◆第195話◆ 『いつかこの絶景を君に』
完結まで残り五話です。
五話なんだけど、アフターストーリー含んだら五話じゃないです。
庵が思いついた一つの可能性は、とても勝算が低くて、そもそも成功するかも分からなくて、なのに命を危うくするような危険なものだった。だがそれがどんな作戦であれ、迷っている時間は一秒たりとも残されていない。
どうせこのまま琥珀を見殺しにするくらいなら、僅かな可能性を信じて、奇跡を起こすしかないだろう。
「暁! 朝比奈! 小岩井! カーテンだ! 窓についてるカーテンを無理やり取って、俺についてきてくれ! 早く!」
「カーテン? わ、分かった。信じるぞ、庵!」
今から何をするかなんて説明してる暇はない。それは現場についてからだ。みんなもそれを分かってくれている。だから、庵を信じて、ついてきてくれる。
ありがとう、暁、朝比奈、小岩井。
「はぁっ。はぁっ。はぁっ」
走れ。走れ。屋上まで、もっと早く走れ。
できるだろ天馬庵。やれるだろ天馬庵。
「はぁっ。はぁっ。はぁっ」
琥珀のためなら、命を賭けれるんだろ。
琥珀のためなら、何だってできるんだろ。
だったら、もっともっと頑張れよ。命を賭けろよ。
「はぁっ。はぁっ。はぁっ」
琥珀と、仲直りできたんだろ。
琥珀が、まだ何か言いたそうにしてただろ。
それを聞けずに終わるなんて、嫌じゃんか。
「はぁっ。はぁっ。はぁっ」
琥珀のお母さんに会いに行くんだろ。
あの約束が果たせなくなっちゃうぞ。
それで、本当にいいのかよ。
絶対に嫌だろ。
「はぁっ。はぁっ。はぁっ」
旅行も、するんだろ。文化祭も、一緒に回るんだろ。夏祭りだって一緒に行きたいんだろ。
琥珀と、したいことだらけなんだろ。
もっと、琥珀と一緒に居て、一緒に幸せになりたいんだろ。
ずっとずっと、一緒に居たいんだろ。
「はぁっ。はぁっ。はぁっ......あっ、あぁぁぁ!」
大好きなんだろ、星宮琥珀が。
「嫌だっ。嫌だっ。俺は琥珀と、もっと一緒に居たい。もっと遊びたい。ずっと傍にいてほしい。俺のことずっとずっと、好きでいてほしいよ!」
まだ付き合ってたったの半年ちょっとだ。こんなところで二人の未来が終わっていいはずがない。これからもずっとずっと、おじいさんおばあさんになるまで幸せを築いていくんだから。
――涙を拭い、歯を食いしばる庵に過去の情景が蘇る。
『あっ、あの。私と同じ一年生ですよね。名前聞いてもいいですか?』
『天馬くんが私とのお付き合いを望むのなら、私はそれで大丈夫です』
『何ボーッとしてるんですか天馬くん。天馬くんは、その......わ、私の彼氏さんでしょう!』
『でも、とても楽しかったです。本当に車を運転してるみたいでした。ゲームってすごいですね』
『本当、どうしたらいいか、私、分からなくなって......怖くてっ。何回も家で、泣いてしまって。それでっ。本当に、怖くてっ』
『とっても、怖かったんです。もう、本当に、怖かったんですっ。怖くて怖くて、怖くてっ』
『あんなの、卑怯ですっ。あんなヒーローみたいな格好良い助け方されたら、好きになっちゃうにきまってるじゃないですかっ!』
琥珀と過ごした日々はすべてが濃密で激動で、本当に楽しかった。
最初は正直、琥珀という存在に困惑していた。お互いに恋愛感情ゼロなのに交際関係になって、口下手だから沢山気まずい時間もあって、自分に自信がなかったからネガティブ発言ばっかりして琥珀を悲しませて。とにかく、何もかもが初めての経験だったから上手くやってやれないことがたくさんあった。本当、自分だめだなって思うことは数え切れないほどあったと思う。
でも、だめなところだらけなのに、琥珀はそんな庵のことを好きになってくれて、終いにはヒーローなんて言ってくれるようになった。それはとても嬉しいことなのだけれど、琥珀が思う庵と、庵が思う庵のギャップは激しく、なんでそこまで思ってくれるんだろうって、すごく理解に苦しんだ。庵じゃなくて、他のもっと優秀な人だったら、もっとうまくやれるのにって考えることは多々あった。
