◆第177話◆ 『次はあなたの番』
コートを脱がないと暑いと感じてしまうくらいに、辺りに熱気が充満している。網に置かれた赤いカルビが、下から湧き出る炎に少しずつ焼かれていく。もくもくと出てくる煙が私の顔を覆ってくるので、それを手でぶんぶんとはらったら、反対の席にいる庵くんに少し笑われた。
「それ、もういいんじゃね」
前島さんがお肉が焼けたことを教えてくれる。私は割り箸を手に取り、恐る恐る網の上のお肉に手を伸ばした。箸の先がお肉に付いた瞬間、熱気の強さが一層強まった気がした。
「――」
掴んだお肉を事前に用意されていたタレに着水させる。とろっとしたタレに、一瞬にしてお肉全体がコーティングされた。今日はお昼ごはんが早かったから、とても食欲がそそられる。すごく良い匂いだ。
「――」
ふと、やけに静かなことに気がついた。お肉から視線を外して、周りに視線を向ける。朝比奈さん以外の3人がジッと私のことを見ていることに気がついた。
「な、なんですか.....?」
「なんでも。アタシら気にせず食べなよ」
「......そうですか」
みんなから一斉に見られると恥ずかしいのだけれど、見ないでとも言えないので、私はそのままお肉に視線を戻した。
「――」
柔らかそうで、綺麗なお肉。そもそも焼き肉なんて本当に一年ぶり。一人暮らしを始めてから食べたお肉なんて、コンビニに売っているレンジでチンするハンバーグくらいだ。それでも、十分に美味しいと感じていたけれど。
お肉をタレから救出して、口元にまで運んだ。食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐってくる。私は少しドキドキしながら、口にお肉を運び、それを半分かじった。
「――あっ」
歯で噛んだ瞬間、肉汁がじゅわっと溢れ出す。柔らかい。一拍遅れて、強烈な旨味の暴力が私の味覚を蹂躙した。一噛み、二噛みするたびに、旨味が上書きされて、一刻も早く飲み込んでしまいたくなる。でも、それが惜しい気がして、ゆっくりと気が済むまで味わってみた。
無意識のうちに、眼の前のご飯に箸が伸びる。一口分掴んで、ためらわず直ぐに口に入れた。それから半分残ったお肉も口にして、一緒に咀嚼する。お肉の濃厚な味わいが、今度はご飯に中和されて、さっぱりとした絶妙なバランスを作り出した。
たまらず、私はごくりと飲み込んだ。まだ、余韻が口の中に残っている。ほっ、といつの間にか息を吐いていた。感想は一つしかない。
「すごく、美味しいです」
「そっか。良かったよ。もし星宮さんの口に合わなかったらって、ちょっと不安だったんだ」
「いえ......本当にすごく美味しくて、私びっくりしました」
「えぇー、琥珀ちゃん大げさー。まー奢る側としてはそう言ってもらえるほうが嬉しいけどー」
もちろん、誇張表現抜きですごく美味しいと感じていた。これを食べれて幸せだった。私が普段から安いものしか食べてないのもあるのかもしれないが、それでも間違いなくこのお肉は”とても美味しい”と断言できる。人生で一番美味しかったものは何かと聞かれれば、今食べたお肉と答えるのも過言ではないかもしれない。
「じゃ、琥珀ちゃんの良いリアクションも見れたし、アタシもたーべよ。どんどん焼いてけ焼いてけ」
「みんな遠慮せず好きなの注文していいよ。お金のことは大丈夫だから、気にしないで」
みんな私の反応がみたいがために食べるのを我慢していたらしい。だとすると、表面上はあまり良い反応ができた気がしないので少し申し訳なく思う。心のなかではすごく美味しいを表現していたのだけれど。
「琥珀はやっぱすごく美味しそうに食べるよな」
「えっ」
庵くんの言葉、前にもお気に入りのカフェで言われた気がする。顔には出していないつもりだったのに、もしかして無意識のうちに出ちゃってた? 今までもそうだったと思うと、途端に恥ずかしくなってくる。
というか、この場でそんなことを言ってくるなんて、庵くんは少しデリカシーが足りない。私はぷいっとそっぽを向いた。
***
「あーそうそれ! それアタシのインスタだから、フォロリク送って!」
「おっけ。――はい、送ったよ」
「きたっ! マジ感謝っす。えと、暁くん」
「うん。まぁでも、僕あんまりストーリー上げたりしないよ?」
「庵くん、これ焼けてると思いますか?」
