◆第63話◆ 『崩壊(3)』
――星宮を、殴った。
その事実の重さにだんだんと気づき始めたのは、あの時から数時間が経ったあとだった。自室のベットにポツリと座り、自身の手をグーパーグーパーと繰り返す。この手が、星宮を傷つけたのだ。
「......えっと、どうなったんだっけ」
星宮を傷つけて、そこからの記憶が曖昧だった。昨日から一睡もしておらず、どうも頭が回らない。今この場に星宮が居ないので帰ったのは確かだろうが。
「......あー」
星宮を殴った記憶だけは嫌というほどに脳裏に焼きついている。星宮の恐怖した顔、悲鳴、反応、それら全て今でも鮮明に思い出せる。今更思ってもしょうがないかもしれないが、庵は今になってこう思った。
――あのときの自分は、狂っていたと。
「あ、そうだ。殴ったら......そのまま何も言わずに逃げられて、帰って行ったんだっけ」
頭の中のピースがカチッと嵌まり、記憶を思い出す。庵が星宮を殴ったあと、星宮は顔を押さえて帰って行った。何も言わず、慌てて帰って行ったようにみえて。
「......そりゃ、逃げるよな。俺でも逃げるし、当たり前か」
自分より力量のある男に拘束され、あまつさえ暴力まで振るわれた。あのときの星宮の気持ちを考えてみれば、さぞかし怖かったことだろう。逃げられて当たり前だ。
「あぁ......」
ふとスマホを開いてみると、待ち受け画面を見てあることに気づく。表示されていたのは0:12という時刻表示。その表示を見て庵は鼻で笑った。
「――最悪の年越しだな」
時は1月1日、新年となっていた。
***
新年となり、空には輝かしい太陽が昇り始めていた。今日も眠らなかった庵は、人生で初めて初日の出というものを見た。しかし当たり前というべきか、特に何も感じるものはない。
そして、青美の死から二日経ったのが原因か、星宮を傷つけた事による刺激的な記憶の上書きが原因かは分からないが、少し自分が冷静になっている感覚を庵は感じていた。
「......星宮に謝りに行かないとな」
今日、庵は星宮のマンションに向かう。用件は、昨日の件について謝罪をするためだ。
「よし」
虚ろな瞳は変わらず、抑揚のない声で決意を口に出す。鏡を見れば、酷い顔をしている自分が立っていた。顔は洗ったのにこの有り様だ。しかし、今はそんなこと庵にとってどうでもいい。
「俺は、星宮に謝って――」
未だ心の奥底で燻るどす黒い感情は消えぬまま、玄関の扉を開く。これが、正しいことなのだと信じて。
***
「あの、すみません。このマンションに星宮って人が住んでると思うんですけど、何号室か教えてもらっていいですか?」
「ああ星宮さん? 星宮さんならここの三階の302号室......って、あなた酷い顔してるけど、どうかしたの? 目の下のクマが」
「もともとこういう顔です。ありがとうございます」
「えっ、あぁそうなの? 変なこと言ってごめんねぇー」
星宮のマンションまでやってきた庵は、知らないおばさんに星宮の部屋を聞き、真っ直ぐにマンションの中へと入っていく。薄暗い階段を、足音をカツカツと響かせながら歩き、無心で星宮の部屋のある三階まで歩いた。
「......ここ来るの二回目か。あのときは、部屋まで入らなかったけど」
このマンションには、一度庵と星宮と北条の三人で訪れた。あのときは星宮が朝比奈からいじめを受けて精神的に弱っていたため、星宮を北条と庵で自宅まで見送ったのだ。
そしてまさか、次行くときはこのような形で訪れることになるとは昔の庵は思いもしなかっただろう。
「......はあ」
そんなこんなで庵は星宮の部屋の302号室までやってきた。マンション特有の臭いが鼻につき、どうも落ち着かない。乱暴に鼻をこすってから庵はチャイムを押した。
――ピンポンと、部屋の奥で軽快なチャイムの音が鳴る。
「......はい」
それから数秒後、この部屋にいる住人が顔を見せる。勿論、出てきたのは星宮だった。上下長袖のピンク色のパジャマを着ていて、少し寝癖がついている。そして活気はあまりありそうに見えない。そして右頬には湿布が貼られていた。
