◆第171話◆ 『宝石級美少女と待ち焦がれた日々』
午後10時。
庵たちは想定より早くカラオケを終え、帰路についた。外の気温はカラオケに来たときよりもずっと下がり、先程までの温かい空間が直ぐに恋しくなってしまう。
「――じゃ、アタシこっからバイトあるから。ばいばーい」
「あぁマジか、大変だな。頑張れよ」
「サンキュ。適度にサボりながら頑張りまーす」
「サボるなよ!?」
バイトあったのかよというツッコミはさておき。別れの挨拶を交わし、庵と琥珀の帰路とは反対の道を歩き出す愛利。バイト先のコンビニに行くには、この道が一番の近道なのだ。しばらく帰路を歩いた後、愛利は何かを思い出したのか一度後ろを振り返った。
「――庵せんぱーい。明日はよろしくねー!」
「はっ。お前余計なこと言うなよ!」
愛利の言葉に、庵は苦虫を噛み潰したかのような表情をする。最後にちょっとした爆弾を言い残して去っていた愛利の背中を見送り、庵はジャンパーの袖を引っ張ってくる琥珀と視線を合わせた。
「今の、どういうことですか。明日前島さんと2人で遊びに行くんですか......?」
「誤解だよ。今のはあいつの言い方が悪い」
しっかり愛利の言葉を聞いていた琥珀は、不安そうな視線を庵に向けてくる。今の愛利の言い方じゃ、そう捉えられても仕方がない。寧ろ、愛利は狙って言ったのだろう。
「じゃ、じゃあ今のは何ですか。明日前島さんと何するつもりですか......」
「えっと......それは言えない。でも、琥珀を心配させるようなことはしないし、明日になれば琥珀も分かるから。安心して」
「......安心できませんよ」
「......」
「庵くんと前島さんがそういう関係じゃないのは勿論分かっています。でも、だからって安心できるわけないじゃないですか」
確かに琥珀の言うとおりだ。もし庵が逆の立場で、暁が琥珀に対する匂わせをしてきたら、いくら本人に大丈夫と言われても絶対にモヤモヤしてしまう。庵がされたら、絶対に嫌だ。
「――じゃあ明日はずっと、俺の家か琥珀の家で遊ぼう。これなら、どう?」
「えっ。それは......私は暇なので別にいいんですけど、それだと前島さんとの約束みたいなのはどうするんですか?」
「だから、それは少し誤解があるんだよ。あれは、愛利とだけの約束じゃないから。それに、俺はいつだって琥珀最優先だ」
「......」
庵が自分に一切の不都合のない提案をすると、琥珀が目を丸くした。それに加えて琥珀が最優先ということを伝えると、少し驚いたような恥ずかしそうな表情で庵の瞳をジッと見つめてきた。
「......なら、大丈夫です。明日、ずっと一緒にいるの、約束ですからね」
「もちろん。約束する」
「あと、私が言えることじゃないですけど、隠し事はあまりしてほしくないです。ちょっと不安になるので」
「それはマジでごめんなさい......でも、琥珀にも明日ちゃんと分かるから」
「明日って......明日何があるんですか。あ、それが言えないんでしたね。じゃあ明日まで楽しみに待っています」
そうして琥珀の納得を得られ、2人は足並みを揃えて帰路を進んでいく。その間、ちらりと琥珀の方を向くと、端正な顔立ちと、長いまつ毛、雪色の髪が庵の視界を奪い、何度でも心臓が痛くなった。今でもたまに、どうして自分はこんなに可愛い子と付き合えているのだろうと疑問に思ってしまう。
「......全然関係ない話していい?」
「いいですよ」
「琥珀のお母さんって、どんな人?」
「ふふっ、ほんとに全然関係ない話ですね」
言葉通りの急な話題転換に、琥珀はくすりと笑った。それから、少し嬉しそうな様子で、琥珀は自分のお母さんのことを語りだす。
「私のお母さんは、私の一番尊敬している人です。私の雪色の髪もお母さん譲りで、顔つきもすごく似ているので私はお母さん似ってよく言われます。あと、お母さんはいっつもおだやかで、でも怒るとちょっと怖くて、たくさん甘やかしてくれて......いつも私を守ってくれるんです」
「へぇ、その髪お母さん譲りなんだ。というか、めっちゃ良いお母さんだな。琥珀のお母さんなんだから絶対美人だろうし」