「あー......もうちょいかな。横から見たら結構赤いかも」
「ほんとですね。危なかった......」
「まぁでも、多少赤くても大丈夫だとは思うけどな」
左のソファには奥から暁と庵の男子2人。右のソファには奥から愛利と琥珀と朝比奈の女子3人。
愛利は席から身を乗り出しながら、暁にインスタのアカウントを聞いている。最早人目なんて気にしていなそうだ。らしいといえばらしいのだが。
琥珀はまだ慣れていないのか、おぼつかない手つきでトングを使い、肉をめくって、焼けたかどうかの確認を庵に取っている。あまりにも真剣な表情で肉をめくってるので、庵は少し笑いたくなってしまうが、また笑うと琥珀に怒られるので心の中で留めておいた。
それはさておき、朝比奈はというと――、
「......」
完全に空気になっていた。
このメンバーが朝比奈の身を置くグループに一切の関わりがないため、しょうがないといえばしょうがない。また、全員が一つの話題について話すわけでもなく、各々が勝手に自由な会話を始めるので、朝比奈は取り残されてしまっていた。
今は暗い面持ちで、自分で焼いたピーマンを申し訳程度に食べている。ちびちびとかじる度に、さみしげにツインテールが揺れていた。
「――」
そんな朝比奈にいち早く気がついたのは琥珀。隣に座っているので気づくのは当たり前。一度箸を置き、朝比奈の方に視線を向ける。
「朝比奈さん、これもう焼けてますよ」
「......ありがと」
琥珀には、朝比奈の気持ちがよく分かる。なにせ、琥珀は直近二年間をずっと孤立しながら過ごして生きてきたのだ。周りの視線は痛かったし、すごく息苦しかったし、恥ずかしかった。本当に、もう二度と味わいたくない経験だったと思う。
だからこそ、琥珀は朝比奈に助け舟を出してあげたい。色々と複雑な関係だけれど、今はもうだいぶ和解――はできてないかもしれないけど、前みたいにバチバチと火花を散らす関係ではないはずだ。琥珀は過去のことを根に持ったりするような人間ではない。向こうが心を開いてくれるのなら、こちらも心を開く。
「怪我は、良くなりました?」
「多少は」
「なら良かったです。朝比奈さんが一番辛そうだったから、私すごく心配してたんですよ」
「そうなの」
「......」
一生懸命会話を試みるも、無愛想な反応で返され、視線すら合わせてもらえない。北条と一緒に戦ったときは、今までの関係がすべて嘘だったかのように協力し合えたというのに、少し時間が経っただけで前の関係に逆戻り。
「......」
やっぱり人間関係って難しいと、琥珀は改めてそう思う。価値観は人それぞれだから、自分がどれだけ心を開いてコミュニケーションを取ろうとしても、相手がそれに応えてくれるとは限らない。だからこそ、相手との距離を詰めるには、まず相手を理解することが重要なのだ。
「あのっ! 文化祭、中止になっちゃって残念でしたね。せっかく色々準備してたのに」
「え。......いや、そうでも。別に私、最初から乗り気じゃなかったし」
今はもう中止になってしまった文化祭の話題を振ってみた。そうすると、朝比奈は少し困った様子で言葉を返してくれる。
「私、いろいろ考えてたんですよ。どうやったら朝比奈さんと良い作品が作れるかって」
「あんた一人で勝手に盛り上がってたもんね」
「でも朝比奈さんも、最後は一緒に手伝おうとしてくれたじゃないですか。私、あのときすごく嬉しかったんですよ。やっと心開いてくれたーって」
「......」
琥珀の言葉に、朝比奈が一瞬硬直する。不思議な、反応だった。でも、話はしっかり聞いてくれているという確信はあったので、そのまま会話を続ける。
「だから私、文化祭が中止になったのがすごく残念って感じです」
「......」
反応がない。あまり興味がない話題だっただろうか。だったらと、琥珀は別の話題を考える。
「あ、そういえば、朝比奈さんは――」
「ッ!!!」
突然、朝比奈が机を手で叩いた。コップの水が激しく揺れ、皿に立てかけていたトングが音を立てて落ちる。場が静まり返り、全員の注目が朝比奈に向く。一番動揺していたのは、琥珀だった。俯いた朝比奈の表情は、誰の視点からも確認することができない。
「......ごめん、なんでもない。気にしないで」
直ぐに冷静さを取り戻したのか、感情を感じられない冷え切った声でぼそりと呟く。とてもじゃないが様子は普通ではなかった。
