◆第57話◆ 『現実に叫ぶ』
電話の後、直ぐに帰ってきた恭次。髪には薄く雪が積もり、服装は激しく乱れている。そんな恭次に――父に、庵は腕を掴まれ、そのまま車に乗せられた。
父からは何の説明も受けていない。ただ「青美が大変なことになった」とだけは聞かされた。具体性に欠け、何の想像もつきそうにない。しかし、文面だけ見れば、不穏な雰囲気が漂っている気がしてならなかった。
「おい。父......さん?」
「――」
信号で車が停車する。瞬間、恭次の足蹴りが車内に響き渡った。そしてそのまま、恭次はアクセルを大きく踏む。
「くそ......っ。仕方ない」
「お、おいっ。赤信号なんだけど!?」
「お前は黙ってろ!!!」
堂々と信号無視をする恭次。長年ゴールド免許を保ち続けてきた恭次の奇行に、さすがの庵も大声を上げる。しかし、その声は更なる罵声に蓋をされた。
「うあっ。あぁっ」
一度信号無視をしたと思えば、それを皮切りに何度も信号無視を繰り返し、まさしく蛇行運転を繰り返し始めた恭次。一歩間違えれば大事故になりかねない狂行。何度も揺れる車内に、庵は心臓を跳び跳ねさせながらしがみついた。
「一体......どこ向かってんだよ......!」
事故の恐怖と、車内の寒さに身を震わせながら声を上げる。だが、答えはもう目の前に建っていた。雪が降り、視界が悪い窓の先、白く大きな建物が建っていて――、
「......は? 病院?」
庵を乗せた恭次の車は、乱暴に駐車場に停車した。
***
どこか大きな病院を到着するや否や、後ろを振り向くことなく病院内へと入る恭次。そんな恭次の大きな背中を追いかけ、庵も後を続く。
「走れ!!」
「わ、分かった」
人の迷惑も考えず、病院の廊下を走っていく。途中、アルコール消毒液が置かれた台を倒してしまうが、勿論無視をする。
「何が......っ、どうしたってんだよ」
病院内を走っていく内に、だんだんと人とすれ違わなくなっていく。一体、恭次がどこに向かおうとしているのか分からない。ただひたすら、何も分からずに足を動かす。
そしてどれくらい病院内を走っただろうか。二人は、『手術中』と光る看板が付いた部屋の前までやってきた。そこには、血相を抱えた一人の看護師が待機していて――、
「っ。天馬さんでしょうか?」
青っぽい手術用の服を着る看護師。マスクで目の回りしか見えないが、汗が浮かんでいる。その看護師に対し、恭次は肩を掴み、食らいつくように話しかけた。
「青美はっ! 青美はどうなった!!」
神にもすがるかのような悲痛な叫び。しかし、その叫びに看護師は芳しくない反応を示す。その反応が既に、この問いの答えを示していて――、
しかし、その答えが言い渡される前に、手術室の扉ががらりと開く。
「っ。先生!」
「ああっ、こちらの方は?」
「はい。天馬さんのご家族の方です」
出てきたのは看護師と同じく、手術用の服を着た老齢の病院の先生だ。こちらも、額には大量の汗が浮かんでいる。恭次は看護師から手を離し、次は先生の肩を乱暴に掴んだ。
「先生っ。青美は、どうなったんですか!? 無事なんですか!!」
恭次の必死の叫び。展開についていけない庵は、何も思考をまとめることができず、ただ先生の顔だけを見つめていた。
そして無情にも、先生の口から残酷な答えは告げられる。
「――最善は尽くしましたが、残念ながら」
***
「うあああああああああっ!!!うおおおおっ!!!」
隣で恭次の絶叫が聞こえる。しかし、その声は庵の耳にはまったく入っていなかった。庵は白いベットの前で棒立ちする。目の前には理解し難い光景が広がっていた。
「......え? は?」
――目の前には、ベットの上に乗せられた母の姿。顔には白い布が被せられ、身体にも布を被せられている。しかし、体格を見ればそれは紛れもなく青美のものだった。
「いやっ。いやいや、何の冗談だよ。笑えないって」
青美は台の上で、ピクリとも動かず、寝息の一つも立てない。これが何かの冗談としか思えず、庵は現実逃避をする。しかし、残酷すぎる現実は直ぐ目の前に存在しているのだ。
「か、母さん? おい、母さん? 母、さん」
青美の手を掴む。ありえないくらい、冷たかった。
「うあぁっ!?」
人間じゃないものを触ったかのような感覚に、庵は直ぐ青美の手を離し、その場に尻餅をつく。離した青美の手は、だらしなくベットからぶらさがった。
「嘘だ。嘘嘘、嘘だって。いくらなんでもタチ悪すぎんだろ......!」
己を鼓舞し、立ち上がり、もう一度青美の手を掴む。――やっぱり冷たかった。
「嘘、だぁ......!」
目尻が熱くなる。鼻が痛い。気づけば、涙がこみ上げてきた。庵は止めどなく流れる涙を、必死に服の袖で拭う。だが、いくら拭っても拭いきれない。
「うっ......くそがっ......」
泣いている自分が気持ち悪い。泣くということは、この現実を肯定してしまっているようで、そんな自分が庵は許せなかった。受け入れる筈がないのに、心のどこかではこの現実を受け入れてしまっているのだ。
「なんでっ。なんでぇ......!!! 何があったって、言うんだよ!」
何も分からずに、突然こんな状態の母親を見せられて、庵は怒りと悲しみを同時に感じ出す。青美の手を握る手に力を込め、叫ぶ。がっつくように、思いの丈を叫んだ。
「――星宮と、初詣に行く約束だっただろ! アレはどうなるんだよ! めちゃくちゃ楽しみにしてただろ! 母さん! ......俺はあんまり楽しみじゃなさそうにしてたかもしれないけどさ、実は結構楽しみにしてたんだよ」
「悪かったよ。いつも余計な見栄ばっかり張って、母さんを困らせてさ。謝るよ。謝るからさ、一緒に、家族みんなでっ、星宮も連れて初詣行こうよ! そういう約束だっただろ! ドタキャンとか、そういうの無しだから!」
「だから、母さん、戻ってこいよおぉ!!!」
返ってくる答えは何もない。冷たい青美の体の上に顔を埋める。体の震えが止まらず、気づけば人目も憚らず大泣きをしていた。
「あああああああぁっ!!!」
恭次と一緒に泣き叫ぶ。鼻水垂らして、顔を真っ赤にして、頭がおかしくなりそうだった。
まだほとんど理解できていないのに、青美の『死』だけはしっかりと脳が理解してしまっている。それが、一番認めてはいけないことだと分かっているのに。
――今日、庵の母――青美は死んだ。そして、この出来事は庵の『これから』を大きく狂わせていく。




