◆第194話◆ 『それじゃだめだから』
一つ扉の先の琥珀がどんどん消耗していく。血が流れすぎたのか、顔がかなり青ざめて、もう会話もできそうになかった。何もかも、甘音のせいで。
「そんなことして何が、何が目的なんだ! やめろ! 今すぐ琥珀から離れろ!」
「やめないよーん。ごめんね彼氏くん」
「あぁぁっ。くそがぁ!」
何を言ったって相手の心には響いてくれないし、庵は甘音のことを全然知らないから交渉の余地もない。じわじわと命を削られる琥珀をただ見て、叫んで、扉を叩いているだけ。助けたい気持ちは誰よりもあるのに、それを行動に移せない。
歯がゆい。やるせない。情けない。どうしてこんなに自分は無力なんだと、嘆きたい。
「あぁ......」
庵は泣き叫びながら、神に助けを請う。
いっつも神様は庵たちに試練を与えるのだから、たまには味方してくれたっていいじゃないか。いっつもいっつも不幸ばっかりくれて、どうしてこんなに苦しめられなければならないのか。神様は本当に意地悪で大嫌いだ。
「やめて......やめてください、お願いします。もう、やめて......」
扉はどんだけ叩いたって開かないし、ここ以外入り口がない。庵は突然無力感に襲われ、がくりと膝を折った。扉にごつんとおでこがぶつかる。
「――」
庵はプライドも何もかも捨てて、その場で土下座した。もう甘音に僅かに良心が残っていることを信じて、それに訴えかけるしか方法が思いつかなかった。
勿論、そんな願いはすぐにへし折られたけど。
「あーあ。星宮さんの彼氏さんめっちゃ必至だよ。愛されてるね」
「庵、くん......」
「死んじゃうの、怖い?」
「......」
「大丈夫だよ。星宮ちゃんが死んだら、私もすぐに死ぬから。一緒にあの世に行こうね」
何の慰めにもならない言葉をかけながら、甘音は琥珀の頭を優しく撫でる。
狂気はもう止まらない。このままではこの密室で、本当に琥珀が殺されてしまう。それを止められることができるのは今庵しかいないのに、救いたい人は目の前にいるのに、どうしても救い出せる方法が思いつかなかった。
自分が無力で、無能で、肝心なときに役に立てなくて、本当に死にたくなる。
「――天馬さん! 先生にも言って、警察も呼びました! 多分もうすぐ来ます!」
後ろの方から走ってくる足音と共に、切迫感の詰まったみのりの声が聞こえてくる。みのりには先生を呼んでくるように庵が頼んでいたのだ。そしてついでに警察も呼んでくれたわけだが、すでに庵の心は折れていた。その働きにも何も応えてあげることができない。
「天馬、さんっ。ど、どうしたんで.......え......なんで」
扉の前で体を丸める庵を見て、みのりは背筋が凍る。見たくないけど、みのりも扉に付いた窓から教室の中を覗いた。
中にはあらゆる個所から血を流し、意識が朦朧としている琥珀の姿があった。みのりが先生を呼びに行く前は、まだどこも刺されていなかったのに。
あまりにショッキングな光景を目の当たりにして、みのりは表情を激しく歪めた。
「や.......やだ.......やだよ星宮さん! やめて! やめてよぉお!!」
みのりが目じりに涙を浮かべ、絶叫しながら扉を叩いて、引っ張る。勿論、扉はびくともしなかった。当たり前だ。庵が引っ張ても、開かなかったから。
それに、開いたところで、それはそれでまずい。何故なら、開いてしまった瞬間に、甘音は琥珀を殺すから。計画がおじゃんになりそうになったら、すぐにでもそうするに決まってる。
つまり、どのみち詰んでるのだ。
「天馬さん! 星宮さんが、星宮さんが殺されちゃう! なんとか、なんとかしてよ!」
「なんとかって......なんとかってなんだよ!? ふざけんなよ!? 俺にどうしろってんだよおおお!」
「ひっ......」
感情のコントロールができなくて、何も悪くないみのりを怒鳴りつけてしまう。もう心の中はしっちゃかめっちゃかだった。
それに庵だって、できることがあるなら既にやっている。命を賭けて救える方法があるのなら、躊躇わずやる。でも、何一つ琥珀を救える方法がないから、今こうして絶望しているのだろう。
「――庵! どうしたんだ! 何の騒ぎ?」
「何これ。どういう状況?」
先生より先に、二人の男女がこの現場に駆けつけた。しかし庵は目を合わせる気力もなく、その場に丸まったままだ。
「あっ。朝比奈さんと、えっと......」
「僕は庵の友達。で、さっきの庵の叫び声は......」
駆けつけたのは屋上から降りてきた暁と朝比奈。異変を嗅ぎつけて、この場にやってきたのだ。絶望に打ちひしがれる庵の代わりに、みのりが状況の説明をする。
「星宮さんが、今この教室で殺されそうになっているんです! 助けて、助けてあげてください!」
「は?」
「え?」
