◆第186話◆ 『フラッシュバック』
ずっと、琥珀のことは雲の上の存在だと思っていたし、事実として庵とは釣り合わない女子なのだろう。そんな子と付き合わせてもらってるなんて、自分はなんて幸せ者なんだろうと今まで思ってきた。
正直、付き合っているというだけで嬉しいので、それ以上のことは普段からは特に意識していないし期待もしていない。それに琥珀にはエッチなことは無理と付き合う前に強く言われていたので、彼女に”本気で”性的な視線を向ける機会はほんとに少なかった。向けたところでそういう展開には発展するわけがないし、気持ち悪がられて振られたらどうしようという不安があったから、バカ正直に琥珀の言うことを守ってきたのだ。
とりあえず、高校卒業するより先に童貞卒業はないだろうと思っていた。まずは、交際関係の維持。琥珀を手放さず、無事に高校生を終えること。これが最優先だと庵は考えていた。
――だが、”それ”は突然来てしまった。
(今、琥珀をベッドに押し倒したら、どうなるんだ?)
現在時刻19時43分。
2分前に琥珀にキスされた。
映画と琥珀のおかげでムードができあがっている。
ゴムはある。
親は居ない。
ベッドの上、二人きり。
ワンチャンス。否、ツーチャンス、スリーチャンスくらいはある。
今、この空気は、もうそういうことしちゃってもしょうがないよね、みたいなものを感じてしまう。押し倒したら、普通に受け入れてくれるんじゃないかって、そんな期待を普通に抱けてしまう。
(やめろやめろ。早合点するな。俺は童貞なんだから、何もかも初めてなんだ。勝手な思い込みで突っ走んな。落ち着け、落ち着け)
自分が童貞で、場数がゼロなことを忘れてはいけない。ワンチャンあるように思えても、所詮それは童貞の妄想だ。もっともっと思考しろ。頭の中の歯車を回せ。正しい答えを導き出せ。押すか、引くか。結局はその二択に絞られるのだ。
その間、頭の中で、紫色のツインテールをした悪魔と金髪ロングの天使が喧嘩をしていた。
――あんた、ここで日和るの? こっこまでお膳立てされてんのに? さぁ、早く押し倒してしまいなさいよ。
――いやいや、それはマジないって。ここで琥珀ちゃんに手出したら、庵先輩への信頼が一気にがた落ちズドーンよ。ズドーン。ここはおとなしく解散にすべきでーす。
――はぁー? あんた頭沸いてるの? キスまでしてんのよ。しかも星宮の方から。これは襲ってくださいという意思表示じゃん。襲わなかったら逆に失礼まであるわ。
――琥珀ちゃんがそんな意思表示するわけないでしょ。あんなうぶな子が、そんな高等テク使うとでも思ってんの? ウケるー。
――何あんた。意思表示のつもりはなくても、そういう空気になってるのは確かでしょ。こんな絶好の機会、もう二度と来ないわ。ここは空気が冷めないうちにさっさと押し倒してしまうのが吉よ。星宮もきっと、分かってくれるから。
――アタシは絶対に意見を変えない。庵先輩、欲に負けずにガ・マ・ン。できるでしょ? 我慢しないと、琥珀ちゃんをまた泣かしちゃうことになっちゃうよ。それでも、いいの?
――あんた、その言い方は卑怯よ!
――アタシは事実を言ったまででーす。
悪魔と天使の言い争いは一向に決着がつかないし、庵にはどっちも正しくてどっちも間違ってるように感じる。きっとどちらの声も信じることはできないのだろう。だから、信じれるのはもう自分の直感以外にない。
(冷静になれ。焦らなくて、いいんだ)
まだ、この甘い時間は終わっていない。琥珀は今も庵の隣にいる。少し体を傾かせれば、腕と腕が触れ合う距離だ。
(このまま、終わりたくない)
やっぱり、どうしても欲が出てしまう。途端に琥珀がめちゃくちゃ可愛く思えてしまう。自分に都合のいい考えや、言い訳がたくさん思いついてしまう。直感を信じると言っても、結局迷ってしまう。
(くそっ。急にこんなことなるなんて......心の準備も何もできてねぇよ)
リスクの高さは過去一で、過去最大級の駆け引き。ハイリスクハイリターンの超大博打だ。そんな難しい決断を一瞬でするなんて庵には無理だ。もっともっと時間が欲しい。
(これであっちが全然そういう気じゃないのに押し倒してしまったらどうなるんだ。......いくらなんでも、さすがに嫌われるだろ。俺が今まで積み上げてきたものが、全部壊れちゃう)
――そーそー、庵先輩がせっかく一生懸命積み上げてきたものが壊れちゃう壊れちゃう。ここでやらかしたら、もう二度と琥珀ちゃんが家に来なくなっちゃうよ。それでもいいの? 最悪破局までいっちゃうよ?