でも、琥珀が求めてるのはそういうことじゃないってようやく理解できた。琥珀は、他の優秀な人なんかより、庵がいいんだ。そこに変なロジックとかはなくて、ただ好きになってしまったからという、浅そうでどこまでも深い理由があったのだ。
この”好き”に理由なんて求めちゃいけない。本当に、このことに気づけて良かった。だって庵はこれからもだめで、ぐずで、情けないままだけど、これからもずっと琥珀のヒーローで在り続けられるから――、
「絶対に助けるからな! 俺は、俺は! 君のヒーローだから」
***
教室内。いつの間にか日は落ち、室内は薄暗くなっていた。
甘音はボロボロの琥珀に視線を戻し、冷めた目つきで見下ろした。肩、腕、足、ありとあらゆる個所から血を流している。見ているこちらまで痛みを感じてしまいそうな凄惨さだ。きっと、想像を絶する激痛だろう。
傷を押さえることもできない琥珀は、顔を下に俯かせ、荒く息を吐いていた。今はただ、痛みに堪え、耐え忍ぶことしかできない。
「けほっ。かほっ......ねぇ星宮ちゃん。人ってどこ刺したら死んじゃうのかな。ワタシバカだから分かんないや」
「......」
「首に刺したら、死んじゃうよね。お腹も......死んじゃうか。あ、でもお腹は刺す場所によっては大丈夫なんだっけ。なんか前YouTubeで見た気がする」
目の前に血まみれの人間がいるというのに、甘音は先程から表情一つ変えず、何食わぬ顔で琥珀に話しかけている。客観的に見て、狂気の沙汰だ。どうやら北条に一番近い存在という発言は、冗談でもなんでもないように思える。
「......もう、やめて」
一言、琥珀の口からかすれた声が絞り出た。もう、声を出すだけでも辛い。口を動かすと、若干体が動いて、傷口に響くからだ。ジッとしていても悶えるような辛さなのに、ちょっと体を動かしただけで泣き叫びたくなるような痛みに激変する。本当、生き地獄とはこのことだ。
「やめないよ? やめるわけないじゃーん」
それに、頑張って言葉を発したところでこの女の前では何も意味を成さない。
「あれ、天馬くんたち消えてる。どこ行ったんだろ」
「え」
ふと甘音が扉に視線を向けると、先程までそこにしがみついていた四人が姿を消していることに気がついた。どうりで急に静かになったわけだと納得する。
甘音は唇に人差し指を当てながら、ジッと扉の先を見つめた。
「先生を呼びに行ったのかな? いや、だったら四人で行く必要もないし......」
突然、四人が姿を消した理由。それを考察してみるも、納得のいく考察は何も思い浮かばない。一斉に消えたということは、何かを企んでいるのだろうが。
しかし、問題はない。
大前提、甘音が居る場所は密室なので、怪力で扉をぶち壊すか、羽でも生やして窓から侵入してこない限り、侵入は不可能なのだ。この前提がある以上、四人が何をしてこようと無駄なので、何か怪しい動きを見せても気にする必要はない。
気にする必要はないのだが――、
「なんか予想外のことされたら怖いしね。――もういいや。殺そ」
声をワントーン落とし、突如殺害を決意する甘音。
絶対邪魔されない空間に居るとはいえ、庵たちが何か行動を起こしたのは事実。1%でも計画の成功確率が下がる前に、さっさと終わらせてしまうに越したことはない。二度も計画を失敗に終わらせるわけにはいかないから。
「や、やめてっ......くだ、さい。嫌っ、嫌っ!」
「ごめんねー。怖いのは分かるけど、ジッとしてた方が多分楽だと思うよ。ワタシ刃物の扱いとか素人でさ、暴れられると余計痛いかも」
やめてと言っても通用しないのは分かっている。でも、今の琥珀に取れる術は言葉で訴える以外に何も無いのだ。