リアリティーのない、大げさで笑えないジョーク。最初二人はそう思った。脳が理解を拒んだからそう思うしかなかったのかもしれない。とにかく信じれなかった。
しかし、そんな甘い考えは目の前にある現実にすぐぶち壊される。扉に付いた窓の先には、目を背けたくなるような惨状が広がっているのだから。
「――は」
暁と朝比奈の二人は窓を覗き、血まみれの琥珀と、ひらひらとこちらに手を振ってくる甘音を同時に見た。その瞬間にどちらも背筋が凍りつき、脳がフリーズする。今見たものを脳が咀嚼し、これを現実として受け入れるには、あまりにも酷だった。
「甘音......あんた......」
朝比奈が呆然とした顔で、ぽつりと、中に居る女の名前をこぼした。彼女のことを少なからず知る朝比奈にとって、まるで心臓を鷲掴みにされるような強いショックを受けた。
「ど、どうなってんだよこれ! なんで、こんなことに。何が、どうなってんだっ」
暁は混乱を隠せないようで、頭を掻きむしりながら、驚愕に目を見開いている。そして衝動的に扉を開こうとするが、暁の力を持ってしても、扉はうんともすんとも言わなかった。
「うそ、だろ......おいっ。庵っ。何が、どうなってるんだよ!」
暁が庵に話しかけるも、庵にはもうそれに応える気力がない。顔を床にうつぶせたまま、何も考えることができなかった。
「しっかりしろよ庵!!!」
庵の視界がぐらりと動く。暁に胸ぐらを掴まれて、無理やり起き上がらされた。虚ろな庵の瞳に、今にも泣きだしそうなほどに表情が歪んだ暁の顔が映る。もう頭がボーっとして、暁もこんな顔するんだなぁなんて場違いで益体もない感想が思い浮かんだ。
「あそこに居るのは、お前の彼女だろ! 今お前がそんなんでどうすんだ! 頭回せよ! 星宮さんが本当に殺されるぞ!」
暁がとんでもない至近距離に顔面を近づけて、庵に活を入れようとする。それを聞いた庵は突然心に火がついて、歯ぎしりをした。
「んなこと言ったって、俺にどうしろってんだよ! 何か方法があるなら、やってる! 俺が死んで琥珀が助かるなら、喜んで死んでやる! でも、でも、もうこれは、どうしたって助けられねぇじゃん!」
庵が言い返すと、暁の表情が大きくひきつった。とても辛そうな顔だった。そんな表情すら庵はむしゃくしゃして、暁を殴り飛ばしたくなってしまう。今一番つらいのは琥珀だろうが。
「俺に琥珀を助けさせてくれよ! なぁ。どうやったら、どうやったらこの部屋に入れるんだよ。どうやっても、何やっても入れねぇんだよ。てか、入ったところで無意味なんだよ! 入ったらすぐに琥珀は殺される! 八方ふさがりだ! 今の俺のこの気持ちがお前に分かんのかよ!? あぁ!?」
「天馬さん、落ち着いて! 今喧嘩している場合じゃないですよぉ!」
「うるせぇよ! どうやって落ち着けってんだよ! あぁぁぁっ、くそがぁぁ!」
みのりだってとても辛いはずなのに、一人冷静に庵を落ち着かせようとしてくれる。だけどその優しさには何も応えられず、乱暴な言葉で振り払ってしまう。もう誰に何言われても、無駄だった。自分が今何をしたいのかも分からない。
「......だってもう、どうしようも、ないじゃん。どうしようもないじゃんかよぉ!」
大声を出してたら、急に疲れて、庵はまたがくりと膝を折った。すべてが嫌になりそうな瞬間だった。今こうしている間にも琥珀は苦しんでいるのに、自分は赤子のように泣き叫んでいることしかできない。自分が本当に情けなくて、大嫌いだ。
「――くそっ。くそっくそっ」
「星宮、さん。嫌だよぉ......」
暁は拳を壁に叩きつけ、みのりは目を擦りながらすすり泣いていた。みんなもどうすることもできなくて、ただ立ち尽くすしかない。あまりのやるせなさに頭がどうにかなりそうだった。
「あぁぁぁ」
定期的に扉の奥から琥珀の悲鳴が聞こえる。そのたびに心がぐちゃぐちゃに搔きまわされる。その声すら聞こえなくなった時が本当に終わりなんだって思うと、余計に頭がおかしくなりそうだった。
「なんで、なんでいっつもいっつも琥珀なんだよ! バカ野郎! そんなに人を苦しめたいなら俺を苦しませろよ! 俺だったらいくらでもお前の相手してやるよ! かかってこいよ! このくそ女ぁぁぁ!」
扉を血まみれの皮が剥けた手で叩きまくった。血の手跡が、何個も、何十個も重ねられていく。この世界の理不尽を叫び、思いつく限りの言葉で罵ってやった。この行為には何も意味がないし、ただ体力を消耗しているだけだけれど、ジッとしていられるはずがなかったから。
「北条は死んだ! あいつが死んだあの日、もう琥珀はすべてから解き放たれたんだ! もう、琥珀が苦しむ理由は何もなくなったんだ! なのに、なのになのになのに、なんでお前はまだ、終わりにしようとしないんだよ」
「――終わらせないよ、天馬くん。勝手に終わったって思ってるのは君だけ。ホージョーくんの願いは、ワタシが引き継いだから」