(それは、嫌だ......っ)
――あんたばっかじゃないの。あんたが積み上げてきたものが、そんな簡単に壊れるわけないでしょ。一回襲っただけで壊れる信頼とか、笑っちゃうわ。あんたたちの関係って、そんな薄っぺらいものだったの? 違うでしょ。
(わかってる。それはわかってる......! でも、関係は崩れなくても、それで壁ができるのが怖い。あっちが断り切れなくて、無理やり嫌なことさせてしまう形になるのも怖い。とにかく、怖いんだよ!)
――うんうん。わかるわかる。怖いなら、さっさと逃げちゃいな。今日は琥珀ちゃんとこういう空気になれたってだけども大収穫じゃない。てか、キスもしたんでしょ。もう十分じゃん。今日はこのまま解散して、良い気持ちのまま寝な。大丈夫。チャンスはまた巡ってくるから。
(でも、それはそれでどうなんだって思ってしまうんだよっ。この機会を逃して、ほんとにそれでいいのかって。これで琥珀の方は心の準備できてたら、俺はその気持ちを無下にすることになっちゃうだろ)
――ほんとにそうよ。せっかく星宮が勇気出してキスしてくれたんだから、今度はあんたが勇気を見せる番。あんたが怖がる気持ちも、星宮を大切にしたいって気持ちもわかる。でも、時には一歩踏み出すのも大切よ。好きな女の子とエッチなことしたいってのは男として当然の気持ちだし、全然悪いことじゃない。星宮もそれくらいのこと分かってるわ。
(......)
――庵先輩は身の程を弁えた方がいいって。自分が琥珀ちゃんと釣り合ってないのは分かってるんでしょ? 今は琥珀ちゃんと付き合えてるだけで十分幸せなんだから、これ以上求めるのはさすがに強欲だって。せめて、もっと釣り合える男になってからそういう事を視野に入れていくべきじゃない?
(......)
思考は永遠に終わらない。時間だけがどんどん流れていく。このムードも少しずつ消えていく。
いくら考えても仕方がないし、埒が明かない。なら、少しでも状況を動かすべきだ。何も今すぐ襲う必要はない。会話を挟んで、一旦様子を見てみるのも悪くないだろう。
「琥珀、めっちゃ可愛いよ」
特に深い意図があるわけでもなく、パッと思いついたことを口にした。少し声は震えていたかもしれないけど、緊張の割には冷静を装えていたと思う。
庵の言葉に、琥珀は宝石級の笑みを浮かべた。
「ふふっ。庵くんもかっこいいですよ」
どこか恥ずかしそうな声で、そんな言葉で返してくれる。庵も、思わず笑みがこぼれた。
「――」
琥珀はベッドに手をついて座っている。それを見て、庵は静かに自分の手を重ねてみた。いつもはひんやりとしている琥珀の手が、今日は温かい。琥珀もドキドキしてくれているんだというのが分かって、嬉しくなった。勿論、自分の手も温かいけれど。
琥珀の手は小さいな、なんて場違いな感想を抱いてしまう。でも、今はそんな琥珀のすべてが愛おしい。願わくば、もっともっと琥珀を愛したいし、知りたい。
「――あ、のさ」
「はい」
「琥珀は俺のこと、どう思ってる? えっと、なんか急に聞きたくなって」
「――」
何か意味があって、この問いを投げかけたわけではない。ただ、今これを聞きたくなって、答えてほしいことは一つだけで、琥珀に言わせたいだけで。本当、悪いことをしていると思う。でも、琥珀の口からしっかり聞きたかったから。
――庵の問いかけに、琥珀は耳元で答えをささやいてくれた。
「――大好き」
その言葉を聞いた瞬間、庵の中の時が止まる。分かりきっていた答えのはずなのに、いざ言葉にして聞かされるとなんて破壊力のある四文字だろう。頭がふわふわとして、今の琥珀の言葉を何度も何度も反芻してしまう。
