじい悪寒に、意識がどっか行きそう。
しかし、電話にでなければ……。
『もしもし、わたし、メリーさん』
あ、ダメだこりゃ。俺死んだ。悪寒なんてレベルじゃない。
『また知らない女をオトしたみたいなの』
もう、立っていることもままならなくなり、膝を着いた。
『男の甲斐性って言葉にも、限度があると思うの』
水溜まりに転がっても身体の震えが止まらねぇよ。いっそ殺せぇ。
『……むぅ……また、電話するの……』
がちゃ、つー、つー、つー。
メリーさんや、終止不機嫌だったようだが、俺、それどころじゃないみたいだ……。
……寒い……。
声に出したかどうかも定かでないまま、意識を失った。
・俺:主人公。男性。
……備考:職業・総合商社の営業。優良物件。
ハーレム願望はありません。
何が起きたか、俺の方が知りたい。
・メリーさん:少女の姿の……怪異?
……備考:もうすっかりマダムの家の子。
知らない女と仲良くしてるとモヤモヤするの。
・桜井さん:同じ会社の、同僚の女性。
……備考:会社内では、入籍カウントダウンな扱い。
正妻じゃなくてもいいかなって思い始めてきた。
・濡れ女:ある雨の夜、タクシーに雨に濡れた少女が乗ってくる。
行き先は、運転手もよく知る資産家の家。しかし、その資産家の家に着くと、葬儀の真っ最中。
年頃の娘の葬儀だという。
しかし、お宅のお嬢様を乗せてきた。と言えば、家の主人が、娘が帰ってきた……!と泣き出してしまう。
気味悪がった運転手が後部座席を覗き込めば、さっきまでいたはずの少女はどこにもいない代わりに、座席が濡れていた。
……まるで、雨に濡れた少女が、本当に乗っていたかのように。
運転手は、たくさんの報酬と感謝をもらい、戻ることになった。
未練を残し逝き損ねた、さ迷う御霊を、帰るべき場所へ送り届けた。というお話。
運転手の男性は、誇っていいと思う。
※このネタ《濡れ女》は、《淡雪》さんとの会話から着想を得ました。




