◆第156話◆ 『イレギュラー』
絶体絶命なピンチを救ってくれたのは、庵の唯一無二の男友達である暁だった。汗ばんだ表情で安堵の吐息を漏らす彼に対し、庵は状況が飲み込めずに口をぽかんとさせている。それもそのはず、暁がこの場にいる異常性を庵は誰よりも理解しているからだ。
「――色々あとで説明するから、今はとにかく非常事態だろ、庵」
「あ、あぁ。そうだけど」
今は悠長に話しをしている場合ではないのは確か。どういう経緯であれ、暁がこの場に味方として現れてくれたのは間違いなく庵にとってプラスの誤算だ。しかし、その誤算が生じた原因はあまりにも不明瞭。
「ひ、一つだけ聞かせてくれ。なんでお前がここに居るんだよ」
「それは”助けて”って頼まれたからかな」
「誰が......」
「庵の元気な後輩だよ」
後輩。それで思い当たる人物は一人しかいない。あの憎たらしくって、時にめちゃくちゃ怖い女の顔が脳裏に浮かぶ。だが、あの二人に接点があったなんて話は初耳だ。また謎が深まってしまったが、これ以上は呑気に会話をしている場合ではない。
「そんなことより――立てるか? 庵」
「ま、まぁ」
「状況は大体分かった。事前に何が起きてるのかは聞いたからな。僕もいろいろ思うところはあるけれど、それは後回し」
暁は至って冷静な様子で、離れた場所で膝をつく北条に視線を向けた。庵目線からは何も見えなかったが、おそらく暁が殴るか蹴るかして吹き飛ばしたのだろう。
「康弘とは一応同じ部活だけど、あいつ生徒会に入ってるからあんまり部活に顔出さないんだよな。真面目なやつって思ってたけど......こりゃ酷いね」
北条の隣には、頭から血を流して気を失っている朝比奈の姿がある。聞かなくとも、これが北条の仕業だとは察しがつくだろう。
そして暁は北条と同じテニス部に所属している。二人は特別仲が良いというほどの関係ではなかったが、お互いを下の名前で呼ぶくらいの関係値はあった。暁目線からも北条は優秀な人間に見えていたが、この惨状を目にすれば、そんな幻想も砕け散る。
「――暁か。天馬と仲良かったんだな」
「まぁ入学したときから席近かったし、それなりに仲良くしてるよ」
「はは、なるほどな。これはさすがに想定外だ」
北条は平然を装っているが、少しだけ動揺が表情に現れている。呼吸も分かりやすく乱れていた。今、北条に起きている誤算。それは主に5つ。
・朝比奈美結の裏切り
・前島愛利の横やり
・天馬庵と朝比奈美結の共闘
・星宮琥珀の悪足掻き
・黒羽暁の横やり
星宮追い詰めるにあたって、多少なりとも計画に誤算が起きるのは予期していたこと。それは当たり前の話しであり、イレギュラーには柔軟に対応する気構えはしていた。だが、生じた誤算は想像以上の数。
何故ここまで誤算が起きてしまったのだろうか。答えは簡単に浮かび上がり、北条の目が細まっていく。
「あいつ、孤独じゃなかったのかよ」
――自分と同じ境遇に合わせたはずなのに、星宮の周りには星宮を想う人が沢山居る。
北条は、星宮を孤独に追い詰めたつもりだった。誰にも頼れず、一人で苦しむ選択を取らせるよう画策したはずだ。でも、北条が思っている以上に星宮は周りから大切にされていた。ただ、それだけ。それだけのことを北条は読みきれなかった。
「――庵。康弘と、隣の黄色髪の女子は僕が何とかしとくから、庵は星宮さんのとこに行ってあげて」
「い、いいのか? でも、それじゃ暁が――」
「今の庵に何ができるんだよ。もうボロボロだろ? 今の庵の役目は、すぐにでも星宮さんに会って、星宮さんを安心させること。分かる?」