ああ、こんなのは卑怯だ。卑怯すぎる。今、隣にいるこの天使は、自分がどれだけ人の心を鷲掴みにしているのかきっと理解していないのだろう。どれだけ、君のせいで心がぐちゃぐちゃになっているか分からせたい。
「――あぁ」
胸が苦しい。琥珀が愛おしすぎて、苦しい。大切で、守ってあげたくて、仕方ない。優しくて、おとなしくて、たまにおてんばで、たまに怒ってくれて、いつも隣にいてくれて。そんな彼女のすべてが大好きだ。
――だからもう、限界だった。この気持ちを抑えられない。
「え? 庵、くん?」
覚悟を決めて、琥珀の肩に手を伸ばした。サラサラとした制服の感触が手に伝わる。男子の制服も女子の制服もそこまで材質は変わらないんだな、なんて思った。
「――」
琥珀が少し不安そうな表情に変わった気がした。一瞬、躊躇が生まれる。でも、すぐに振り払った。もう、覚悟は決めたのだ。
押すか引くか。
――押す、しかないだろ。
(いける。いける。あと一歩、踏み出せ、俺)
そうして、ついに庵は琥珀を押し倒した。
押し倒すと言っても、琥珀が頭を打たないようにゆっくりとだ。琥珀のセミロングヘアがベッドに広がり、音もなく仰向けになった。そうして、庵は琥珀の上に覆いかぶさる。目をぱちくりとさせる琥珀と、視線が嫌というほどに合った。
「――」
もう、後に退けないとこまできてしまった。そして、ここからが本番――正念場だ。
まず、何から。それは、言葉での確認だ。許可をもらえれば、あとはもうなるようになれ。
ここさえ、ここの壁さえ越えれたら――、
「......いい、よな?」
言葉を濁して聞いた。さすがにド直球に聞くのはだめだと思ったから。心臓が痛いくらいにドキドキしているのを感じながら、庵は答えを待った。
そして――、
「......え?」
庵の言葉に対する聞き返しではない、無理解と恐怖をブレンドしたかのような声。それは先ほどまでとの声質とは明らかに違ったもの。琥珀は身動き一つ取らず、呆然とした様子で庵と見つめあったままだったが、だんだんとその表情も青ざめていく。
「え?」
思わず、庵も聞き返す。琥珀の反応の意味が分からなかったから。それでも、この時点で庵は嫌な手ごたえを感じ出していた。
「......え?」
また、琥珀が聞き返す。今度は声が震えていた。心の底から恐怖している、そう誰から見てもはっきりと分かるような、そんな声だった。
「......っ」
琥珀の心の中で、何かがカタカタと蠢きだす。必死に封印しようとしていた記憶の蓋が、カタカタ、カタカタと動き出す。もう絶対に思い出したくなくて、何度も何度も忘れようと思っていたことなのに、すべてが”あのとき”と重なってしまう。
――怖い。
――怖い怖い。
――怖い怖い怖い怖い怖い。
『ハハ。これじゃムードもクソもねぇな。ま、俺とお前じゃ当たり前か』
『お前は体は貧相でも、顔だけは良いからな』
『それじゃ、とりあえずヤらせろよ』
『そのあと一緒に死んでくれ。それが、俺の人生を賭けた復讐のゴールだ』
――――トラウマが、フラッシュバックする。
「――あっ。いや、ごめん。そんなに、嫌がってるとは、思わなかった、から」
ベッドに尻もちをついた庵が、青ざめた表情で、たじたじと弁解しようとしていた。ただ、彼もだいぶ焦っているようで、そこからなかなか言葉が続かず、部屋に静寂が流れてしまう。そのせいで、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。
「......ぁ」
琥珀は自分の震える手の平を見て、遅れて理解した。自分が庵を突き飛ばしてしまったのだと。




