◇After Story第11話◇ 『ボーイズトーク』
――気づけば夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬も過ぎ、また春が来ていた。
庵たちは高校三年生へと進級し、来年には卒業を控える最上級生に。それすなわち、進路、あるいは就職を本格的に考えなくてはいけない、大変な一年になったというわけだ。
だが、庵には来年に卒業するという実感がまだ湧いていない。高校三年生と言っても肩書きが変わっただけにしか思えなくて、どうしても気持ちを切り替えることができなかった。
「――よし」
今日も普段と何変わらぬ日々。いや、クラスが変わって琥珀とは教室が別れてしまったので、最近は少し毎日が物足りなく感じている。それでもほぼ毎日顔を合わせているので、特にこれといった問題はないが。
教室に到着後、自分の席に鞄を置いて、庵は辺りを見回した。そして、自分の机で一人黙々と青い犬の単語帳を読んでいる女子を見つける。
「朝から単語帳とか、偉いやつだな」
「当たり前でしょ。一月の共テまで、気づいたらあっという間よ。後から焦らないように今からコツコツとやらないと」
「誰の影響か知らないけど、朝比奈も随分意識が高くなったな。俺は悲しいよ」
後ろから話しかけると、首だけこちらに向けてくれる女子――朝比奈。朝比奈とは二年連続同じクラスで、今ではそれなりに仲のいい友達になっている。前はトゲトゲしていた朝比奈の性格もずいぶん緩和されて、だいぶ愛想が良くなったと庵は思う。尚、朝比奈との関係性が一番変化したのは庵ではなく別にいるのだが。
それはさておき、最近朝比奈は休憩時間に単語帳を読んだり勉強をするようになった。暁と付き合うようになってから意識が変わったのか、昔のバカの面影が消えつつある。提出物も遅れて出すことはなくなったし、考査でも大体平均点以上を取っているし、今ではクラスの中でもそれなりの優等生だ。
「あんたもさー、そろそろ勉強頑張ったら? 琥珀と同じ国立の大学目指すんでしょ?」
「うるせーよ」
実に庵にとって耳の痛い言葉だ。特に朝比奈から言われると心にくるものがある。庵もやらなくてはいけないということは分かってはいるのだが、分かっているだけで行動に踏み出せないのだ。
「あーマジで受験とか嫌だ。高校受験頑張ったのに、すぐまた大学受験なのヤバいだろ」
「だったら就職すればいいんじゃない」
「そしたら琥珀と離れ離れになるだろ」
「それが嫌なら勉強しなさいよ」
「あぁーっ。それだけは朝比奈に言われなくない!」
庵の嘆きを朝比奈は鼻で笑う。しかし、ここまで言われてもなかなか勉強に踏み出せないのが庵なのだ。
劣等感に溜め息をついていると、後ろから教室の扉を開ける音が聞こえた。
「――庵くんっ。美結ちゃんっ。おはようございます」
教室に入ってきたのは、雪色サラサラのセミロングヘア―の宝石級美少女――星宮琥珀。琥珀は朝毎日庵たちのクラスにやってくる。これももう見慣れた光景だ。
小走りに朝比奈の席のところまで歩いてきて、今日も定位置につく。
「琥珀の美結ちゃん呼び、俺いつまで経っても慣れんわ。なぁ、朝比奈」
そういえば、ここの二人はいつの間にか下の名前で呼び合うようになっていた。先ほどの一番朝比奈と関係性が変化した人物というのが、琥珀のことである。
「私はもう慣れたわよ。あんたも別に美結ちゃん呼びでいいけど?」
「俺が言ったらきもいだろ」
「よく分かってるじゃん」
「はぁ?」
朝比奈の意地悪な返しに、庵は声を低くする。朝比奈とは仲良くなったつもりではあるが、今のような些細ないじりが増えてきた。これを距離感が近くなったと喜ぶべきかは微妙なところである。
「朝から二人で何の話してたんです?」
「まぁ、受験の話を少々ってとこかな」
「あーなるほど。そういえば美結ちゃん、最近勉強頑張ってますもんね」
琥珀は朝比奈が手に持つ単語帳を見て、感心したようにそう口にした。すると、朝比奈が分かりやすくドヤ顔になる。
「まぁ、当然でしょ。私はどっかの天馬庵とは違うから」
「言われてますよ庵くん」
「あぁもう分かってるって。そろそろ耳が痛いわ」
最近、受験というワードを聞かない日の方が少なくなっている。まだ時間はあるので現実逃避させてほしいのだが、それを庵の周りは許してくれない。
