◆第76話◆ 『夜空の下、思いを叫ぶ』
靄の奥、とても懐かしい人影が見える。人影はこちらへと近づき、見慣れていたはずの笑顔を向けてきた。その若々しい笑顔は、壊れた心にさえも染みる。
『――庵。琥珀ちゃんを傷つけちゃだめよ。母さん、とても心配だわ』
***
1月7日、夕方。夕焼けの眩しい光が、カーテンを貫いて薄暗い部屋を照らす。ベッドから上半身を起こした庵は、寝起き早々溜め息をついた。
(......最悪な夢見たな)
ずっと忘れようと努力していたが、まさか夢に青美が現れてくるとは。しかも夢の中の青美は星宮の話題を出してきた。それも、忘れたいことの一つなのに。
「......」
夢のことについて考えるのはやめ、庵はおもむろにカーテンを開く。窓からは、沈みかけの太陽が見えた。オレンジ色の光がとても眩しい。
直ぐにカーテンを閉め直し、小さくあくびをする。虚ろな瞳のまま、再びベッドに倒れこんだ。
(......二度寝するか)
今日は三学期の始まりであり、登校日らしい。だが学校に行く気力のない庵は、当たり前かのようにサボった。いつなら登校できるのか、それさえも分からない。
ただ、今のコンディションのままではしばらく不登校が続くだろう。
「......っ」
毛布を体に被せ、光を遮断しようとする。しかし音だけは遮断しきれていなかったようで、何者かが部屋の扉をノックする音が耳に届いた。
「――庵、入っていいか?」
「――」
扉をノックしてきたのは庵の父――恭次。
恭次の問いかけに一瞬扉に目を向けるが、直ぐに視線を落とす。返事をする気力のない庵は、耳を手で塞ぎ、毛布にくるまった。
「......なぁ庵。ちょっと、外に出ないか? ずっと部屋に引きこもりっぱなしじゃ、体に悪いだろう。俺と一緒に、外の空気を吸って気分転換とかどうだ」
外の空気を吸った程度で、庵の傷つききった心には何も響きやしない。だが、このまま部屋に引きこもり続けるのが体に悪いのは事実。しかし外の空気を吸うためだけにわざわざ外に出る気力はない。
「行きたく、ないか?」
「――」
「......そうか」
恭次の重苦しい声が、庵の耳にも届く。このまま恭次は立ち去っていくかと思いきや、まだ扉の前に立っていた。
どうやら恭次は、どうしても庵を外に連れ出したいらしい。
「――なら、今日だけでいい。今日、今から外の空気を吸いに、近くの公園へ行こう」
「――」
「今日一緒に来てくれれば、金輪際俺は庵の邪魔をしないことを約束する。こうして、庵の部屋の前で名前を呼ぶことも控えることにするぞ」
その言葉を聞き、庵は軽く目を見開いた。数秒の思考で、このまま無視をするか、恭次の言葉を飲むか、どの選択肢を取るのが最適かを天秤にかける。引きこもりを続けたい庵にとって、合理的な選択は何か、比べるまでもないだろう。
結果、庵は毛布をはねのけ、薄暗い自室の床に立ち上がった。
「――早く、終わらせろよ」
掠れた声が漏れる。久しぶりに対面する父の姿は、前見たときよりも痩せているような気がした。目の回りの不健康そうな濃いクマが、そう錯覚を起こさせているのだろうか。
***
車で数分走り、親子は最寄りの公園に到着した。日はいつの間にか完全に落ち、空には幻想的な暗闇が広がっている。音一つない静寂が、公園全体を包み込んでいた。
恭次の車から降りた庵は、どこか当てがあるわけでもなく数歩歩みを進める。そうして、近くの大木に背中を預けた。
「......こんなところにきて、何すんだよ」
そう愚痴を溢し、庵は恭次が車から降りてくるのを公園で待つ。だが、恭次はなかなか車から降りてこなかった。その不可解さに目を細め、庵は車に戻ろうとする。
「おい......父さん?」
しかし、車に戻るより早く、理解し難い異変が目の前に起きた。
「いや、ちょ、は?」
