◇After Story第13話◇ 『宝石級美少女と江ノ島旅行【いざ出発】』
今回より、物語で描く最後の二人のデートが始まります。
8月19日。
耳の横で、軽快な音をするアラームが鳴り響いている。
「――んん」
その音に鼓膜を刺激され、眠っていた脳みそがゆっくりと覚醒した。重たい瞼が少しずつ開いていき、ぼやけた視界にいつも通りの光景が少しずつ輪郭を取り戻していく。
体を起こし、目を擦ってから、未だうるさく鳴っているスマホのアラームを止める。
「よし。寝坊は無事回避、と」
時刻は午前5時01分。カーテンを開いて窓を見ると、外がうっすらと明るくなってきていた。
庵は少し早い朝の陽ざしを浴びながら、部屋の電気を付ける。それからもう一度スマホを手に取り、LINEを開く。頼まれていたことを今からするのだ。
「あ、もしもし?」
『――はい、もしもし。ちょうど今起きました』
通話をかけると、数秒経った後に琥珀は応じてくれた。朝、お互いが寝坊しないように、先に起きた方から通話をかけようと事前に話していたのだ。
いつもより少し低い、眠たそうな琥珀の声が妙に庵の耳をくすぐった。
「なら良かったよ。眠たそうだけど、昨日はちゃんと寝れたか?」
『んー、早めにベッドに入ったんですけど、なかなか寝付けなくて、あんまり寝れてないかもです』
それは庵も同じで、昨日の夜は今日のことを考えすぎてなかなか眠れなかった。なので、結局いつも寝る時間とあまり変わっていない。ただ、今日ばっかりは起床後に眠気をあまり感じないが。
「そっか。まぁ眠かったら俺の父さんの車か飛行機で寝ていいからな」
『多分今日は色々と興奮しちゃってもう眠れないですよ。寝るときは、夜のホテルでぐっすり眠らせてもらいます』
庵の配慮に、小さく笑う琥珀。それについては庵も同感で、今日は眠気が訪れるタイミングなんて一度も来る気がしない。
「そうだな。じゃあ俺準備するから、琥珀も準備できたら俺の家来て」
『はい。分かりました』
お互いが起きていることは確認できたので、これ以上の通話は必要ない。早く起きたとはいえ、そこまで時間に余裕があるわけではないのだ。
最後に、庵は重要なことを琥珀に伝える。
「忘れ物だけはしないようにな」
『昨日のうちに持っていくものは全部玄関に持って行っておいたので大丈夫です。もう、何回も確認したんですから』
その自信満々な口ぶりに、庵は頬を綻ばす。琥珀は随分と用意周到なようで、こちらからこれ以上特に何か言う必要はなさそうだ。
通話を終えようと、庵は赤のバツボタンに指を伸ばす。
『庵くん』
「どした?」
その前に、琥珀が庵の名を呼んだ。
『今日、楽しみですねっ』
そんな明るい声が聞こえた瞬間、通話が琥珀側から切られた。通話の画面が消え、琥珀とのトーク画面に戻る。
そして庵は一人、ベッドの上で笑った。
「――ああ、俺もだよ」
今日は二人が待ちに待った江ノ島旅行。
庵は期待に胸を膨らませ、弾んだ足取りで部屋から飛び出ていった。
***
階段を下りて、リビングに向かう。まだ家中どこも薄暗かったが、リビングだけはドア越しに明かりがついているのが分かった。
「――おお庵、起きたのか。ちょうど今起こそうと思ってたところだ」
ドアを開けると、何故かエプロン姿の不気味な父親――恭次の姿があった。庵は何故恭次が起きているのかという疑問と、何故エプロン姿なのかという恐怖を同時に抱くが、目の前のダイニングテーブルを見てその理由に納得する。
「朝ごはんくらい自分で作ったのに」
テーブルの皿の上には、ベーコンとウインナー、目玉焼き、そして熱々のお米があった。ご丁寧に醤油瓶と麦茶も置いてある。恭次が早起きして、わざわざ庵のために作ってくれたのだろう。
「気にするな。今日は庵にとって大切な日なんだから、少しくらい父さんが手伝ってやるさ」
珍しく、かっこいい父親風のことを口にしながら、今度は自分の朝ご飯を作り出している。庵はらしくない恭次を少し鼻で笑いながら、内心とても感謝して席についた。
「まぁ、ありがとう。ありがたくいただく」
「ああ。母さんほど上手くは作れないがな」
父親の謙遜を聞きながら、庵はまずベーコンに着手する。縦長いそれを箸で掴み、歯で嚙みちぎった。熱い肉汁が漏れ出すのでそれを一気に白米で流し込む。美味しい。
すると、恭次が目玉焼きを焼きながら、庵にまた話しかけてきた。
「――庵、星宮さんは6時30分に家に来るんだよな?」
「そうだよ」
今回の旅行は、まず恭次に二人を空港まで送ってもらうところからがスタートだ。なので恭次も割と重要な役割を担っている。
「すぐ父さんの車で出発しても、米太空港までは絶対40分はかかるからな。時間には気をつけて行動するんだぞ」
「分かってるよ。そこらへんもちゃんと頭に入ってる」
恭次は割と心配性なのか、何度も同じ話をしてくる。ただ、飛行機の出発時刻に間に合うために、庵たちも何度も話し合って予定を立てたので、そこについては無問題だ。予想外のアクシデントが起きても対応ができるように、時間には余裕を持たせてある。
「なら、あとは持ち物だな。ちゃんと避妊具は持ったか?」