「ッ!!! そんなもん、勝手に引き継いでんじゃねぇよ! このアホ!」
「でもそれももうすぐ終わり。星宮ちゃんは、もうすぐ死んじゃうから。これが、本当の終わりなんだよ、天馬くん」
北条の願いなんて、ふざけるな。あれは、常軌を逸した執念が生み出した、琥珀への理不尽な復讐だ。世界で一番叶わなくていい、心の底から唾を吐きかけたくなるくそみたいな願い。それを今になって、よく分からない第三者が叶えようとするな。
「なんなんだよ......くそ......」
視界が滲んで目が見えない。体がふわふわとする。涙は枯れ果て、騒ぐ体力も限界で、ドッと疲れが押し寄せてきた。何もできてないのに、肉体的にも、精神的にももう限界だ。
頼むから、これは夢なのだと、現実逃避させてほしい。それがだめなら、今天変地異が起きて、甘音だけが地獄の底に墜ちてほしい。それもだめなら、時間を戻してほしい。
それも、だめなら――、
「――なんの、つもりだよ」
突然、後ろから優しく抱きしめられた。匂いからして、朝比奈だった。
「私にも......分からない。私もどうしたらいいか分からないの」
「どけよ気持ちわりぃな。うっとおしいんだよ! お前は!」
体をひねって振り払おうとしても、朝比奈は離れなかった。庵の胸に手を回して、体を密着させてくれる。そんな彼女の行為が意味分からなくて、庵はやけくそ気味に怒鳴りつけた。
「私はあんたに謝らないといけないことがある」
暴れる庵とは反対に、朝比奈はやけに冷静で、落ち着いて、まるで別人のようだった。その普段とのギャップが触手のように庵の心に入り込み、しっちゃかめっちゃかな心に平常を促してくれる。
「私のせいで、あんたの......天馬くんのお母さんは死んだ。私が余計なことしちゃったから、北条くんが、殺しちゃったの」
「......は」
「もうこれは、私が殺したのも同然なの」
ただでさえ琥珀のことで頭がいっぱいなのに、ここにきて今一切関係ない爆弾発言をぶちこまれ、頭が真っ白になった。感情の整理が追いつかない。
「――」
そういえば、思い出した。
庵が北条とタイマンしたあの日、北条が言っていた。青美を殺したのは朝比奈なのだと。それを聞いたときは、こちらの心を揺さぶるための北条の作戦――ブラフだと思っていた。でも、今こうして朝比奈が認めたということは、話が変わってくる。あれは、事実だった。
朝比奈が庵の母親――青美を殺した。そんな話を何故、今。こんな大変な状況のときに。何故。
「星宮が殺されたら、私はあんたに罰を与えてもらえない。きっとあんたは壊れて、もう私のことなんかどうでもよくなっちゃう。――それじゃ、だめなの」
「だから」と、朝比奈は一呼吸置き、庵に優しく語りかけた。
「星宮を助けて。なんとかして、助けて。助けたら、私に罪を償わさせて。天馬くんは、そうしないといけないの」
「――」
罪を償いたいから、今ここで青美の死の事実を告白した。それをすることによって、庵と朝比奈、両方の逃げ道をなくそうとしたのだ。とても卑怯で、朝比奈にしかできないやり方である。
確かに、このまま琥珀が殺されたら、これから庵は正気を保っていられる自信がない。朝比奈のことどころか、すべてがどうでもよくなるだろう。おそらく、そのまま後を追って自殺で終わりだ。
それを回避するには、結局琥珀を救う以外に方法がない。でも、それができないから嘆いているのだろう。ここで更に朝比奈が庵を追い詰めたところで、何も意味がないのだ。
何か救える方があれば、とっくに――、
「あんたは、星宮のヒーローなんでしょ? できるって」
ヒーロー。
そういえば、琥珀はそんな風に庵のことを見ていた。
琥珀は朝比奈にいじめられて、屋上に呼び出されて、暴力振るわれて、それを庵が救って、ヒーローみたいって......
「――おく、じょう」
庵の目がハッと見開く。さっきの朝比奈の爆弾発言のおかげでクリーンになっていた脳内に、一つの考えが、可能性が芽生えた。肩がわなわなと震え、全身の細胞が覚醒する。
しがみつく朝比奈はそのままに、ゆらゆらとその場から立ち上がった。
「庵?」
「天馬さん?」
立ち上がって、呆然とその場に立ち尽くす庵。目をぎょろぎょろとさせながら、脳内で様々な趣味レーションをする。そんな庵を、朝比奈は心配そうな瞳で見つめた。
「どうしたの......? 私が急に変なこと言ったから――」
「ありがとう朝比奈。お前のおかげで、どうすればいいか分かった」
朝比奈の不安を断ち切り、庵は後ろに居る暁、みのり、朝比奈を一瞥する。そして、命を賭ける覚悟を決めた。
珍しく一日に二話更新しました。
密室で行われようとしている殺人。果たして庵たちはどうするのか。
完結まであと6話+After storyです。
最後の最後までお楽しみください。