なんと、停車していた恭次の車が突然エンジンを吹き始めたのだ。庵は大きく目を見開き、車の元へ戻ろうとする。
「はっ? ふざけんなよ父さん!! 何一人で帰ろうとしてんだよ!!」
恭次の突然の奇行に、公園に一人取り残された庵は大声を上げる。しかし庵の努力空しく、恭次の車は動き出した。庵を置いて、無情にもどこか遠くへと消えていく。
「......はぁっ?」
道路まで身を乗り出した庵は、恭次の車の後ろ姿を呆然と見つめた。置いてきぼりにされたことに対する怒りが沸くよりも、理解のできないことをされた恐怖感が沸いてくる。
まさか、庵のことに愛想が尽きて公園に捨てたというわけではないだろうが、どう考えも今の恭次の奇行は理解不能。言葉一つなく、恭次は庵を置いて一人帰ったのだ。
「――なんで」
へなへなと近くの壁に寄りかかり、頭を回す。一人公園に取り残されて、一体どうしろと言うのか。まさか、ここから歩いて帰れとでも言うのか。帰れないことはないだろうが、何故そのような事をしなければならないのか意味が分からない。
「マジで、意味が」
「ごめんなさい。天馬くん」
言葉の続きを口にしようとしようとするが、それは不意に聞こえた声に遮られた。声が聞こえた方向に瞬時に振り返り、庵は呼吸を詰まらす。
そこには、人が居た。宝石級の容姿を持つ、天使のような少女が立っていた。その少女は庵へと近づき、雪色の髪の毛をたなびかせる。決意だけが宿された瞳が、庵の瞳を貫いた。
「私が天馬くんのお父さんに無理言って、天馬くんに公園に来てもらいました」
「......は?」
そう言うと、少女は更に庵と距離を詰めた。こちらへと近づこうとしてくる少女に、庵は頬を硬くし、一歩後ずさる。しかし少女の歩みは止まらなかった。
「逃がしませんよ」
少女の手が、優しく庵の腕を掴む。手を掴まれた庵は大きく目を見開き、数秒硬直する。
ようやく状況を理解できた庵は、口元を大きく歪めた。
鬼のような形相をし、少女を睨み付け、口を開く。
「――ッ。なんのつもりだよ、星宮!!」
語気荒く、庵は少女に――星宮に言葉を放った。そう、悠然とこの場に現れた者の正体は星宮。彼女は澄ました顔をして、何故か制服で身を包み、庵の前に現れた。
庵の言葉を受け、星宮は一瞬だけ硬直する。だが、文字通り硬直したのは一瞬だ。庵の圧に怯むことなく、星宮は強い決意の光を瞳に宿し、強気に庵を睨みかえした。
「何のつもりか、ですか?」
「あぁそうだよ。俺、もう関わってくんなってお前に何回も言ったよな!? なのに、なんでまだ関わろうとしてくるんだよ!!!」
「......そうですね」
庵の言葉に、星宮は冷静に真顔で頷く。その冷静さが頭にきた庵は、思わず一歩踏み出していた。お互いが至近距離に迫り、鬼の形相をする庵の表情が、更に星宮の間近に近づいた。
「そうですねじゃねーよ! 俺はもうお前の顔なんか見たくないんだよ! こんな回りくどい真似までして、本当に何のつもりだよ!!」
激昂し、考えなしに庵は言葉という名のトゲを星宮に放つ。昔の脆く、小さな星宮の心であれば耐えられなかっただろう庵の言葉の一撃。しかし星宮はそれを受け止めたうえで、瞳に宿す光の鋭さを更に強めた。
覚悟の決まっている星宮は、自身の手を強く握りしめる。
「私は、あなたにっ」
「あぁ?」
星宮が庵に負けず劣らずの声量で、反論しようと言葉を放った。ゆっくりと、一泊置いて、再び星宮は口を開く。
色白な肌を真っ赤にさせ、胸に手を当て、星宮が叫んだ。
「天馬くんに好きって伝えにきたんですっ!」
冷たい風が二人の間を過ぎ去っていく。音のない静寂すらうるさく感じてしまうほどの違和感が、全身を支配する。放たれた言葉は、まさに庵の理解の外側。
恋愛感情ゼロから始まった物語が大きく動き始めると同時に、庵と星宮の戦いが始まった。




