13.自業自得
あの男、無視しやがる。
ティナは暫く医務室の前に突っ立っていたが、怒りを湛えた瞳のまま自室へ戻っていった。ズンズンといつもより大股で寮までの道を行く。途中、何人かとぶつかりそうになったが、反省はせず、そのままの速度で進んでいった。
(なんで!)
頭の中は先程の出来事でいっぱいだ。目が合った、話しかけようとしていたのも気付いていた筈だ。なのにオイゲンは何も無かった様にさっと消えていった。無表情だったが、彼が踵を返す一瞬に見えた顔は僅かに歪んでいた様にも見えた。ほんの一瞬だったので確信は持てないが。
(そんな顔をするなら!)
話せば良い。だって自分は気にしていない。寧ろ感謝しているくらいだ。世論は騎士団を責めているが、ティナ個人としては命の恩人だと認識している。
(そんなに辛いなら何度でも感謝を伝えるのに!)
だが、そう思ったところであの日の馬車での会話を思い出す。
『謝るな、お前は』
辛そうだった顔。握りしめた拳。それは騎士としてのプライドだったのか、ティナへの不甲斐なさからだったのか。それとも両方?
ティナは寮の玄関を入ったところで、歩みの速度を落とした。
(もう話す事はないのかも)
そう、ふと思ったら胸がもやりと疼いた。ツキリとも言う。
だが考えてみれば、オイゲンと接点を持つ前に戻ったとも言える。結婚をしないと決めているのだから断ること前提の求婚を受けなくてもよくなったのだ。そう考えれば何も問題が無い。そう、問題はない。その筈なのだ。でも理解とは別のところが軋み出す。
ティナはゆっくりとオイゲンの事を考えながら階段を登った。あの夜、手を繋ぎながら降りた階段。過去の残像が見えた気がして、振り返る。何も見えない。見えないが、心が楽しそうな幻影を見せてくる。
正直、認めたくは無いが絆されているのだ。あの庭園の時から。いや、もしかしたら……
階段の途中で止まっていたティナはふるりと頭を振り、部屋までの道を力無く歩いた。片手を壁につけ、あの日の軌跡を辿る様に。
部屋の前まで着いたティナは一発で鍵を出し、部屋を解錠した。数日ぶりの部屋は落ち着く匂いがする。ティナは手早く服を脱ぎ、部屋着に着替えると風呂も入らずベッドに倒れ込んだ。ずぶずぶと沈んでいく体、でも頭は妙に冴えていた。
(どうすれば良かったんだろう)
こんな風な距離感に戻るなんて、あの庭園の日から考えた事はなかった。だって好きだと言われた、キスもされた。まあ、感情が荒ぶって頭突きをしたが。
思えばティナは今まで真っ直ぐに愛を告げられた事がなかった。男性と付き合った事はある。だが、どれも友情の延長戦のような関係で、愛を囁き合う関係では無かった。楽な関係ではあったが、あちらが本命を見つければお払い箱。所詮、そんな軽い関係。愛など伝え合う訳もない。
そんなティナを真正面から口説いてきたオイゲン。始まりこそ最低ではあったが、彼はずっと一貫していた。逃げ出すティナを諦める事無く、追い続けてくれた。思い返してみれば、追いかけてくれる彼を見る事が楽しかった様にも思う。最低な考えだが。
ティナは幼い頃から自己肯定感が低い。それはあるきっかけがあったからなのだが、それは今は置いておこう。
自己肯定感が低いティナ。だから無意識で試し行為をしてしまう。本当に自分を愛しているのなら諦めず自分を追ってくれるでしょう?諦めるのならその程度だったという事。裏切られた時の予防線もしっかりと張り、期待はあまり持たない。期待を持てば持つ程、それが去った時に落胆が大きくなるからだ。
ティナはオイゲンに絆されていた。つまり、今のティナの落胆は凄まじい。怒りがふつふつと心を満たしていったが、それと比例して悲しみも満ちていった。悲しみは怒りの倍以上も深い。だが悲しんでいる自分を誤魔化すために怒りの燃料も追加する。自分は悲しいのではない、怒っているのだと自分自身を騙すのだ。
(そうだ、私は怒ってるんだ。悲しいんじゃない。元に戻った、戻ったんだ)
ティナは両目を腕で押さえる。じわりと何かで濡れたが、知らないふりをした。
ティナは視察から帰ってきた翌日から仕事となった。頬に出来た傷に医務室から貰った薬をつけ、絆創膏をして出勤をする。スパッと切られた傷な為、薬を塗っていれば早期にくっつきそうだと医師が言っていた。傷さえ塞がってしまえば、あとは化粧で誤魔化せるので早くそこまで治癒して貰いたいところだ。
ティナはすれ違う顔見知り達から怪我の事を心配され、サイラスを身を呈して守った事を称賛された。だが、そんな事を言われてもティナの心は晴れなかった。喜ばしい事だとは思う。王族を守れたのだ。こんなに名誉な事は無いだろう。だが、しかしティナの心にはサイラスを守った事よりもオイゲンと距離が出来てしまった事の方が重要だった。
もうオイゲンの事は終わった事だと思おうとしても、納得していない部分が騒ぎ出す。
―――これでいいの?