確かに、今の庵は使い物にならないほどにボロボロ。殴られた腹も顔も痛いし、指の骨も多分曲がっているか、折れている。そんな今の庵がするべきことは、北条との延長線では決してない。
「走って庵。喧嘩には自信ないけど、僕が道を作るよ」
「......分かった」
暁の力強い言葉に背中を押され、庵は立ち上がった。そして地面を強く踏みしめる。隣にはとても頼りになる友人が立っていた。希望の灯火はまだ消えていない。死にものぐるいで掴んだこのチャンスは絶対に逃すわけにはいかない。
「――っ」
そして庵は走った。目指す先は星宮の部屋のあるマンション3階。マンションに入る前に、立ち上がった北条が道を阻もうとする。
「させるか――うぉッ」
「行け庵!」
一瞬だけ庵の視界に映った北条は、暁の体当たりによって視界外へ。暁の無事が心配ではあるが、もう後ろは振り返らない。友人を信じて、庵は自分のやるべきことを果たすまでだ。
「まじでありがとう......暁っ!」
カツカツと、暗いマンションの階段を駆け足で上っていく。そんな無茶に、体は悲鳴を上げていた。
***
星宮の部屋前までなら一度だけ行ったことがあるが、中に入ったことは一度もない。僅かな緊張を感じながら、3階の星宮の住む部屋までたどり着いた。鉄製のドアノブを回し、勢いよく扉を開く。
「――っ。星宮っ! 俺だよっ! どこに居んだ!」
大声を出すも返事は返ってこない。乱雑に靴を脱ぎ捨て、中の方へ進んでいく。清潔感に溢れる部屋内を、手探りで探し続けた。
「これ、は」
ふと庵の歩みが止まる。目についたのは、とある部屋。ここだけ扉が外れて、それが部屋内に倒れている。明らかな異常性を感じて、すぐに部屋内を覗いた。
「ッ。星宮!!」
そこは物置部屋だった。あまり使われている様子はなく、物もそこまで置かれていない。だから、目の前にある最悪の光景が、鮮明にしっかりと焼き付いた。
「天馬、くんっ!」
歪んで泣きそうな表情で庵を出迎えてくれたのは、体を丸めながら倒れる星宮だった。そして物置部屋に広がる血溜まり。その血がどこから流れているか視線を辿れば、目を背けたくなるほどの痛々しい事実が存在している。
「ほ、星宮っ! お、おまっ、はぁ!?」
星宮の太ももに、黒い取っ手のポケットナイフが突き刺さっている。それは庵にとって、あまりに現実離れした光景だった。自分も怪我を負っていることすら忘れ、すぐに星宮の側に駆け寄った。
「ほ、ほしみ――」
「天馬くんっ! よかった、ですっ......」
「え、うぉ」
近寄った途端、無理に体を起こした星宮が、庵の胸辺りを掴んで頭を押し付けてきた。震えた声に名前を呼ばれ、反射的に庵も星宮の肩辺りを掴む。ガタガタと体全体が揺れていた。
「北条くんがっ、天馬くんに酷いっ、酷いことするって言ってて、それでっ、それでっ! あ、ぁっ、はっ、はぅっ!」
「ちょ、一回落ち着け星宮っ! 過呼吸なってるぞっ。し、深呼吸しろ」
庵が来てくれたことにより、張りつめていた糸が切れてしまったのか、過呼吸になる星宮。ナイフが刺さっていることは一度置いておいて、庵は星宮の背中を優しく撫でた。胸の中に顔を埋めながら、不安定ながらも素直に深呼吸を始めだす。
「大丈夫、だから。俺は元気だよ。だから、落ち着いて」
「あ、ぅっ......」
内心は庵もパニック状態だが、それを今ここで表に出すわけにはいかない。庵までパニックになっても星宮の不安を増大させるだけだ。冷静になることを念頭に、今は星宮を落ち着かせることにだけに集中する。ゆっくりと、直ぐ側に居るということを認識させて、心を解していくのだ。同時に、庵も混乱する頭をゆっくり整理をしていく。
