4.思い出になった頃
あの出来事から一か月。ティナは幸いな事に相手の男と会う事もなく仕事をしていた。最初の一週間はビクビクと周りを見渡して挙動不審で仕事をしていたが、段々と気持ちが消化され、今となっては『まあ、そんな事もあったよね』という気持ちに落ち着いている。
しかもあの日、酔っていたせいか男の顔も段々と思い出せなくなっている。確か黒髪だったなー、くらいなものだ。
抱かれたのに薄情かもしれないが、最初から知らない男だ。記憶も薄まるに決まっている。
そんな心の平穏が訪れ、淡々と業務をこなしていた日の事。
王太子妃が公務の為、西部にある穀倉地帯へ視察を行う事が決まった。その地は近年度重なる自然災害により大きな打撃を受けた地だ。天に見放されたと嘆く領民が多く、先祖から受け継いだ土地を捨てる人が最近後を絶たない。
今回の視察は激励目的である。王家の心は領民に寄り添っていると見せる為の視察だ。その為王太子夫妻での訪問となる。夫妻で行けば当然結構な人数が視察に同行するわけで、ティナもその同行する者の一人であった。
「ティナ」
「はい、殿下」
ある日、ティナは王太子妃リリアナに呼び止められた。
この王太子妃とは女学園時代、同級生だった事もあり小さい事から大きな事まで用事を頼まれる事が多い。また何か頼みたい事があるのかと両手を腹の位置で組み、軽く礼をした。
リリアナからしてみれば気心が知れているという事なのかも知れない。だがティナにしてみれば女学園時代にほぼ関わりが無く友人関係でもなかった為、此処まで頼られるのは予想外だった。
お陰で王太子妃に取り入ろうとする侍女達からのやっかみが凄く、いまだに嫌がらせを受けたりしている。
嫌がらせをする前に仕事をしろ!とティナは思うのだが、そういう相手に言ったところで火に油を注ぐ事になるので目立って反論はしないでいる。一応何かされたら上司や関係各所にそれとなく伝えて、『こういう事があったんだよ』と後々問題になった時に自分を守れる様にはしているが。
「今度の視察の警備会議に出席してほしいの。あとついでに銀狼騎士団にも私の代わりに挨拶してきて。メルキアをお供にするから」
「警備会議、ですか」
メルキアとは王太子妃が持つ白鷲騎士団の団長である。
そして銀狼騎士団とは王太子お抱えの騎士団だ。
騎士団への挨拶はまあ良いとして、警備会議か、とティナは暫し思案した。
警備会議とは西部視察のルートや、休憩場所、警護隊形を話し合う、重要な会議である。二つの騎士団の他に王太子側の側近や恐らく宰相補佐も出席する程の会議。
普段は上司、つまり王太子妃宮の侍女頭のみが出席するのだが、それにリリアナはティナも出席させようとしているのだ。
どういう意図か測り兼ねていると、リリアナはお茶を飲みながら微笑んだ。
「深い意味はないの。でも貴方は此処に骨を埋めるつもりなのでしょう?だったら経験を積む、という意味でも良いのではないかしら?」
普段から着飾り、美の権化の様な威圧感のある笑みにティナは『畏まりました』と頷く。どうやらそれ以外道は無いらしい。
「じゃ、宜しくね」
リリアナはティナにウィンクをすると、優雅にお茶へ一口、口をつける。
何だか面倒臭い事になりそうだ、とティナはリリアナの部屋から下がると廊下で深い溜息を吐いた。
(何も無ければいいけど)
ゆっくりと背筋を伸ばして、廊下を歩く。それだけで武装している気分になった。
あれからやはり、ティナは小さな嫌がらせを受けつつ、問題の警備会議の日になった。
嫌がらせと言うのは本当小さいもので、服を汚されたり、物を盗んだと冤罪を掛けられたりとかそんなものだ。
窃盗の冤罪は流石に面倒だな、と思ったが実行犯が複数人に見られていたという致命的なミスを犯してしまった為、一瞬で解決した。勿論、その実行犯は前科者となり城を去っていった。
ティナは侍女頭と共に警備会議のある一室に入ると、自分の名札がある席に着席した。隣の侍女頭がペンを机に置いたのを見て、ティナも同じくペンを置く。
