◆第86話◆ 『壁を乗り越えた先には』
「ん......小吉です。ちょっと微妙ですね」
おみくじを引き、結果を見て、残念そうながらも微笑みを表情に含ませる星宮。その様子を横から覗きながら、庵は複雑な気持ちになった。せっかくなら大吉を引いてもらいたい。
「微妙なら引き直せばいいんじゃないか?」
「いいんですよ。良い結果が出るまで引き続けるなんて、おみくじの意味がないじゃないですか」
「まぁ......そうかもな」
正論を返され、何も言えなくなってしまう。そんな庵に星宮が近づいて。
「天馬くんはおみくじどうだったんですか?」
「俺は中吉だった」
「中吉良いじゃないですかっ。何て書かれてました?」
そう言われ、庵はポケットに突っ込んでいたおみくじを取り出す。目を通せば、色々な項目に別れて沢山の事が書かれいるのが分かる。ざっと見た感じでは、大した事は書かれていないように見えた。
だが、とある項目だけが庵の目に止まり――、
「――『恋愛』。前途多難、恋敵に気をつけるべし」
一つだけ不穏な事が書かれていたのは、恋愛の項目。今、庵の恋愛が前途多難であることは的中しているが、恋敵については分からない。いつか星宮を狙うライバルが現れだすのだろうか。宝石級美少女である星宮が狙われるのは当たり前のことかもしれないが。
「......」
「どうした星宮。黙ったけど」
自分からおみくじの内容を聞いておいて、何も言葉を返さなかった星宮。ふと視線を向けてみれば、星宮の顔はどこか雲っているようにも見える。
「......いえ、何もないですよ。次は絵馬でも書きませんか?」
「あぁ、まあ別いいけど」
「それじゃあ行きましょうっ」
話を逸らされてしまい、星宮は絵馬が売っている方へと一人歩き出してしまった。不思議に思いながらも庵はその背中を追いかける。
「......天馬くんもですか」
庵が追いつく前に、星宮はぽつりと独り言を溢した。マリンブルー色の瞳は、不安そうに揺らめいていて――、
「――『恋愛』。前途多難、恋を阻む者が現れる。交友関係に気をつけるべし」
***
傍から見れば、二人の様子は煌めいている青春の一部に見えるのだろうか。お互いの事を好き合う男女が、二人だけで慣れないことをする。上手くはできなくても、些細なことで笑いあったり困りあったりする。それが、少なくとも星宮にとってはとても輝かしいものに見えている気がした。
そんな青春真っ盛りの最中、庵は少しだけ顔を青白くさせていて――、
「ごめん星宮。ちょっとトイレ行ってくる。トイレどこあるか分かる?」
「トイレなら、さっきのおみくじがあった場所の横にありましたよ」
「さんきゅ」
トイレのため姿を消してしまった庵。一人取り残された星宮は、先ほど庵と買った絵馬とにらめっこしていた。
「......さて」
手に持つマーカーペンをくるくると回し、何を書こうかと考える。ちょうどタイミング良く庵が姿を消したので、人に見られたら恥ずかしいような事も書けるかもしれない。何個か候補は星宮の中で上がるが、どうせなら全部まとめて書いてしまいたいところ。
「うーん......せっかくなら沢山のお願いを神様に叶えてもらいたいですね......絵馬って欲張って書いてもバチは当たらないんでしたっけ」
頭を悩ませ続けた結果、星宮は最適解を思いつく。星宮はマーカーのキャップを外し、絵馬にペン先を突き立てた。
「別に、具体的に書く必要はないですよね」
そう呟きながら、ペンを走らせていく。書いた文はたったの一文で、内容もシンプルなものだ。
「――『天馬くんと私が今年一年、何事も無く無事に過ごせますように』」
幸せになりたいとまでは言わない。だからせめて、平穏な日々を二人で歩んでいきたいのだ。庵の傷を癒していくにはまだ時間がかかるし、星宮も新しい一歩を踏み出すには時間がかかる。
二人が良い方向へと変わっていくには、まず平穏な日々を享受し続けることが大前提なのだ。
「お願いします、神様」
神様が実在するのかどうかなんて分からないけれど、頼れるのは神様ぐらいしか居ない。藁にもすがる思いで、星宮は心の底から願う。苦しい思いも、辛い思いも沢山味わったのだから、そろそろ多少の平穏が訪れてもいいんじゃないのか。
そんな、夢のような期待を胸に抱きながら、星宮は絵馬を手に持った。
「私は無理でも、天馬くんだけは今年一年無事でいてほしいです......もう、あんな傷ついている姿は見たくないですから」
絵馬を専用の場所にかけ、位置を調整する。この思いがきっと届いてくれるよう願いながら、そっと絵馬を手で撫でた。
***
同刻。
「――ごほっ」
聞こえたのは短い悲鳴。石造りの硬い床を、庵は盛大に何回転もする。咳き込みながら何とか立ち上がれば、手が擦りむけて赤黒く血が滲んでいた。足も同様、擦りむけてしまいじくじくと痛んでいる。
「はぁ......はぁ......」
弱々しく息を整えて、庵は正面に目を細めた。正面には、明らかに不穏な空気を放つ人影が仁王立ちしている。その姿は嫌という程に庵の脳裏に焼き付けられた存在。
そして、今一番会いたくなかった人物でもあり――、
「......なんで、居るんだよ」
人影がゆっくりと近づき、庵と視線を合わせてきた。その瞬間、庵は絶望の色を表情に宿し、力のない笑みを浮かべた。何故、ここまで運がないのかと嘆いてしまいそうになる。
「――めっちゃ楽しそうじゃん庵先輩。あんだけ辛い苦しいアピールしてたのに、もう元気になったんだ」
抑揚のない冷えきった声が、庵の背筋を凍らせる。久しぶりに聞くその声は、前聞いたときよりも更に凍えているかのように思えた。前回会ったときと変わらぬ冷徹な視線に貫かれて、胃を掴まれているかのような錯覚さえも覚えてしまう。
「......なんで」
母の死を受け入れて、星宮に暴力を振ったことに対する許しを得て、父との関係も元へと戻ろうとして。全ては星宮に救われて、ようやく立ち直れる兆しが見えてきたのだ。
庵にとっては大きすぎる壁を何枚も乗り越えて、乗り越えて、乗り越えてきた。想像を絶する思いをしながら、壁を乗り越え続けたのだ。これは、庵一人の力じゃ成し遂げれなかった、星宮が居てこそ叶った奇跡。
奇跡を起こし、ようやく壁を乗り越えられた。そして、全ての壁を乗り越えた先に、まさかまだ壁が残っていたなんて考えたくはなかった。
「愛利......!」
最後の壁が、庵の前に立ち憚る。