「......えっ。天馬くん、なんで」
来客の正体が庵だと気づいた瞬間、星宮は少し驚いた様子を見せる。その様子は怯えているようにも庵には見えた。
「星宮。急に訪ねて、ごめん。えーと......話したいことがあってさ」
「......そうなんですか」
話すことは会う前にまとめておいた筈なのに、いざご対面となると、直前まで考えていたことが全て吹っ飛んでしまう。よって謎の沈黙が二人の間を包み始めた。
「......あ」
話すことを思い出そうとしていると、自然に星宮の右頬に貼られた湿布に目が行ってしまう。宝石級の美貌に似合わない湿布。それが、庵にはとても痛々しく見えた。
「これ、ですか?」
「え?」
星宮は庵の視線の気づいたのか、湿布に手を当てて口を開く。
「もうだいぶ痛みは引いたんですけど、まだ痛むので湿布を付けてます。多分今日中には外して大丈夫だと思いますけどね」
「......そうだったのか」
それを聞き、改めて庵は自分の罪を重さを実感する。湿布を貼らなければならなくなるほどの力で星宮を殴ったのだ。被害者である星宮の苦しみはとても辛いものだっただろうし、下手すれば警察絡みの問題に発展しかけない一件だ。
「え?」
――庵は息を飲み、ゆっくりと星宮の前で腰を折る。
「今日は、星宮に謝りにきたんだ。俺、一日経ってちょっと冷静になれてさ。どうすればいいか分かった気がするんだよ」
「は、はあ」
「だから星宮、ごめん。昨日は酷い事言って、殴って......本当にごめん」
「......」
しんみりとした庵の言葉に、今度は星宮が息を飲む。昨日の庵との態度の違いに、少し困惑しているのだろう。困惑して、なかなか言葉が出てこない。
だがしかし、これはとても難しい問題だ。
「......ごめんなんて言われても、私は何て答えればいいんですか。許してあげたいですけど、ちょっと私も許し辛いっていうか......勿論、天馬くんも大変な事情があるっていうのは分かってますけどね」
「......」
「だから、えーと......どうしましょうか」
星宮が許すことを躊躇っている。それは当たり前の話だろう。キツイ言葉を投げかけられ、暴力を受け、そんな簡単に許せるはずがない。庵が星宮の立場になれば、絶対に許さないはずだ。
「......その話なんだけどさ。俺、考えたんだよ。俺のやらかした事について」
「え?」
庵は昨日今日と寝ずに自問自答を繰り返した。自分がするべき行動は何なのか。罪を犯した自分がするべき最善の行動は何か。
――冷静になったつもりで、考え続けた。そして一つの答えに辿り着いたのだ。
「俺はさ、星宮を傷つけた。最低なクズ野郎だよ。絶対に星宮は傷つけないって心の中で決めてたのにさ、そのルール破っちゃったんだよ」
星宮のマリンブルー色の瞳に不安の色が宿る。庵は作り笑いを浮かべ、そのまま話を続けた。
「今思えばさ、俺ってめちゃくちゃヤバいやつだよな。全く面識の無い星宮に『付き合ってくれ』なんて頼んでさ。そっからもう俺、だいぶ頭おかしいんだよ」
自嘲しながら言葉を続ける。昨日ずっと考え続けたことを、そのまま星宮にも話す。ゆっくりと焦らずに一つずつ。
「勉強もできないし、学校では陰キャだし......そんなんが星宮と付き合ってんだよ。マジで身の程を弁えろって感じだよな」
ここで、庵は一息つく。作り笑いはもう限界だった。
「そんなクソみたいな俺が、ついに星宮を傷つけたんだよ。こんなのもう、許せるはずがないよ。許しちゃだめだ星宮」
「......え? さっきから何が言いたいんですか」
星宮にそう問われ、庵は一回深呼吸した。荒ぶる心臓に冷静を促し、再び顔に出来の悪い作り笑いを浮かべる。そして、昨日見つけた答えを口に出す。
「今まで無理に付き合ってもらってごめん」
「え?」
「俺たち別れよ」
時が止まったのかと思わされるような錯覚を感じる。でも、それは直ぐに錯覚なのだと理解できた。何故なら、星宮の足音のコンクリートに、できたばかりの小さな染みがあって――、
「......」