「......あっ、ご、ごめんなさい。はぁっ、はぁっ、んんっ。も、もう、大丈夫です」
「落ち着いた、か?」
「たた、たぶん」
「そっ...か」
完全に落ち着いたとは言えないだろうが、今さっきよりも呼吸は落ち着いている。それを確認してから、ゆっくりと胸の中の星宮を引き剥がし、視線を合わせた。くりりとしたマリンブルー色の瞳が、昨日ぶりに庵を映す。
「星宮、そ、そのナイフは?」
視線の先はやはり、星宮の太ももに深々と刺さるナイフ。痛々しく刺さったそれは、しっかりと固定され、今尚血を溢れさせている。
「あっ、こ、これですか。さっき北条くんに刺されて、そのままなんです......すごく痛いですけど、でも少し慣れてきたので......大丈夫じゃないけど、大丈夫です」
「ほう、じょう......っ」
やはり出てくる、北条の名前。あの悪魔は一体どこまで星宮を苦しめたら気が済むのだろうか。最早怒りを通り越して、何も感情が出てこなくなる。おかげで逆に冷静になってしまった。
「それ、抜いたら......多分やばいよな」
「刃物が刺さったときは、抜かないほうがいいって保健で習いましたよね。え、えっと、多量出血とか何とかで......」
「そう、だよな」
まったくその授業に聞き覚えがないのは、庵が授業を聞いていないからか、まだ庵のクラスが習っていないだけなのか。それはさておき、見るも無惨に下半身血まみれの星宮をこのままにしておくのはあまりにも可哀想だ。タオルか何かで拭いてあげたいが、庵はそんな物を持っていないし、この部屋にもない。
「ちょっと血がヤバいな.......タオルか何か取ってきたいんだけど、どこにある? 取ってくるから教えてくれ」
「あ、いや、大丈夫です。天馬くんは、ここに居てください」
タオルを取りに行こうとするも、引き止める星宮。そうは言っても、血溜まりができるほどに出血しているのをそのまま放って置くわけにはいかない。
「いや、でもそんな血塗れだと気持ち悪いだろ。すぐ取ってくるから俺に――」
「い、いやっ!!」
庵が立ち上がると、悲鳴に近い声を上げながら服を引っ張ってきた星宮。後ろを振り返ると、また星宮は体を震わせ、怯えた目つきになっていた。
「私、を一人にしないでくださいっ。もう、怖いんですっ。一人は、嫌、なんですっ」
「え、え......」
「北条くんが、また来たら、嫌です。もう無理です。怖いです。ほ、ほんとに、殺されちゃいます」
「――」
いつもの星宮なら”一人にしないで”なんて子供みたいな我儘は絶対に言わない。これは、星宮がよっぽど精神的に追い詰められていた証拠だ。庵の服を掴む星宮の力は弱々しいが、視線だけは本気。考えを改めた庵は、星宮の方に体を向け直した。
「い、かないで......」
「わ、かった。行かない。ずっと星宮と居るよ」
「......」
納得してくれたのか、再び庵の胸に顔を埋めてこくりと頷く星宮。まるで小動物をあやしているような気分だが、状況はあまりにも残酷。
「あ、俺の服でよかったら......」
「え、あっ、いや汚いですよっ。やめて、ください」
「大丈夫だよ。どうせ安い服だし」
上着を脱いで、それをタオル代わりに血を拭いていく。最初は遠慮しようと拒んできた星宮だが、強引な庵に抵抗はそこまでしなかった。星宮は気づいていないかもしれないが、さっき星宮が密着してきたときから血はだいぶ付いてしまっている。
「うッ」