「うーん、庵くんが勉強頑張れないのはやっぱり私のせいですか? 私と一緒に勉強してても庵くんいっつも集中できてなさそうですし......」
「いやそれは......」
「絶対そうでしょ。てか、受験期に普通に付き合ってる奴らって大体志望校落ちるのよ。だから私は暁と受験終わるまでデートしないって決めたの」
確かに、受験期に彼女を作っていけないというのは有名な話だ。その理由は勿論、煩悩にまみれてしまうからである。それが今の庵というわけだが。
「美結ちゃん、ほんとすごいですね」
「いや、ほんとな。マジで誰だよって感じ」
朝比奈の覚悟に、琥珀が素直に感心する。そこについては庵も認めざるをえないところだ。
「.....じゃあ私たちも負けていられませんね」
「え?」
手をグーにした琥珀の言葉に、庵は間抜けな声を漏らした。今の会話の流れからしてどうも嫌な予感がする。そして、その予想は見事に的中した。
「庵くん、受験終わるまでは私たちもデート禁止にしましょう」
「えぇぇぇぇぇ」
「今我慢したら、大学で思いっきり遊べますから!」
というわけで、受験が終わるまでは庵もデート禁止となってしまった。つまり、琥珀と話せるのはしばらくLINEと学校だけ。庵はあまりのショックに、今日は昼ごはんが喉に通らなかった。
***
――放課後。
気持ちが落ち込みきった庵は、話を聞いてもらうために暁と一緒に下校をしていた。話を一通り聞いた暁は、何が面白かったのか、けらけらと笑う。
「はは。それは災難だったな」
「災難すぎるわ。マジでお前の彼女が余計なこと言い出さなきゃこんなことにはならなかったのにさぁ。暁の方から何か文句を言っといてくれないか?」
朝比奈が悪くないことも正論なのも分かっているが、それでも頭にきていた。琥珀と庵の関係をいとも容易く引き裂くとは、なんて極悪非道な所業と言えようか。
「言うわけないよ。むしろ庵は美結にもっと感謝するべきじゃない? もしかしたら、このまま庵は受験失敗して、星宮さんとずっと離れ離れになるかもしれないんだぞ」
「だからそういう正論は今はいいんだよぉ。暁くらい俺の味方であってくれよ」
「僕は庵の味方であり美結の味方でもあるからね」
今日はやけに現実を直視させられる。誰も自分の味方はいないことを悟った庵は、頭を抱えて、その場にのたうち回りそうになった。
「なんでみんなそんな真面目なんだよ。まだまだ時間あるんだから、高校生活最後の一年もっとギリギリまで楽しめばいいのにさぁ」
果たして、春の段階で勉強に本腰を入れる必要があるのか庵は甚だ疑問に思う。早い段階で勉強に取りかかれば、その分ストレスが溜まって逆効果になるのではないのだろうか。そういう論文があるなら是非読んで、琥珀にも共有したいところである。
「まぁそう暗い顔すんなって。夏休み、星宮さんと二人で旅行しに行くんだろ。しかも一泊するんだっけ? 最高じゃん」
「それはそうなんだけどさ......うーん、そうだなぁ」
更に落ち込んでしまった庵を元気づけようと、暁は夏休みの話を持ってくる。
今暁が話した通り、今年の夏休みは琥珀と旅行しに行く計画を立てているのだ。しかも日帰りではなく一泊。海に行くので琥珀の水着姿も見られるだろうし、初めてのお泊りだってする。
正直予定が決まった時はワクワクが止まらなかったし、今もその話をしてもらえて少し気分が晴れた。庵がゆっくり顔を上げると、笑顔の暁と視線が合う。
「とりあえず、今は旅行まで勉強頑張れよ。夏休みまで頑張ったら星宮さんと旅行って思えばやる気出るだろ」
「確かに。そう考えると、なんかやる気出てきたかも」
「おー?」
ものは考えよう。今頑張ればそれ相応のご褒美があると思うと、突然やる気が湧いてくる。先ほどのネガティブな感情はどこに消えたのか、代わりにやる気がみるみると湧いてきた。
「分かった。俺、琥珀と旅行まで勉強頑張るわ。それで受験も桜咲かせて、大学で琥珀といっぱいイチャイチャしてやる」
「そうそう、その意気だよ庵。マジで頑張ってくれよ」
「あぁ勿論。ありがとう暁。お前のおかげで目が覚めた」
「そりゃ良かった。三日坊主にならないようにね」
庵は暁の目の前で高らかに宣言し、この一年を頑張り切ることを誓う。最後の暁の言葉は笑い飛ばし、それから己の心にも誓った。
尚、こういう目標を立てた時に、最初から張り切りすぎるとすぐに失速してしまうことを庵は分かっていない。なので、この目標にしっかり向き合うためにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「てかさ、一泊するんだよね」