落ち着かない気持ちを必死に隠しながら、机上にある資料に目を通していると議長である宰相補佐が合図の声を出した。
「これから会議を始める」
それまで少し騒ついていた部屋が一瞬にして静かになり、宰相補佐が会議資料を元に話を進めた。
会議は概ね資料通りスムーズに行われたが、所々きな臭い家名を混ぜ込まれ、それにティナはいちいちビクビクと反応してしまった。
疚しい事があり、反応しているのではなく、そんな情報を私がいる前でしてもいいの?という感情からだ。爵位としては確かにティナは侯爵家という高位のものだが、家族の駒としては抜けているのでそんなに派閥に詳しくはない。
流石に大まかには分かっている。王太子妃付きであれば当然知っておかねばならない情報は仕入れていたりする。でも懇意な情報屋がいる訳ではないティナは、あれはどこどこ商会と繋がっていて、その親会社はどこどこと繋がっているとか表立って知られてはいない情報は知らないのだ。
そんな緊張感溢れる初めての会議が終わり、席を立つとメルキア・アイスラーに声を掛けられた。
「ティナ嬢、リリアナ様からお話は伺っています。こちらへ」
「ありがとうございます。アイスラー卿」
メルキアは中性的な面立ちで、微笑むと銀狼騎士団長が待っているという演習場近くの裏庭へ案内してくれた。
メルキアは銀狼騎士団長らしき人物を見つけると片手を上げ、『アルヴィン!』と名を呼ぶ。その顔が少年の様に幼くなり、彼と銀狼騎士団長が古くからの仲だと察した。
「おお、メルキア!意外と早かったな」
「そっちが会議終わったらサッサと居なくなるからこっちも急いだんだよ」
アルヴィンと呼ばれた男は如何にも騎士らしい筋肉隆々な体型をしていた。メルキアと気安く笑い合う様子からやはり気の置けない相手な様だ。ティナはガハガハと大声で笑うアルヴィンの姿に腹芸が出来なそうな人だ、と少し失礼な事を思ってしまった。
「それでこちらが?」
アルヴィンがメルキアとのじゃれあいを止め、ティナの方を見た。メルキアは少し忘れていたのか、小さく咳払いをする。
「ティナ嬢、すみませんでした。脱線してしまって」
「いえ、アイスラー卿がこんなに笑ってる姿は初めて見たので、少し面白かったです」
「ティナ嬢」
恥ずかしそうに頬を掻くメルキアに、ティナは微笑むとアルヴィンに視線を移し、礼をした。
「初めまして、ティナ・クラントンと申します。王太子妃殿下の侍女をしております。今回の視察にも同行致しますので、どうぞよろしくお願い致します」
「私はアルヴィン・ゲーペルだ。銀狼騎士団の団長をしている。宜しく、ティナ嬢」
人好きのする笑顔で手を差し伸べられる。恐らく握手を、という事なのだろうがティナに握手の文化はなく少し戸惑ってしまった。チラリとアルヴィンを見れば、悪気も下心も無い顔で笑みを向けて続けていた。
ティナは戸惑いを感じさせない様にスッと手を出し、握手をする。アルヴィンの手はとても大きく、また骨張っておりガサガサしていた。
(クリーム塗ってあげたい)
リリアナの手を思い出し、そう思ったが騎士にクリームを勧めるのは男女関係を連想されそうだと思い、一瞬で却下する。
「ティナ嬢の手は小さいな」
貴方の手に比べたら、どの女性も小さかろうと微笑みながら手を離すと、メルキアが呆れ声を出す。
「アルヴィン口説いてるのか」
「何でそうなる?ティナ嬢に失礼だろ」
「いや、さっきのはどう聞いたってそうだろ」
再び戯れあいが始まり、生暖かい顔で見守っていると、ふと一人の男がじっと自分を見てくる事に気が付いた。
その男は銀狼騎士団長であるアルヴィンより一歩下がった位置におり、恐らく副団長あたりの役職である事が立ち位置から伺われた。
烏の様な黒髪を後ろに撫で付け、一部の前髪だけ前に垂らし、瞳は碧色だが何処となく黒みがかっている様に見える。そしてその瞳が鈍い光を放ち、ティナをじっと見つめ続けていた。