突然、北条に折られた指に激痛が走った。さっきから痛いのには変わりないが、少しでも指に刺激が加わると爆発的に痛みが増大する。星宮も大変ではあるが、庵も庵でかなりの負傷をしているのだ。しかしそれを表情に出すと星宮の不安をまた煽ってしまう。
「て、天馬くん、大丈夫ですか? 汗がすごいですけど......もしかして、やっぱり北条くんに何かされたんですか」
「い、いや、大丈夫」
血を拭く手を止め、一度壁に背を預けて深呼吸する庵。星宮を不安にさせないためにも、情けない姿は見せられない。気合を入れ直して、歯を食いしばり、不器用に星宮に微笑んでみせた。
「ちょっと俺も動揺してるからさ......まぁ今はだいぶ落ち着いたから、もう大丈夫」
「そ、うですか。心配かけて、ごめんなさい」
「星宮は謝る必要ないって......」
星宮と再会を果たせたのはいいが、星宮は足を負傷し、庵は指を負傷している。ここから脱出して一刻も早く北条から離れるのがベストだが、そう簡単に逃げられそうにはない。暁が北条の相手をしてくれているとはいえ、下には甘音も居るのだ。
「もう、大丈夫だから......」
そんな根拠のない励ましの言葉を口にするも、正直ここからどうすればいいのか正解が分からない。まだ、残された課題は重たいものばかりである。
***
――同刻。
北条の足止めをしてくれている暁は、息を荒げながら地面に膝をついていた。目の前には北条と、鉄パイプを手に持つ甘音が立っている。残念ながら、暁は劣勢だった。
「......2対1はさすがにキツイな」
どこから持ってきたのか分からない鉄パイプを持ちながら、それを暁に突きつける甘音。いつもの可愛らしい表情は抜けて、本気の視線が頭部に向けられていた。
「あとはワタシ一人で大丈夫だよホージョーくん。星宮ちゃんのとこに行って、早く計画終わらせて」
「あぁ、すまないなアヤ。あとは任せた」
「うん。任せて」
動けば、詰み。動かなくても、詰み。鉄パイプを本気でぶつけられれば命に関わってくる。だからこれ以上は下手に動けなかった。さすがの暁も、自分の命を危険に晒すような真似はできない。
「庵......ごめん」
顔を俯かせ、今おそらく星宮と再会をしているであろう庵に謝罪をする。そして甘音の目が鋭く細まった。凶器と化した鉄パイプが振り上げられる。
「ごめんね黒羽くん。ワタシがやりたくてやってることじゃないけど、全部ホージョーくんのためなの」
「......そうなんだ」
「じゃあね」
――そして衝撃を覚悟し、歯を食いしばった瞬間だった。
「きゃっ!」
突如、悲鳴を上げた甘音。手にしていた鉄パイプを地面に落とし、額を抑えだした。だがそれだけに留まらず、ヒュンヒュンといった謎のサウンドと共に、甘音の悲鳴が大きくなっていく。
「っ? なんだ?」
何が起きているのか混乱する暁だが、答えは目の前に”沢山”転がっていた。コロコロと、小さな何かが地面に何個も落とされている。
「これ......BB弾?」
いつの間にか地面にばらまかれているオレンジ色の小粒の数々。これは暁も昔使ったことのあるおもちゃの弾丸だ。こんなものがどこからやってきたのか。その答えは、暁の後ろに決めポーズで立っている人物にあり――、
「お姉ちゃんっ! 撃つならもっと早く撃ってよ!」
「うるさい。絶体絶命のときに助けるほうが燃えるでしょ」
「もうーっ、こんなときまでアニオタ発動しなくていいからっ!」
「まさかこんなタイミングで私のグッズコレクションが役に立つなんて......」
「無視すんなっ!!」
騒がしい声が暁の元へ近づいてくる。それは張り詰めた空気を良い意味でぶち壊してくれた、新たなる救世主だった。