「え、いや気にするでしょ。急に何。どした?」
愛利が怪物を見るかのような目で、朝比奈に視線を向ける。みんなでわいわいしていたところ、急に水を差されたのだから当然の反応だ。暁も庵も、さすがに箸を止めて、琥珀と朝比奈の様子を伺っている。
「琥珀。朝比奈と、何話してた?」
「え、いや、私は......」
庵に問いかけられるも、琥珀も少々頭がパニックになってうまく答えられない。
何故、朝比奈が急におかしな行動を取り出したのか。理由は分からずとも、その原因は間違いなく琥珀にあったはず。琥珀との会話の最中だったのだから、それだけは確かだ。だが、朝比奈の逆鱗に触れるような話題を出したつもりは琥珀にはなかった。ただの、雑談のつもりだった。だから、何もかもが分からない。
「――朝比奈、さん」
隣の席の彼女の顔は見えない。どんな顔をしているのか、想像もつかない。責任は、琥珀にあった。
だから――、
「朝比奈さん、一回外に出ますか?」
***
琥珀は朝比奈を店の裏まで連れ出し、二人きりになった。寒くて暗い夜空の下、窓から漏れる店の明かりが辺りを照らしてくれる。そのおかげでお互いの顔ははっきりと見えた。
「――っ」
朝比奈は泣いていた。正確には、目元が赤くなって泣きそうになっていた。手をグーに握りしめ、鼻をすすりながら、今にもその場に崩れそうになっていた。
琥珀はその様子を見て動揺と混乱を抱きつつも、なるべく冷静に朝比奈と向き合った。
「――バカ、よ」
「――」
「――あんた、めちゃくちゃバカ、頭、おかしい。どんだけお人好しなの」
小さな声が、少しずつ大きくなっていく。抑えきれぬ激情が声に乗って伝わり、琥珀の心を打つ。聞こえにくくはあったが、確かにその激情は琥珀に届いていた。
「なんで、私に優しくしようとするの?」
「え?」
単純な、問いかけ。しかし答える時間は与えられず、そのまま朝比奈は言葉を続けて――、
「私は、あんたを、星宮をいじめて、沢山ひどいことした。北条と一緒になって、あんたを嵌めた。あんたの友達を傷つけたのも私。あんたの彼氏の親が死んだのも、私のせい。全部全部、私のせいで、あんたは今日まで苦しんできたんでしょ」
「――」
「あんた、ほんとにおかしいよ。どうして私を庇うの? 庇っちゃ、いけないでしょ。もう、謝ったら許されるとか、そういう次元の話じゃないんだから」
朝比奈は断罪を求めていた。それもそのはず、彼女が犯した罪は、事実、確かに重い。取り返しのつかないことまでしてしまっている。だからこそ、今になって後悔をしているのだろう。彼女の心は、自分を許せなかったのだ。
朝比奈は一呼吸置き、紫色の視線を琥珀に突き刺し、再び口を開いた。
「――なんで、あの人達に私の話をしていないの? 私は今日、その話をするために呼ばれたと思ってたんだけど」
朝比奈が激情を顕にした核心ともいえる問い。
そう、琥珀は愛利や暁や秋、庵にすらも、朝比奈のこの度の悪事についての話は一切していない。廃墟に連れてこられ、罠に嵌められたこと。北条と組んで、ひどい仕打ちに合わされたこと。友達を、傷つけられたこと。――裏にはすべて、朝比奈という存在がいたということ。
そのすべてを、琥珀は誰にも口にしていなかった。
朝比奈はその事実について、一番混乱をしている。勿論、多少は朝比奈の名は話題には上がるものの、朝比奈が不利になるような話は今のところ誰にも知れ渡っていない。そもそも、今回の件で朝比奈の悪事を知るものは、主に琥珀と、断片的に秋が知っているくらいだ。だから、琥珀が話さなくては、朝比奈は断罪してもらえない。
それはあまりにも、朝比奈にとって都合が良すぎる話だ。
「――私は、星宮が一番許しちゃいけない女でしょ。何、やってるのよ」
「ぁ」
朝比奈が琥珀に近づき、弱々しい力で胸元を掴んだ。そして、涙をこぼしながら叫んだ。
「次は――っ」
「――」
「次は、あんたがやり返す番でしょ! やり返して、私をあいつみたいに......北条みたいに、地獄に落としてよっ! あんたがそれをしてくれなかったら、私、わたしぃはっ、どうしたら、いいの!」
酷く取り乱し、激昂しながら吠える朝比奈。後悔に押しつぶされそうになりながら今日まで生きてきた彼女は、琥珀に断罪を求めて、泣きついた。