「もう、すっごい美人です。私の自慢のお母さんですよ」
笑顔で楽しそうに、母の話を語る琥珀。その姿はさっきまでとは違って活き活きとしていて、聞いているこっちまで楽しくなってしまう。この話題を振って良かった。そして琥珀は結構なマザコンのようで、だいぶ母親に心酔しているようだ。
「今、お母さんは琥珀の実家?」
「あ、今お母さんは病院で入院してます」
「えっ、なんで?」
意外な解答に庵が反射的に聞き返すと、琥珀は少しだけ目を細め、声のトーンを僅かに低くした。
「お父さんがちょっと乱暴な人で、それでお母さんが鬱になっちゃったんですよね。あと、そのとき私も学校でいじめられてて、それもお母さんが一人でいろいろ頑張っててくれてて......それでいろいろ大変なことが重なっちゃって、あるときお母さんが倒れたんです。すぐ退院できるって思ってたんですけど、けっこう長引いてて......ちょうど私が中学を卒業する辺りに入院したので、もうすぐ一年ですかね」
「そう、だったんだ。大変だったな。ごめん、嫌なこと思い出させちゃって」
琥珀の家庭環境が複雑であることは少なからず聞いていたが、細かい話を聞くのは今日が初めてだった。それじゃなくても琥珀は一年前から辛い状況に立たされていたというのに、その背後で家庭内でもいろいろ問題が起きていたのだと思うと、本当にかわいそうでやるせない気持ちになってしまう。その時に救いの手を差し伸べられたら、どれだけ良かったか。
「大丈夫ですよ。今はお母さんだいぶ元気になって、私がお見舞いに行くと昔と何も変わらない感じで話してくれます。こんな感じの笑顔で、”琥珀ちゃん”って。――多分、もうすぐ退院できます」
「退院できるんだっ。そっか。それならよかったな」
「はい。......よかったです」
回復しているのならよろこばしいことのはずだが、そう口にする琥珀の表情はどこか浮かない。気になる話ではあるが、これはプライベートな話なので、これ以上は追求しないことにする。
「......お母さん、か」
琥珀の話を聞いて、庵も自分の母のことを思い出した。事故で死亡した、母親の青美。天然なので事故を起こすのはらしいといえばらしいが、死ぬのはらしくない。事故っても、普通に生き延びてて、「事故っちゃった」なんてふざけて帰ってきてほしかった。今でも庵は、青美の死体と立ち会ったあの日のことを思い出して、胸が潰れそうになってしまう日がある。それだけ母への想いは強く、根深く染み付いていた。
「ごめんなさい。私、無神経でした。庵くんの前で、楽しそうにお母さんの話なんかして......」
「いやいいよ。俺から聞いたことだし。もう、俺もだいぶ気持ちの整理ついてるから」
「......でも、ごめんなさい」
琥珀も何かを察したのか、目を丸くしたあとに、申し訳なさそうに謝罪をしてきた。そんな琥珀に対し、庵は少しだけ笑って言葉を返す。自分から聞いておいて、琥珀を責めるわけがない。逆に変な気を遣わせてこっちが申し訳ないくらいだ。
「あ、そういえば」
少し空気が重くなったので、庵はふと思い出したことを口にしようとする。
「琥珀、さっきから”お母さん”って言ってるけど、本当は”ママ”呼びだろ」
「えっ!?」
図星なのか分かりやすく肩を跳ねさせる琥珀。マリンブルー色の瞳があわあわと泳ぐので、庵は少し意地悪な笑みを浮かべながら確信した。その数秒後、琥珀は諦めたのか、肩を落とし、少し頬を赤くして、庵の方をジト目で見つめてきた。
「......なんで知ってるんですか」
「たまにママ呼びになってたから」
「......嘘」
割と隠せていなかったが、どうやら本人に自覚はなかったようだ。
***
「――じゃあまた明日」
琥珀をマンションまで見送り、手を振ってから、庵も自宅へ向かおうとする。だが後ろを振り向いたと同時に、琥珀の声に引き止められて。
「あの、庵くん。今度、私のお母さんに会ってくれませんか?」
「え?」
唐突――否、さっきの話の続きだろう。琥珀のお願いに、庵は一瞬フリーズした。突然自分の親と会ってくれないかなんて頼まれたら、何か良からぬことをしてしまったかと邪推してしまう。
