◆第193話◆ 『十年前の願い』
今日は二話連続更新です。
――時は、分散して朝比奈捜索を開始したところまで遡る。
「――っ」
誰もいない無人の階段を、琥珀は駆け足で上っていく。琥珀が任されたのは四階。この学校の最上階だ。
「朝比奈さん......」
胸の内側がぎゅっと引き締まるのを感じる琥珀。不安と心配がいっぱいで、まるで自分のことのように辛くなってしまう。
いじめの辛さを誰よりも知っている琥珀にとって、今回の件は絶対に見過ごせない。なんとしてでも朝比奈を助け出す。その覚悟を胸に、自分の出せる全力を出し切るつもりだった。
「――ねぇ、星宮ちゃん」
四階の教室を半分くらい見て回ったところで、誰かが琥珀の名前を呼んだ。女の声で、聞き覚えのある声だった。
体がびくりとして、琥珀はその場に立ち尽くす。
「......誰、ですか」
「こっちおいでよ。朝比奈ちゃんを探してるんでしょ? どこに居るか教えてあげるからさ」
朝比奈の名前が出て、僅かに肩が跳ねる。そして、琥珀はこれが何か嫌な感触であることを察した。様々な経験を経て養われた野生の勘とでもいうべきだろうか。
「......」
声は隣の教室から聞こえてくる。そこは次に見て回ろうとした場所だ。
相手は、琥珀の名前と目的を知っている。琥珀は、相手が何者で何がしたいのか分からない。正直、かなり不気味だ。
「あなたは、誰ですか? なんで私の探している人を知ってるんですか」
ここは一度冷静に、一つ壁の先に居る女に問いかける。舐められないように、語気を強めて言い放った。そんな琥珀の言葉に、女はけらけらと笑っている。
「ワタシが誰なのかは、あなたがあなたの目で確認すればいいでしょ? なんで知ってるかも、ワタシのいるとこにくれば教えてあげる」
「......なんで、この時間にまだ教室に居るんですか。というか、そこ空き教室ですよ」
「質問が多いねー。じゃあそれは特別に答えてあげるけど......星宮ちゃんが来てくれるのをずっと待っていたから、ここに居るんだよ」
「何言って......」
相手は一歩も譲る気はないようで、どうしても琥珀に自分の居る教室へ来てもらいたいようだ。朝比奈の居場所を知っているという話は気になるが、勿論今の琥珀に相手の話に乗るつもりはない。何せ、誰がどう見ても怪しいし不気味だからだ。
「――」
琥珀は声がする教室に背を向け、来た道を戻りだした。そしてポケットからスマホを取り出す。一度、庵に連絡をするのだ。これをどうするかは、琥珀だけでは判断できない。
だから、一旦情報共有をしよう。そう考えた、直後だった。
『――許さない、からっ。絶対に、許さないからっ。許さない、許さないっ!』
琥珀が目を見開く。
女の居る教室から、朝比奈の声が聞こえた。絶対に間違いない。そして只事とは思えない、恨みの籠った叫び。
琥珀を抑えていた何かがぐしゃりと壊れた。
「朝比奈さん!」
我を忘れて、琥珀は走り出す。怪しいとか、不気味とか、そんな考えはすべて吹き飛んで、さっき声がした教室の扉を乱暴に開いた。
そしてそこには、一人の女しか居なかった。
「......は」
「やっほー星宮ちゃん。久しぶりー。みんな大嫌い、甘音アヤちゃんだよっ」
教室の窓側の机に直で座りながら、笑みと共に手を振ってきた。そして全然笑えない自虐風自己紹介を彼女は――甘音アヤはしてくれて――、
「ちなみに今の音声は、いつかの朝比奈ちゃんの録音でしたー。騙されちゃったね! 星宮ちゃん」
そんな悪趣味なからくりの答え合わせに、甘音の手にするスマホからは未だに朝比奈の叫びが流れ続けていた。
***
一度、教室全体を見渡す。見たところ、甘音以外は誰もいない。掃除道具入れは開けっ放しになっている。教卓の下も大丈夫。カーテンも開け放たれているから、忍者みたいに隠れられるわけがない。
この教室には間違いなく甘音しかいない。その確かな事実に、琥珀は少しだけ安堵した。