「ッ!? ごほっ。げほっ」
麦茶を飲んでいる最中にとんでもないことを言い出すので、思いっきり吹き出してしまった。コップをやや乱暴に机に置き、庵は後ろを振り返る。
「いきなり何の話だよ!?」
「デリケートな話題なのは分かっている。だが、庵は星宮さんに対して責任が取れる年齢ではないんだ。一度の過ちですべてが崩れる。父親として、それをお前には分かってもらいたい」
「分かってるわ! 親からそういう話聞きたくないからマジでやめてくれ!」
「するなとは言わない。父さんもお前くらいの頃は、そういうことに興味津々だった。それは高校生男児たるもの、別に普通のことだ。ただ、紳士としてあるべき行動をしろと父さんは言っているんだ」
「やめろって言ってるじゃん!?」
息子の意思に反してぺらぺらと語る恭次。それは庵も重々承知していることだし、わざわざ父親の口から聞きたくないので、思わず大声を出してしまった。それでも恭次は止まらなかったが。
「お互い、合意のもとでな。無理やりはほんとに良くない。これは父さんの経験則だ」
「分かったからほんとに黙ってくれ」
そうしてようやく口を閉じた恭次。昔から変わっていないのだが、すごくデリカシーのない父親だ。
今のやり取りでどっと疲れが押し寄せてきた庵は、その場でうつぶせになってしまう。
(......まぁ、持ち物には当然入れたけどさ)
反発はしたものの、当然庵の持ち物の一つに避妊具は入ってる。それも、一昨年琥珀の目の前で恭次から渡されたものだ。あのときはこんなもの絶対に使うわけないだろうとゴミ箱に投げ捨てかけたが、なんやかんや今日まで大切に保存してきた。
まさか、本当にこれを使う日が来るかもしれないとは、あの時は思いもしなかっただろう。
「それと、一番大事なことを今から息子に言うぞ」
「......なんだよ」
わざわざそんな前置きをするので、またとんでもないことを言い出すのではないかと庵は身構える。だがそんな心配は杞憂だった。
恭次は一度料理の手を止め、後ろを振り返り、庵の背中に優しい父親の視線を向ける。
「星宮さんをちゃんとエスコートしてあげるんだ。見せかけでもいいから、お前はしっかり頼れる男を演じるんだぞ」
最後に父親らしいアドバイスをもらい、少し拍子抜けを感じた庵。だがそのアドバイスはもっともなので、自信を持って頷いた。
「もちろん」
***
――ピンポンと軽快なチャイムが天馬家に鳴り響く。
それが聞こえた瞬間、庵は自分の部屋から出て、階段を降り、一直線に玄関へと向かった。扉越しに見える小柄なシルエットは間違いなく琥珀のものだ。
「――」
鍵を開け、扉を開く。するとそこには当然、宝石級美少女の姿があった。手には大きなキャリーケースがある。
「おはようございます庵くん」
「おはよう琥珀。こんな朝早く会うのは初めてだな」
「ですね。ちょっと変な感じします」
「いやマジで分かる」
まずは目線を合わせて朝の挨拶。早朝に琥珀と会うのはとても新鮮で、琥珀の言う通り少し変な感じだ。しかし、この新鮮さのおかげで旅行の始まりを強く実感でき、わくわくもする。
「朝も聞いたけど忘れ物はなさそう? 大丈夫?」
「はいっ。絶対大丈夫です。それに、仮に忘れ物があっても、スマホと財布があればなんとかなりますから」
「それもそっか。なら安心だな。――んじゃ、あとは出発するだけか」
飛行機はスマホで予約してので、紙のチケットはなく電子チケットだ。なので、チケットを忘れて飛行機に乗れないという最悪のパターンは考えなくても大丈夫。
更に、琥珀の言う通り、目的地に着きさえすればあとは現地でどうとでもなるので、最悪忘れ物をしても大丈夫だろう。
「父さーん! 琥珀来たから、そろそろ出発して!」
「――分かった。今そっちに行く」
庵は玄関からリビングの恭次を呼ぶ。すると、奥から着替えた恭次がのこのことやってきた。玄関まで来たところで琥珀はぺこりと頭を下げる。
「あ、今日はよろしくお願いします」
「あぁ。こちらこそよろしく。忘れ物は大丈夫かい?」
恭次は笑みを浮かべ、庵と同じ問いを投げかける。やはり彼氏の親なので少し緊張しているのか、琥珀の表情が少し硬い。そんな琥珀も可愛いと庵は思ってしまうが。
「はい。大丈夫です」
「そうか。なら安心だ」
「父さん、さっきそれ俺が聞いたから」
一応庵がツッコむと、恭次は「おお、そうだったのか」と言いながら瞬きをする。それから恭次は二人の間を抜け、一人外に出た。手には車の鍵が握られている。
「準備ができたなら出発するぞ。二人とも、もう大丈夫なら車の後ろに乗ってくれ」
恭次の言葉に二人は顔を見合わせる。もう、お互いが何を思っているかなんて言葉にせずとも分かり合えた。先に琥珀が破顔して、庵の思いを代弁する。
「いよいよですねっ、庵くん」
「ああ、そうだなっ」
一泊二日。庵と琥珀の江ノ島旅行がついに始まった。
前書きと前回のあとがきに書いた通り、これが物語で描く最後の二人のデート(旅行)になります。一文、一文。一言、一言、大切に描かせてもらいます。名残惜しいですが、新たなステージへと踏み出す二人を最後まで見守ってやってください。




