◆第62話◆ 『崩壊(2)』
庵のあまりの豹変ぶりに星宮は文字通り言葉を失った。会ってみれば以外と元気かもしれないなんて期待はあっという間に崩れ去る。いつもならちょっと照れくさそうに星宮を出迎える庵が、今は何の感情も含まれていない虚ろな瞳をしていた。
しかし、ここで星宮が躊躇していては話は進まない。冷たい視線を無視して、強気に睨みかえす。
「......帰れって、どうしてそんな冷たいこと言うんですか。というより天馬くん、昨日の通話は何なんですか。いきなり関わってこないでなんて言われて、私びっくりしましたよ」
「――」
「返事くらいしてください。急にどうしちゃったんですか、天馬くん」
星宮の言葉に再び庵は無視を貫く。するとまた部屋に沈黙が流れた。
庵の考えていることが分からない星宮は、どうしたものかと頭を悩ませる。無視をされるならば、どうすればいいのだろうか。少し考えた末、星宮は一つ案を思いつく。
「......隣、失礼しますよ」
やったことは単純。勇気を振り絞って、庵が座る隣に腰を下ろしたのだ。腕と腕が触れるギリギリの距離まで詰めて、座ったのだ。
「天馬くん、話を聞かせてください。そんなに暗い顔して、どうしたんですか」
至近距離で星宮は庵に話しかける。『絶対に無視はさせない』という意思を込め、顔を覗きこむようにして強引に視線を合わせた。
するとさすがの庵も無視はできないと思ったのか、ゆっくりと顔を星宮の方へ向ける。冷たく、虚ろな視線のまま星宮を見つめて――、
「――ぃんだ」
「え? ......もう一回言ってください」
何か庵が言葉を発した。だがそれを星宮は一回で聞き取れず、再び聞き返す。庵は虚ろな視線のまま、先ほどと同様に抑揚の無い声で今度ははっきりと言葉を口にした。
「母さんが、死んだ」
***
――『母さんが死んだ』。
あまりに短く、この簡潔な言葉は星宮の心を大きく揺さぶった。庵のタチ悪い冗談かとも思いたくなるが、無論冗談の雰囲気など一ミリ足りとも存在しない。
「......え?」
理解し難い内容に、何と言葉を返せばいいか分からない。何せ、星宮は三日前に青美と会ったばかりだ。つい三日前の記憶の青美は、とても元気そうにしていたはず。冗談ではないと分かっていても、疑わないわけにはいかなかった。
「そんな......死んだって......? え?」
「事故った。道路が凍結してて、車が落ちた」
「......」
説明を聞き、星宮は悲痛な表情で息を飲む。交通事故が原因となれば、直前の健康状態など関係ない。しかも道路が凍結していたとなると、不運としか考えようのない事故だ。
星宮の心の中で沢山の感情が渦巻くが、今一番辛いのは庵だということは理解できている。だが、この状態の庵に、星宮は何と言葉をかけるのが正解なのだろうか。とてもじゃないが、この状態の庵を見捨てて帰る、という選択肢は星宮の中ではない。
「......っ」
何と言葉をかけるべきか考える。しかし何も思い浮かばない。心が動揺しているから思い浮かばないという理由もあるが、動揺していない状態だとしても、この状態の庵にかけるべき最善の言葉を思いつける気がしない。
早く何か言葉をかけなければという気持ちが先走り、星宮の口が動く。深く考えずに口は動いていた。
「......それは、大変でしたね」
出たのは同情の言葉。咄嗟に出た言葉なので、特別意味がこもった言葉でもない。しかし星宮的にはとても無難な言葉だと思えた。
しかし、しばらくの沈黙のあと庵は再び顔を上げる。星宮は息を飲んだ。
「――は?」
語気の荒い、短い言葉だった。虚ろな瞳にどす黒い色が宿り、それが星宮を見つめている。このとき、初めて星宮は庵を心の底から恐怖した。
「大変って、星宮に何が分かるんだよ。何も分からないくせに、なんで俺に同情できるんだよ」
「えっ、わ、私は、天馬くんの気持ちに少しでも寄り添えたらって思って」
「俺に寄り添えなんて頼んでねぇよ」
「そんな......」
声が震える。庵の視線が怖い。あまりの庵の冷たさに、星宮の心は挫けそうになる。この重苦しい雰囲気に呑まれ、星宮まで胸が苦しくなりそうだった。
「......で、でもっ」
しかし星宮はちょっとやそっとの圧力に屈するような女子ではない。それは、今まで経験してきた凄惨な過去が、星宮の心を鍛え上げたのだ。だからこそ星宮は逃げない。一度は怖じけついた心を奮い立たせて、再び強気な光をマリンブルーの瞳に宿す。
「確かに、私は天馬くんの今の気持ちを理解しきっているとは思いません。だから、私は天馬くんに心の底から同情することはできないと思います」
「――」