「あはは。そんなに心配しなくても、ここにはワタシと星宮ちゃん以外誰もいないよ。ワタシが筋肉ムキムキな怖い男の子を用意してるとでも思った?」
「――」
「まぁそうだよね。罠かと思って怖かったよね。でも教室に居たのは可愛い女の子がぽつんと一人だけでした。良かったね、星宮ちゃん!」
琥珀の心を読み、けらけらと笑う甘音。だけれども、その黄色の瞳は笑っていない。
「甘音、アヤさん......」
あまり話したことなくて、声だけでは気づけなかったけど、その姿を見ればすぐに甘音を思い出した。彼女は北条の味方だった人間。あの日、琥珀たちを地獄の底に追い詰めた一人だ。
あんな酷いことをされたので、甘音とはできればもう二度と会いたくなかったし、話したくもなかった。でも、その感情を無視してでも、琥珀は甘音を探していた。まさか、こんな形で、こんなタイミングで出会うとは思いもしなかったけれど。
「こっちおいでよ。お話しよ。朝比奈ちゃんがどこにいるか、知りたいんでしょ」
甘音が手招きする。不気味な笑みが、琥珀の心を震わせる。
「それとも本当に知りたいのは、誰がホージョーくんを殺したのか。とか?」
「――っ!」
琥珀を試すかのような物言い。今さっき考えていたことが吹っ飛び、殺された北条との記憶で琥珀の脳内が溢れかえった。今の甘音の問いの意味を琥珀は見過ごすことができない。
「それ、どういう意味ですか?」
「あは。やっと口聞いてくれたね。ちょー嬉しい」
ようやく琥珀が甘音に対して口を開くと、甘音は小さく笑った。
おそらく、琥珀の興味を掴むために、琥珀を誘い込む前からこの質問は考えていたのだろう。相手の思惑通りになるのは癪だが、ひとまず自分の身の安全がある程度保証されている以上、話だけは聞いてもいいのかもしれない。
相手は甘音一人。前みたいに、北条が一緒に居るわけではないのだ。
「こっち、おいで」
甘音がまた手招きをする。
一人で近づくのは正直怖い。けれど、それよりも好奇心が上回る。琥珀が絶対に成し遂げたい北条への弔い。その大きな一歩を、今進めるかもしれないのだ。
「......」
一歩、足を踏み出した。すると、甘音が笑顔で頷いてくれる。
「――」
「うん。やっぱり星宮ちゃんは間近で見ると、もっと可愛いね。ワタシ、嫉妬しちゃいそう」
そうして、琥珀は甘音の居る席まで近づいた。琥珀も久しぶりに甘音を間近で見て、突然校舎裏に呼び出された嫌な記憶思い出す。本当に、生理的に受けつけない女だ。
甘音は座っていた机から降りると、屈託のない笑みと共に琥珀と向き合った。身長は甘音の方が10cm程高いので、琥珀は若干首を上に傾けて、視線を合わせる。10cmなんて些細な差に見えるかもしれないが、それだけでも相手からの放たれる圧は大きくなるし怖かった。
「琥珀ちゃんはさ、ワタシのことあまり警戒しないんだね」
「......してますけど」
急に、意味の分からないことを言い出す甘音。北条との共犯者で、散々ひどい目に合わせてくれた相手を警戒しないわけがない。今だって、何か怪しい動きをしてきたらいつでも走って逃げれる間合いにいる。扉も開けっ放しにしてある。そんなこと甘音も分かっているはずなのに、なんで警戒していないなんて言うのだろうか。
「いや、してないよ。全然できてないよ星宮ちゃん。ホージョーくんのときみたいに、もっと警戒しないと」
「......っ」
甘音が北条を比較対象に出し、琥珀の言葉を否定する。
琥珀は眉を顰めて、一歩後ずさった。甘音の態度や表情が変わったわけではないが、何か様子がおかしいと感じる。
「――ワタシはホージョーくんじゃない。だって、ホージョーくんみたいに筋肉ムキムキじゃないし、頭も良くないし、勇気もない。あの才能は、ワタシには何一つないんだ」
「何言って......」
その瞬間、琥珀は悪寒を感じた。
(逃げ、なきゃ!)