と。
(良いの。これで良いの)
ティナは必死に自分に言い聞かせ、日々仕事に邁進する。そうこうしていると、あの傷も塞がり僅かに赤い痕が残るだけとなった。
「薬を毎日塗ってたら多分痕も無くなるよ」
医務室に無くなった薬を処方して貰いに行ったティナは医師にそう言われた。
「本当ですか?」
「嘘はつかないよ、医者だからね」
胡散臭い笑みを浮かべた医師は戸棚から新しい薬を取り出し、ティナに差し出す。ティナはそれをポケットに入れた。
「おい、医者湿布くれ!」
突然、医務室の扉が豪快に開き、巨大な人が入ってくる。筋肉隆々、凄まじいガタイの良さ。見る人が見れば惚れ惚れする肉体の持ち主、アルヴィン・ゲーペルであった。銀狼騎士団、団長である彼は一時進退問題が出ていたが、王太子であるサイラスがそれを諌め、団長職に未だついている。サイラス言うに、腹芸が出来ない人物だからこそ信用出来ると彼以外は誰の推薦であっても団長を任せるつもりはないらしい。そこまでの信頼を持たせる人柄は素晴らしいものだろう。
アルヴィンは先客が居るのに気付くと、やってしまった!という様な情けない顔をし、ゆっくりと扉を閉めた。
「あ!ティナ嬢!」
だが、閉める途中で先客が誰だか分かり、その手を止め、再び扉を豪快に開いた。
「お久しぶりです。アルヴィン騎士団長殿」
ティナはにこりと微笑んだ。アルヴィンはズンズンとティナに近寄ると、その大きな体をティナの目線に合わせて屈めた。その顔は先程とはまた違う情けない顔をしており、今にも泣きそうである。
「どうされました」
大男の異様な様子に戸惑いしかない。ティナは笑みはそのままに尋ねるとアルヴィンはティナの両肩を掴んだ。突然の接触に驚いたティナは目を見開き、両肩の手を交互に見る。
「え、本当にどうされました?」
大きな手が肩を包む様に掴む。困惑しすぎて近くの医師を見たが、楽しそうに様子を見ているだけだった。助けになりそうもない。
どうしようと思ったその時、アルヴィンがうるうるとした瞳のまま大きな声を出した。
「ティナ嬢!オイゲンの事を許してやってくれ!」
縋り付く様な視線と声にティナは暫し理解が追い付かず、アルヴィンをじっと見つめる。そして少し理解出来たところで素っ頓狂な声を上げた。
「へぁ?」
許してやってくれとはどういう事なのだろうか。何を?と思ったが、恐らくは西部視察の襲撃の事なのだろう。だとしたら許すも何も最初から怒ってもいない。
「ベルツ卿に対して何も怒ってはいないですが。怒っていない事に対して何を許せば良いのでしょう」
「怒ってない?怒ってないのか!」
「ええ。ちなみにアルヴィン騎士団長殿は私が何を怒っていると思っているのでしょうか」
「その頬の傷の事だ」
「でしたらそれは勘違いです。感謝こそすれ怒るなど。ベルツ卿が居なければ私は今頃あの刃に貫かれ死んでいたでしょう。怒る訳などありません」
はっきりとティナがそう告げれば、アルヴィンは目を丸くし、何度か瞬きをした。
「本当か。なら何でオイゲンはあんなに機嫌が悪いんだ。飲みにいってもティナ嬢の話しかしないし、てっきりあの件で喧嘩してるのかと思ったが」
「…………」
不思議そうに口にしたアルヴィンは、何度もそうか、そうかと言うとティナの肩から手を退かした。
「ベルツ卿は、その……」
アルヴィンの言葉にティナは言い淀んだ。聞きたい事はある。だが、それを聞くのはティナにはハードルが高かった。そんなティナの様子を察してかアルヴィンは首を捻りながら口を開いた。
「オイゲンはティナ嬢には悪い事をしたとか、守れなかったとかそういう類の事しか最近は言わないんだよな。出来れば早く仲直りして欲しかったんだが……喧嘩してる訳じゃ無いんだよな?」
「喧嘩、する程の仲では……」
「……そういう事にしておこう。上司が男女の仲までどうこう言うのは良くないだろう。だがそうだな」
アルヴィンは少し困った様に笑いながら、首の後ろを掻いた。
「オイゲンの事を気にしてやってくれ。あれはどうやらティナ嬢次第でどうとでもなるらしい」
その言葉にティナは驚いた後、ぎこちなく頷いた。
ティナはオイゲンの事を気にしている。見掛ければ目で追うし、出来れば話したいとも思う。でも彼が避けるのだ。どうしようもない。
前の距離に戻っただけ、何度も自分に言い聞かせ日々を生きている。それは諦めにも似たものだ。なのにも関わらず、目の前のオイゲンの上司は彼を気にしろと言う。これ以上気にしたらティナの心が折れてしまうのに。
だがそれはアルヴィンには分からない事。だってティナは見えるところで彼に冷たく接していた。それを周りが見ていたのだからアルヴィンがそう言ってくるのもおかしくは無い話だ。ティナの自業自得とも言える。
ティナは頷いた後、不自然に『仕事があるので』と医務室を後にした。アルヴィンには悪気は全く無かったのでティナのその態度に特に何も思わなかった様だ。
医務室を出たティナは心此処に有らず状態で長い廊下を歩いていた。何が正解かわからない。元に戻っただけ、と言い聞かせて数日やってきたのにアルヴィンの言葉で心が更に揺さぶられる。オイゲンはまだティナの事を思っているらしい。そんな他人の言葉でふらふらと足元が揺らいでいく。
結婚はしない。求婚されても困る。だから今の環境で良いのだ。しっかりと言い聞かせ、前を行く。置いてけぼりの感情が赤ん坊の様に泣き叫んだが、叱って奥に押し込んだ。
(私は一人で生きていくんだ!)
ぎゅっとした目元に何が溜まるのを感じる。ティナは立ち止まり。目元を服の袖で押さえた。
「ティナ!ティナ!ティナじゃないか!ティナ!」
人気のない場所に居たのだが、不意に自分を熱烈に呼ぶ声が聞こえ、ティナは振り返った。そこにいたのは記憶にある姿よりも少し老けている自身の父親であるクラントン侯爵だった。