「でも、それでも私は天馬くんに元気を出してほしいんです。天馬くんは私の彼氏さんなんです。そんなに暗い顔をしていたら、何も分からなかったとしても天馬くんの心に寄り添いたくなるんです」
優しく、心を込めて言葉を放つ。星宮の本心が言葉となり、強い気持ちを庵に届けていく。少しでも庵の心を軽くできたらと、楽にできたらと言葉を放つ。本当に善意だけを込めて口を開いた。
しかし、傷心しきった庵の心に、星宮の善意など微塵も伝わらない。
「だから天馬くん、少しだけでも元気を」
「黙れよ」
瞬間、星宮は何が起きたか理解できなかった。庵の言葉が理解できなかったわけではない。突如庵から伸ばされた手が、星宮の腕を乱暴に掴んだのだ。
「えっ、きゃぁっ!」
悲鳴が上がる。だが庵はお構い無く星宮の腕を力を込めて引っ張り、ベットに仰向けになるよう星宮を押し倒した。そのまま庵は星宮を馬乗りにし、抵抗しようとしてくる星宮の腕を封じて掴む。今の一連の流れは、本当に一瞬の出来事だった。
「ちょ、ちょっとやめてくださいっ。何するんですか!」
抵抗する間もなく馬乗りにされた星宮は目を丸くする。しかし両腕を掴まれ、足も動かせない今、星宮が動かせるのは口だけだ。何をされるか分からない恐怖に、星宮の警鐘が鳴り響く。
「――さっきから、綺麗事ばっかり喋りやがってウザイんだよ」
「っ。私は、心の底から天馬くんの事を心配しています。とりあえず私から離れてください天馬くんっ。重いし、痛いです」
星宮の本能が恐怖を訴えている。今すぐ庵から離れないと大変なことになる気がしたのだ。しかし星宮は女で庵は男。体格の差や力の差で、星宮は圧倒的に庵に劣っていた。
「離れて、くださいっ!」
何とか庵から逃れようと体をじたばたとさせる。だが庵の腕を振り払おうとすれば、庵の躊躇のない全力の握力が星宮を苦しめた。
「痛っ。やめて、ください天馬くんっ。私は、天馬くんを......」
ここで星宮は言葉を詰まらせた。その理由は、庵と目が合ってしまったことにある。人間のものとは思えない冷徹で殺意さえもこもっていそうな視線。それが、星宮だけを貫いていた。
その視線に気づいた星宮は庵から抵抗するのをやめる。これも本能だった。これ以上抵抗するのは危ないと感じたのだ。
「誰のせいで、母さんが死んだと思ってんだよ。星宮」
「......え?」
突然問いを投げかけられ、星宮は言葉を詰まらせた。しかし星宮が何かを言う暇もなく、庵が口を開く。
「――お前のせいだよ」
残酷な言葉は星宮の心を震わせる。庵の言ったことが理解できず、星宮は困惑した表情を作ることしかできない。何せ、星宮は青美の生死に関わるような事をした覚えはない。当たり前の話だ。
しかし、何も星宮がしていないとはいえ、間接的に何かをしてしまった可能性は残されている。
「母さんは星宮のために初詣用の着物を買おうとして、その着物を買った帰り道に事故ったんだよ......だから全部、星宮が悪いんだよ。星宮さえ居なきゃ、母さんは着物を買いに行かなかったし事故りもしなかったし、死にもしなかったんだよ!!!」
「っ。天馬くんのお母さんが......私のために?」
青美が自分のために着物を買いに行ったなど、そんな話は星宮に聞き覚えはない。だからこそ、今庵にとてつもなく理不尽な刃を向けられていることが理解できる。間接的にとはいえ、庵の言い分はあまりにも理不尽だ。
「星宮のせいで母さん死んだのに、何が元気を出してほしいだよ、笑わせんなよ。軽い事ばっかり言いやがって。星宮は母さん死んだことあんのかよ。あるわけないよなぁ!?」
「痛っ」
庵の握力が強まり、腕を掴まれる星宮は眉を寄せる。抵抗しようとすればするだけ痛い目をみることになるので、星宮は無抵抗という選択肢しか取れない。それでも必死に頭は回し、庵の言葉に耳を傾ける。
星宮は庵に軽い言葉をかけたつもりはない。本心から庵を心配し、本心から庵を労ろうとしたのだ。だからそのことを、庵に分かってほしかった。
「っ......軽い事なんか、言ったつもりはありません。私は、天馬くんのことを心から心配してますっ」
怖じけつく心を再び奮い立たせ、庵に歯向かう。最悪の状態でも、最後まで庵と自分を信じて星宮は言葉を放つ。きっと、庵なら分かってくれると信じて。
「だからさ、うるせぇよ」
「......え?」
冷酷な言葉と共に、急に庵の手が星宮から離れた。急に封じられていた腕を解放されて星宮が困惑するのも束の間。安堵する間もなく、星宮は信じ難い光景を目の当たりにした。
「えっ。待って。待ってください天馬くん!」
庵が腕を振り上げている。冷徹な視線は、やっぱり星宮だけを貫いていて――、
「もう俺限界だ、星宮」
瞬間、庵から放たれた全力の拳は、星宮の右頬に直撃した。硬くて柔らかい感触を庵は感じた。