「えっ。ちょ、星宮?」
星宮のマリンブルー色の瞳から大粒の涙が溢れだしていた。涙は止まらず、星宮の表情も少しずつ崩れていく。庵の心臓は再び激しく鼓動を打ち始めた。
「.....は?」
星宮から気の抜けるような声が漏れた。
気づけば、星宮は今までに一度も見せたことの無い表情を庵に見せていて――、
「.....最低っ」
「あ?」
星宮の口から出たとは思えない言葉が聞こえ、庵は自身の耳を疑う。しかし、星宮の中で燻りだした火はみるみると勢いを上げだしていた。
「.....最低っ。自己中っ。自分勝手っ! なんで、なんでそうなるんですか!? 意味が分からないです!」
「は? いやちょっと待てよ。落ち着けって」
星宮が怒っている。泣きながら、怒っている。こんな激情を宿す星宮を見るのは初めててで、庵もどう扱えばいいか分からない。対する星宮はどんどん顔を赤くし、涙をパジャマの袖で拭いながら庵に言葉を放つ。
「そんなの、いくらなんでもあんまりですよ! 一体どういう考えしたらその結論に至るんですか!? 私は、もう、全く分かんないです!!!」
「いや、だって俺らの関係なんかもともと薄いものだったはずだろ」
「――ッ」
星宮の言葉に反論すると、それが更に星宮の心を抉ったのか、また一段と星宮は表情を崩す。目を大きく見開き、そして顔を両手で覆った。どうやら言うべきではない発言をしてしまったらしい。
「天馬くんにとって、私はそんな軽い存在だったんですか!!! 別れて、はいおしまいとでもする気ですか!?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「こんなの......こんなの、酷いです! なんでそんな簡単に裏切れるんですかっ!」
「裏切る? 俺はこうしないと星宮に償えないって思ったから、だから別に星宮を裏切ったとかそんなんじゃ......」
星宮が顔を上げ、再び強く庵を睨み付けた。あまりの圧に、庵は少し驚く。いつも穏やかな星宮がここまでの威圧感を放てることに驚いた。
「っ。天馬くんも、あの子みたいに私を裏切って、私の敵になるんですか!? また、私は苦しめばいいんですか!? 私は、また普通の学校生活を送れないんですか!?」
「はあ? 何でここで学校が出てくるんだよ。それに、俺は星宮の敵になるつもりはない......いや、暴力振るったから、もう敵って思われてるかもしれないけどさ。てか、あの子って誰だよ」
「私の、昔の友達ですよ!」
「いや知らねぇよ。というか、なんでそんなキレるんだよ。こうするしか俺が星宮に償える方法はないだろ。星宮も、こんな俺なんかとっとと忘れてくれ」
星宮の言うことが理解できず、庵までイライラとしてきた。何故、自分の考えが星宮に共感してもらえないか分からない。さっきまで申し訳ないという気持ちで一杯だったのに、また昨日のどす黒い感情が溢れそうになる。
「っ。天馬くん、本当にどうしちゃったんですか? なんでそんなに、酷い事ばっか言うんですか! もう少し落ち着いてみてくださいよ!」
「俺は冷静になっている。俺からしたら、星宮がキレる方が意味不明だ」
涙をもう一度パジャマの袖で拭い、最後にもう一度庵を睨み付けて――、
「っ。もう、いいです」
「......あ」
呼び止めようとしてももう遅い。呼び止めれたとしても、最早前言撤回などできるわけがないし、するつもりもない。
星宮が庵に背を向ける。でも何故かその背に、勝手に手が伸びていて――、
「天馬くん、本当に最低ですよ」
玄関の扉は、小さな音を立てて閉じられた。庵はしばらくそこから動けない。動けず、しばらくその場に硬直する。
ただ一人、星宮の部屋の前で取り残された。まだ時間帯は朝なので、窓から入ってくる冷風が体を震わせる。凍える感覚を体全体で味わいながら、ボーッと虚ろな瞳で天井を見上げた。
ついに星宮を泣かせてしまったな、と思って。
「俺、冷静になれてる......よな? これが正解なんだよな?」
庵の中で、また、何か大きくて大切なものが崩壊したように感じられた。