甘音は血にまみれたナイフの刃先を琥珀の顔面すれすれに突きつけ、返り血を浴びた顔でにこやかに笑ってみせた。
「最後に何か言い残すことある? このセリフ、いつか言ってみたかったんだ」
「......」
この瞬間、琥珀は全身から力が抜けて、痛みを感じなくなった。目から光が消え、呆然とした様子で目の前の刃先を見つめる。
ああ、これ無理だ。感情のこもってない心の声が脳内に流れた。どうしようもないという事実を悟ったのだ。
甘音には何言っても通用しないし、琥珀の体力ももう限界。いっそのこと、意識が朦朧している今のうちに殺してほしいとすら願ってしまう。
琥珀はこの感覚を知っている。もう、何度も何度も味わってきた。そう、絶望だ。
「――」
地獄の底に追い詰められたとき、もう本当にどうしようもないとき、この気持ち悪い感覚はいつもやってくる。そして、琥珀の心にズシンと鉛のような物を落として、何もかもをどん底に沈めようとするのだ。
そうなったら、もう何もかもがおしまいで――、
『俺を頼れ星宮っ! 今直ぐ助けに行く!』
『――っ!』
『お前は俺を巻き込んでしまうって考えてるかもしれんけど、それは違うからな!? 俺がやりたくてやってることだっ! だから、早く俺に助けられろっ! 星宮!』
――本当に、おしまいだった?
絶望という感覚がおしまいの合図なら、何故琥珀は今こうして生きていられる? 何度も何度も絶望を味わって、何度も何度ももうおしまいってなったのに、何故琥珀の物語はまだ続いている?
「あ」
絶望という闇に囚われるがあまり、大切なことを忘れていた。琥珀はいつも、もうだめだって思ったタイミングで、大好きなヒーローに助けられてきたじゃないか。その度に琥珀は絶望から抜け出す勇気と、強さと、希望をもらっていただろう。
それに気づいた瞬間、琥珀の心はふわりと軽くなった。そして、少しだけ口角を上げてみせる。
「言い残すことは、ないですよ。私はまだ、諦めないですから」
「えっと?」
諦めない。そう甘音に断言してやった琥珀。その言葉に、甘音はこの状況で何を言っているんだろうと苦笑いをする。
どう思われたって構わない。諦めたところで、状況は良くならないのだ。諦めず、信じることで、奇跡が起きる。そのことを北条との騒動で学んだだろう。
あのときも同じだった。もう絶対だめだと思った。でも、琥珀が庵を信じたから、最悪の盤面がギリギリのところで好転し、最悪を防いだのだ。信じたから、琥珀は救われたのだ。
だから、絶対に――、
「絶対に諦めません」
もう一度、力強く断言した。すると甘音はつまらなさそうに欠伸をする。
「あー、そういう感じかー。なんかしらけるなー。まぁじゃ、名残惜し......くはないけど、殺すね。じゃ」
そして甘音は宣言通りに琥珀を殺そうと、手に持ったナイフを一切の躊躇なく琥珀の首に振り下ろし、命を奪おうとして――、
「......え」
衝撃に備え、目を瞑っていた琥珀。しかし、いつまで経っても来たるべき衝撃はこない。その代わりに、琥珀の膝あたりに何かがぼたぼたと落ちてくる。それは痛みではなく、どこか生暖かい感触だ。
おそるおそる、琥珀は目を開いた。
「ごんな......ときに......」
金属音を立てて、甘音の手から滑り落ちたナイフが床に転がる。琥珀は目の前に映る光景に理解が追いつかず、驚愕に目を見開いた。
何せそこには、口から大量の血を吐く甘音の姿があったから。
***
屋上にやってきた四人は、庵から伝えられた作戦の内容に庵を除く全員が驚愕をしていた。
「お、屋上から四階の教室に窓から入るって本気ですか!? 危なすぎますよ天馬さん!」
「んなこと言ってる場合じゃないんだよ! もう、やるしかないんだ」
庵が思いついた一つの可能性。それは、屋上から四階の琥珀の居る教室にカーテンを垂らしてもらい、それを伝って庵が窓から教室に入り込んで救出するというものだ。