「実は、結構前から庵くんのことはお母さんにだけ伝えてて、それで私のお母さんがずっと庵くんに会いたいって言ってるんですよ」
「琥珀のお母さんが俺に? 全然いいんだけど、琥珀のお母さん怒ってたりしないよな」
事情を聞いて納得はするが、まだ安心はできない。庵の質問に琥珀が首をかしげる。予想外の返しだったようだ。
「怒ってないですけど、なんで私のお母さんが庵くんに怒るんですか?」
「怒るっていうか......俺みたいなどこぞの馬の骨が琥珀と付き合ってるなんて知ったら、不安がられるかなーって」
琥珀は可愛いて優しくて庵にとって天使のような存在。それは、琥珀の親がそれだけ愛情込めて育ててくれた証でもある。親にとって唯一無二の宝物、それを庵が手にすることを琥珀の母親は認めてくれるだろうか。
「うーん......少し不安そうにしているのはそうですね。でも、庵くんが良い人っていうのはお母さんにたくさん伝えているので、そんなに心配する必要ないと思いますよ」
「え、嬉しい。ちなみにどんな感じのこと伝えてる?」
知らない間に、自分の良い話がされているのは嬉しいもの。庵は気になって若干前のめりになる。
「えっと、命助けてもらったこととか、バイトの仕事のやり方教えてもらったこととか、カフェで奢ってもらったこととか、私のために色々頑張ってくれることとか......あと、たまに可愛いって言ってくれることも」
「......振り幅が広いな」
思ったよりクセの強い内容に、庵は少し苦笑いした。勿論嬉しいが。
そして琥珀が母親に伝えている話に挙げられた例、その最後だけ明らかに他とは系統が違う。この分かりやすい琥珀からのサインには、さすがの庵も気づく。とりあえず今はスルーするが。
「でも、どれだけ私が庵くんの話をしても、伝えられることには限度があるので......だから、実際に会ってもらいたいんです。これからのためにも」
「そうだな。琥珀と付き合わせてもらってるんだから、そろそろ挨拶ぐらいしないといけないって思ってたところだし。分かった。じゃあ、日程が決まったら教えて」
「はいっ。ありがとうございます」
そうして琥珀の母親と会うことが約束された。正直不安な気持ちもあるが、琥珀とこれ以上の関係性の進展を望むならこの行程は必須。少し気が早いが、結婚なども視野に入れていくならば避けては通れぬ道だ。
「――じゃあ、暗いので気をつけて帰ってくださいね」
「あぁ、おやすみー。また明日」
「あ、庵くんっ」
会話を終え、今度こそ帰ろうとしたタイミングでまた琥珀に呼び止められる。振り返ると、口元を綻ばせる琥珀が駆け足で近づいてきて――、
「今日とっても楽しかったです。いろいろあったけど、やっといつも通りに戻れたって感じがして、嬉しかったです。また沢山遊びに行きましょっ」
「そうだな。俺も、なんかあの空気すごく懐かしい感じがして良かった。ああやって羽伸ばすの、正月以来だしな」
「ですね。ずっと、またこういう日が来るのを待ってました。今私、すごく幸せなんですよ、庵くん」
「......俺も」
心の底から楽しそうに、無邪気な子供のような笑顔を向けてくれる。もうそこには、数週間前までの絶望に満ちた表情はない。ただ、幸せで、人並みの幸せを享受する、可愛くて愛おしい、そんな一人の女子高生の姿がそこにあった。
やっと、庵たちは日常を取り戻した。それが琥珀の活き活きとした姿を見るだけで理解できるのは、とても感慨深い。本当にこの笑顔を守れて良かったと、心の底からそう思う。
「俺も、幸せだよ。琥珀」
「――ぁ」
自分よりも小さな体を優しく抱きしめる。すると、琥珀は庵の首横辺りに顔をうずめ、ゆっくりと目を細めた。
それから、何十秒この状態が続いたのかはどちらも覚えていない。今はただ、この時間が最高に幸せで、最高の空気で、最高のタイミングに思えて。ずっと、続いていてほしいとさえ願った。
「――あんま外いると風邪引くし、そろそろ帰るよ。琥珀も今日は温かくして寝ろよ」
「庵くんも、気をつけて帰ってくださいね」
”あなたとなら、それ以上のこともしてみたい”。夜の空気が2人の心を解き、また少しずつ歩み寄っていく。