「え、あぁ、琥珀が言うにはな」
「それってさ、ここだけの話、ワンチャンあるんじゃない?」
話題を琥珀との旅行に戻した暁。そして、意味深なワンチャンというワード。さすがの庵も、暁が何を伝えようとしているのか分からないほど鈍感ではない。
庵は一度深く深呼吸し、それから腕を組んで空を見上げた。今日は晴天だ。
「それは......俺もワンチャンあると思ってる」
答えはイエス。彼女と二人で一泊なんて、むしろ何も起こらない方が不自然だろう。庵と琥珀は、付き合い始めて約一年半になるが、キス以上のことは未だしていない。なので、さすがにそろそろでは? という考えが庵の中にもあるのだ。
「いやそうだよなぁ。はー、庵がもうすぐ童貞卒業ってマジ? なんか僕信じられんわ」
「でも実際どうなのか分かんないんだよな。ホテルは琥珀が予約してくれるらしいんだけど、部屋分けてきたらダメなのかなって思うしさ」
ただ、早とちりしてはいけないことを庵は学習済み。いくらそういう雰囲気だとしても、相手が全然その気ではない可能性だってあるのだ。
庵は自称紳士なので、琥珀を無理やり襲ったりするようなつもりは絶対ない。するときは絶対合意の上。そして、別に今回の旅行で絶対に事を致す必要はないとも考えている。
「俺は、正直全然そういうことなくてもいいかなって思ってる。だって、琥珀と旅行できるだけで十分嬉しいし、水着姿まで拝められるんだぞ? これ以上何か求めたら罰が当たる気がするわ」
「いやいや嘘つけよ。ちょっと怖いんでしょ?」
庵の消極的な発言に、暁は鼻で笑いながらツッコみを入れてきた。そしてそれは図星で、庵は分かりやすく表情に出てしまう。
「いやまぁ......正直言うとそうかも。だって琥珀ってめっちゃ可愛いだろ?」
「美結と付き合っている僕が言うのもあれだけど、僕らの学校で星宮さんに容姿で勝てる人は居ないだろうな」
「俺、まだ琥珀と手つないだだけでも心臓がありえんくらいドキドキするのにさぁ。そんな琥珀の、その......裸とか見たら、俺多分頭真っ白になって絶対冷静さを保てなくなると思うんだよ」
庵が懸念していることを打ち明けると、暁は決して笑ったりせず、真面目に頷いてくれた。
勿論、絶対にしたくないとかそういうわけではない。庵だって男だから性欲はあるし、ぶっちゃけた話、琥珀でエロいことを考えたことは少なからず――いやだいぶある。
しかし、妄想と現実は話が別。一度琥珀を押し倒して拒絶されてしまったこともまだ記憶に強く残っているし、そもそも行為自体どういう流れで行えばいいのか分からない。簡潔に言えば、未知の領域への不安が庵を悩ませているのだ。
「......まぁ、そうだよな。そこに関しては僕もアドバイスできないし、庵が悩むのも分かる気がする。男の憧れとはいっても、いざとなったら怖いよな」
「話の流れで聞いちゃうけど、朝比奈とはしてないのか?」
この流れなら聞いてもいいだろうと思い、今まであまり触れていなかった朝比奈の名前を出してみた。
「いや全然。デートは結構したけど、今のとこは特に進展なしって感じ」
「へぇ......なんか意外だな」
失礼なので言わなかったが、正直もういくとこまでいっていると庵は思っていた。その理由は単純に、朝比奈がちょろそうだと考えているからだ。
「ま、僕は僕のペースでやってくよ。って言っても、美結の受験が終わるまでデート禁止なんだけどさ」
「そういやそうだったな」
「でも、夏休みはさすがに美結と少しは計画立てるよ。夏祭り一緒に行くことはもう確定してるからね」
暁も庵と同じで、夏休みはさすがに彼女と遊びに行くようだ。そうでなければ、さすがに息が詰まるというものだろう。
ちなみに暁は進学ではなく就職。聞いた話だと、警察官への道へと進むらしい。将来暁のお世話にはなりたくないと庵は思う。
「まぁお互い頑張ろう。あ、でも旅行どうだったかだけはちゃんと聞かせてよ。結果はどうあれさ」
「そりゃ暁には伝えるよ。ほんと、どうなるかは分からんけどさ」
「あぁ。良い報告待ってる」
最後にお互いの健闘を祈って拳をぶつけ合う。そうして、波乱の夏休みまで一日一日とカレンダーが進んでいくのであった。
◇宝石級美少女tips◇
誕生日は11月7日。