ツッコミどころは沢山あるが、この作戦の問題点としてまず第一に挙げられるのが、命の危険。
「あんたさ、命綱もないのにほんとにやれるの? 落ちたら絶対死ぬわよ。しがみつくだけだったら私でもできるけど、なんの支えもなしに降りるって至難の業だし......あんたじゃ......」
「うるせぇよ。やる。俺がやる」
馬鹿にしているわけではなく、朝比奈が至極真っ当な意見を言う。だが、庵は一切の聞く耳を持たず、琥珀の居る教室の真上に位置する場所に立った。横には安全のためのフェンスがある。今からここにカーテンを垂らし、フェンスを乗り越え、教室に侵入するのだ。
「庵。僕が代わりにやってもいいんだぞ。僕のほうが、普段から運動してるし、上手くやれるかもしれない。正直な話、僕もちょっと、庵じゃ不安だ」
「......」
一番付き合いの長い男友達である暁に不安と言われ、さすがに心が揺らぎそうになる庵。確かに、今からする作戦は庵よりも体力のある暁の方が明らかに適任だ。
しかし、この役目は絶対に譲るべきではないと庵の魂が訴えていた。何故なら、この場で一番琥珀を助けたくて、やる気に満ちて、絶対に諦めないという気持ちで満ちているのは庵だから。感情論になってしまうけれど、心の持ち用で人は普段の何倍もの力を出すことができる。それが琥珀のためとなれば、尚更だ。
「ありがとう暁。でも、俺がやるよ。――俺しか、絶対にできないから」
「......そっか」
庵の力強い眼差しと言葉を受けて、先程まで不安げな表情に満ちていた暁の表情は、どこか安心した様子に払拭されていた。そして、やれやれといった様子で、暁はカーテンを持って一番に庵の隣に並び立つ。
「じゃあ、何がなんでも成功させろよ庵。お前が、星宮さんを救うんだ」
そう口にして、優しく庵の背中を叩く暁。そんな親友の期待に、庵は力強く頷いた。
「ああ。もちろん」
期待は厚いが、今はこのくらいのプレッシャーが心地良い。おかげで失敗する気なんて一ミリもなくなった。
「不安がらせてごめん。私も、あんたのこと信じる。あんたならやれるって言ったの私だものね。もう疑わないわ」
「......手のひらクルックルだな、お前」
「何か問題ある?」
「ないけど」
暁とのやり取りを見て考えを改めたのか、朝比奈もカーテンを持って庵の隣にやってきた。そして何食わぬ顔で、庵に向かって小さく笑みを見せてくれる。そのあまりに早い手のひら返しが少し面白くて、庵は少しだけ緊張が解けた。
「じゃ、じゃあ私も! 私も天馬さんのこと信じます! というか、信じるしかないでしょもー!」
最後にみのりが後ろからぴょこぴょこと走ってきて、庵にすべてを託すことに同意する。これで四人の気持ちは一つになり、あとは目的を果たすだけとなった。
「暁も、朝比奈も、小岩井もありがとな。俺、絶対成功させるから」
みんなからの信頼に感謝し、庵は三人に向かって拳を突き出した。
暁は優しい笑みを浮かべながら、朝比奈は「うん」と頷きながら、みのりは少し緊張の面持ちで、拳を突き返してくれる。すごく変な面子だけど、この面子だからこそとても強い結束感が生まれたのは間違いなかった。
「ここ成功したらかっこいいぞ庵。星宮さん惚れ直すかも」
「私がここまで応援してんだから、絶対上手くやりなさいよ」
「天馬さんならぜぇったい大丈夫です! ばばばーんって、あの黄色い人やっつけちゃってください!」
最後にみんなからエールをもらい、庵はフェンス越しの夜空に視線を向けた。広がる視界には、無数の光の粒と、大小様々な建築物、そして緑が広がっている。学校の屋上から見る夜景が格別なことを、庵は今初めて知った。
庵は少しだけ期待に心を弾ませる。今度、この景色を琥珀と一緒に見れたらいいなって。
「――やるぞ」
そして、最後の決戦の火蓋が切られた。