今感じた何かを信じ、足に力を込め、甘音から視線を外す。もうこれ以上、甘音の話を聞いているのは危険だと判断した。
「でもワタシは、誰よりもホージョーくんを知って、愛して、尊敬していた――この世界で一番、ホージョーくんに近い存在なんだよ」
「うっ」
そんな言葉が聞こえた瞬間、琥珀の後頭部に強い衝撃が加わった。ぐらりと視界が揺れて、その場に膝を折ってしまう。目の前には、硬いチョーク入れの入れ物が転がっていた。それを見ただけで甘音に投げつけられたのだと理解した。
これは本気でまずい。何はともあれ、とにかく今は甘音から逃げないといけない。教室の外に出て、庵たちに助けを呼ばなければ。
「い、たっ......」
痛いけど、すぐに立ち上がった。頭がくらくらするけれど、目の前に見えている廊下を目指して、おぼつかない足取りで走った。
「はーい。逃がさないよ。琥珀ちゃんはもうこの教室からは出られません」
「はっ......」
進行方向を塞いできた甘音は、逃げ道だった扉を勢いよく閉じる。そして近くの机を持ち上げ、扉のスライド部分に置こうとしている。おそらく外から開けれなくしようとしているのだ。
「な、なんのつもりですか! そこどけてください!」
「もう慌てんぼさんだなぁ」
甘音の妨害を無視して、再び扉に向かおうとする。しかし困り顔の甘音に、今度は両手で体を後ろに押され、吹き飛ばされてしまった。頭がくらくらしていたのもあって、何の受け身も取れずに、そのまま教卓に背中と頭をぶつける。琥珀から小さな悲鳴が上がった。
「はいはい。これでもう逃げられないよ」
琥珀の体が悲鳴を上げている間に、甘音は扉のロックを終え、この教室を外側からの侵入を許さない密室にする。ここから脱出するには、スライド部分に置かれた机をどかして、内側から出るしかない。用意周到なことにもう一つある扉は既に同じ形でロックされていた。
「それでさ、早速星宮ちゃんに話したいことあるんだけどさ......」
「こ、こないで......!」
琥珀の言う事なんて、勿論聞いてくれるはずがない。教卓に背中を預け、頭と背中の痛みで動けずにいる今の琥珀は無力だ。そんな琥珀の前に、甘音はゆっくりと近づき、屈み、琥珀の顎を優しく持ち上げた。
「今からワタシに殺されてほしいの」
甘音はそんな最悪の言葉と共に、ポケットから手のひらサイズのナイフを取り出した。不気味にきらめく側面に、恐怖で怯える表情が反射する。
「――ッ」
「嫌かもしれないけど、ワタシはホージョーくんの一生の願いを叶えてあげいからさ、お願い。ね。星宮ちゃんが死んだら、ワタシも一緒に死んだげるから」
***
これが笑えない冗談なら良かった。
そのあとすぐ、甘音はナイフで脅し、無理やり椅子に座らせ、ロープで琥珀の体を固定した。凶器を前にしたら、琥珀にはもう逆らうことができない。ただされるがまま、甘音のおもちゃになった。
悪夢が始まって数分後だっただろうか。庵とみのりがこの現場を見つけて、絶望をしたのは。
この空間は甘音の手によって内側から封鎖されている。外側からこの扉を開くことはできないのだ。階も四階なので、窓から中に入ることは不可能だ。
庵が何度も扉を叩き、叫んでいる姿を見て、琥珀は気が狂いそうになった。でも、それを見て笑っている甘音が一番気が狂っていると思う。おかしい。おかしい。本当、頭がおかしい。
「――ごめんなさい、庵くん」
今回こそは、無理だ。
例え、庵たちがこの封鎖された教室に入ることが成功したとしても、その瞬間、甘音はきっと琥珀にトドメを刺す。警察を呼んでも間に合わないし、来たところでこの状況はどうしようもない。
相手の目的は琥珀の殺害。ただ一つ。
諦める諦めないなんて関係ない。気合でどうにかできる話じゃないのだ。詰んでるのだ。駆け引きも何もできない。絶望して、殺されるのを待つだけ。生殺与奪の権は完全に相手に握られた。
もう、ただ、ただ、泣くしかなかった。




