◆第65話◆ 『これが最悪な夢ならよかった』
「ぐぐッ。やめッ。やめろッ!!」
首を絞められて命の危機まで感じ出した庵は、強引に体を捩り、愛利の拘束から逃げる。しかしこのまま庵が逃げれるほど、愛利は甘くない。
「うがァ!?」
体を起こそうとした瞬間、強い衝撃が背中を襲い、再び地面に叩きつけられる。首だけ捻って上を見上げれば、堂々と背中を踏みつける愛利の姿が見えた。
「おほっ。げほっ。はぁ......お前っ、ふざけんなよ愛利! 急に何すんだよ!」
「うるっさいわ」
愛利の突然の暴挙に庵は言葉を荒げる。だが、それは逆効果にしかならない。
「っ。う、ぐァ!!!」
一度足を上げ、再び背中を踏みつけられる。そのとてつもない速度からなる威力と、踵が肉に食い込む感覚に絶叫した。庵の中で警鐘が大きく鳴り響くが、あまりの激痛に思考は真っ白になる。
「ごほっ。うぐっ。ぐ......うぅ」
「......ん。そんなに痛かった? ごめんごめん。さっきも言ったけど、アタシ力加減得意じゃないんだよね」
気持ちの込もってない声で謝られるも、愛利は庵を踏みつけたままだ。その踏みつける力は凄まじく、まるで縫い止められたかのように固定され、ピクリとも動けない。愛利の華奢な体から出たとは思えないほどの怪力だ。
「で、庵先輩。もっかい聞くけど、琥珀ちゃんに何したの?」
「っ。お、俺が......星宮に?」
「うん。そう」
踏みつけられたまま、庵は問われる。星宮に何をしたかを。そのざっくりとした質問にどう答えるか、呼吸荒げながら考えた。
(......何から言えばいいんだ。星宮を殴ったことか......? いや、酷い言葉も言ったしな。それで振って......えっと......)
考えが上手くまとまらず、なかなか言葉を口にすることができない。嫌な静寂が数秒流れて、空気は少しずつ凍っていく。それに痺れを切らした愛利は大きく舌打ちした。
「ッ。琥珀ちゃん殴ったんでしょ!? 黙ってないで、さっさと答えろや庵先輩!!!」
「うぐァ!?」
愛利の叫びと共に、再び背中に踵を捩じ込まれ、涙が出る程の激痛が体全体を駆け巡った。同じ箇所を何度も痛めつけられて、頭がおかしくなりそうになる。また思考は真っ白に吹き飛び、視界は溢れる涙で霞む。
それでも愛利は容赦しない。庵の背中を力強く踏みつけ、冷徹な視線を放ち続けた。
「......昨日さ、琥珀ちゃんが初バイトに来たんだよ。とっても暗い顔して入店してきたんだよ」
「星宮が、バイト......?」
思い返してみれば、星宮は庵と同じコンビニバイトをすると言っていた。その記憶を思いだし、庵はハッとする。でも、そんなことを今更思い出したところで何かが変わるわけでもない。庵と星宮の交際関係は既に断たれたのだ。
「でさ、アタシが『そんな暗い顔してどーしたの』って聞いたらさ、琥珀ちゃんは『何でもないです』って言ってきたんだよね」
「っ」
「琥珀ちゃんは口を割らなかったけどさ、ほっぺたが赤く腫れてて、雰囲気も暗くて、そんなんで何もないわけないに決まってる。琥珀ちゃん、嘘下手すぎだわ」
ここで愛利は一呼吸置く。そして愛利が再び口を開くときには、一段と瞳の冷徹さが増していた。あまりの圧に、庵の心は震え上がる。
「――んで、アタシは庵先輩が琥珀ちゃんを傷つけた犯人って直ぐに気づいたってわけ。というか、アンタしか犯人居ないよね」
「俺は......」
「もう自分から喋らなくていいよ庵先輩。アンタはアタシの質問にだけ答えて」
愛利の抑揚のない声が怖い。反論することさえも許されず、ただただ言葉を浴びせられる。そして愛利が纏う雰囲気もみるみると重苦しいものへと変化していく。
「女の顔殴って、あんだけ悲しませて。なんであんな最低最悪な事をしたの? 庵先輩。もしかしたら大変な事情があったのかもしんないけどさ、どんな事情があっても女を傷つけるのはないよ。マジでありえん」
「......そう、だな。最低だ」
「うん最低。あとさ庵先輩、琥珀ちゃんが今どういう状態か分かる? もしかして、ただ顔が腫れて、暗いだけとか思ってたりしてない?」
「え?」
庵は間抜けな声を漏らす。何せ、今愛利が言ったことの意味が分からない。星宮の顔が腫れて、暗くて――これ以外に何があるというのか。これ以外、何をやらかしたというのか。
だが、その答えは庵にとってあまりにも重いものだった。
「――琥珀ちゃん、歯折れてたよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。今愛利から放たれた言葉がゆっくりと脳内で処理されて、少しずつ庵の背筋は凍っていく。それは庵が初めて聞く情報だった。
星宮琥珀は15歳。とっくの昔に歯は全て永久歯に入れ替わっているはずだ。それが折れてしまったとなれば、もうそれは取り返しがつかない話になる。
「えっ。ま、待ってくれよ。は、歯って。歯って?」
「歯は歯だよ。奥歯。一本ぽっかりと折れてたよ」
「......え?」
思考が凍りつく。理解したくない。何も理解したくない。逃げたい。逃げ出したい。頭がおかしくなる。
「......え? え?」
何故。何故何故何故何故何故――。
「......俺の、せいで?」
意識が飛びそうなくらい、体から力が抜けていく気がした。視界がぶれて、愛利と目を合わせることができない。呼吸が乱れ、心臓の鼓動がありえないくらいに早まっていく。
今にも破裂してしまいそうな庵の心に、愛利は更なる追撃の言葉を仕掛けた。
「どう、責任取んの?」
「っ!!!」
『責任』という言葉に、庵は大きく動揺した。取り返しのつかない事をして、一体どう責任を取ればいいのだろうか。庵ができることなんて、きっと謝る事くらいだ。それだけで許されるなんて到底思えないし、ありえてはならない。
恭次に相談すれば、多少の償いはできるかもしれない。だが、この今でも大変な状況に、更なる爆弾を恭次に渡したら家庭崩壊どころの騒ぎではなくなる恐れがある。この状況はまさしく八方塞がりだ。これが最悪な夢であってくれればどれだけ救われるのだろうか。
しかし現実は無情。それに、まず一番目先の問題は、目の前に居る愛利だ。
「驚いてるとこ悪いけどさ、ちょっとアタシもう限界だわ。琥珀ちゃんの受けた苦しみを、アンタにも味合わせてあげる」
「......あ?」
「歯食い縛ってね、庵先輩」
瞬間、愛利から放たれた足蹴りが庵の顔面を盛大に弾いた。それを皮切りに、愛利の暴力が何度も繰り返され、庵は抵抗する間もなくサンドバッグ状態になる。
足蹴り。足蹴り。足蹴り。何度も、強烈な蹴りが弧を描いて飛んでくる。
目まぐるしく変わる視界は、だんだんと霞んでいく。しまいには痛みの感覚さえ薄れていった。最早、何をされているのかも分からない。
文字通りに身も心もズタボロにされ、数分後には完全に意識を失っていた。




