◆第153話◆ 『立ち上がれ』
甘音の首を掴む庵の手が、小刻みに震えていた。
「なんで、なんでワタシに乱暴するの!? ワタシをイジメたって、星宮ちゃんは助からないよぉ!」
「だから、なんだよっ! これが俺たちのできる最善なんだ!」
「意味が、分かんないっ! 八つ当たりでも、してるの......?」
怯えた瞳が庵を映す。思わず手の力が抜けそうになるが、気を引き締め、感情を殺し、力を籠め直した。呼吸できなくなるほどに甘音の首が圧迫され、表情が青ざめる。フラフラと伸ばされた手が庵の腕を掴み、引き剥がそうとするが、甘音の力では庵に及ばない。
「うっ、や、やめ、て!」
「ごめんって、言ってるだろ!」
ヤケクソ気味な謝罪を叫び、庵は甘音を反対側の道路に叩きつけた。もちろん仰向けになるように配慮はしたが、相当な勢いで尻もちをついた甘音は、見ているこっちまで可哀想に思えてくる。
「い、いったいっ。痛い、よぉ」
衝撃を抑えるために咄嗟に手を付いたのか、手が擦れて血が出ている。今、甘音から流れている赤い血は紛れもなく庵のせいだ。そして、甘音から流れる涙も紛れもなく本物。
「はぁっ......はぁっ......」
込み上げてくる罪悪感が、呼吸を粗くさせる。さっきまで甘音の首を掴んでいた温かい感触は、まだ掌にしっかりと残っていた。今、庵は人を、しかも友達だった女子を傷つけているのだ。
「――まだよ。もうちょっと、こいつを痛めつけて」
「あ、あぁ......」
想像以上の嫌な感触に逃げ出したくなるが、中途半端には終わらせられない。弱りかけた自分に活を入れ、今一度甘音に視線を向け直す。
「な、何。何何何何何っ! なんなの二人とも! 暴力とか、やめてよっ! ワタシ、二人に何かしたの!? もししてたなら謝るから、暴力はやめようよ!」
「いや、俺に関してはしただろ。体調不良を装って、俺の首絞めてきたよな?」
「そ、それは――」
「まぁ正直、今はそんなのはどうでもいいよ。今、お前を追い詰めるのは星宮のためなんだ。だから、私情は挟んでない」
今甘音に暴力を振るうのは甘音に恨みがあるからではない。全部、星宮のためだ。もちろん、こんな弱いものイジメで星宮が喜ぶわけがない。庵たちの目的は、甘音アヤを星宮救出の”鍵”にすること。
「あんた、場所代わって」
「え。あ、あぁ」
庵を押しのけた朝比奈が甘音の前に立つ。それで甘音の表情が曇ったのは一瞬だった。
「――ずっと、ぶりっ子なあんたがムカついてたのよね」
「え」
瞬間、朝比奈の蹴りが甘音の横っ面に直撃した。怪我人とは思えない強烈な一撃に甘音は吹き飛ばされ、近くのゴミ箱に体をぶつける。なかなかに嫌な音がした。
「お、おい朝比奈! 顔はやめてあげろよ! てか私情挟んでんじゃね―か」
「は? うっさい。やるなら徹底的によ」
受け身すら取れず吹き飛ばされた甘音は、転がった先で頬を抑えながら悶えだす。そんな様子を見てさすがの庵も甘音を庇ってしまうが、朝比奈の冷めた瞳は本気だった。ちょっと言ったくらいじゃ、もう朝比奈は止められない。
「――最近やられっぱなしだったから、なんかスッキリするわ」
「ひっ。や、めて。やめて、くだざいっ!」
「どうかしらね。とりあえず、私が満足するまでやらせてもらおうと思うけれど......」
ここで一呼吸置く朝比奈。体を半分起こして、意味もなく後ずさる甘音。狼と子羊、両者の視線が絡み合う――と思いきや、朝比奈はマンションの上の階に視線を向けた。
「そろそろ、助けに来たらどうなの? 北条くん。あんたのかわいい女が、ボロボロになっちゃうよ」
目を細め、3階に居る北条に向け朝比奈は語りかける。この声が3階に届いているかは分からない。ただ、さっきから甘音が壁に打ちつけられたり、ゴミ箱に衝突したりと爆音が鳴り響いているので、少なくともあちらも外の異変には気づいているはずだ。
「ほんと、無茶苦茶な賭けね。私たちも北条くんみたいな真似するなんて、最悪の気分」
これが朝比奈の考えた無茶苦茶な作戦。甘音を追い詰め、囮にし、北条を誘い出す。もし北条が甘音を切り捨てるようならこの作戦は失敗し、ただの時間ロスとなる。だが、朝比奈の読み通り、北条と甘音が普通の関係を超えた”特別な関係”であるというのなら、きっと――。
「――ぅあ」
瞬間、鈍い音と共に、何かが割れる音がした。
「は?」
庵の眼の前で朝比奈が倒れだす。すぐさま駆けつけ、倒れきる前に体を抱き寄せるが、既に朝比奈は気を失っていた。前髪をどけると、額から血が流れ出している。
「あ、朝比奈っ! おいっ!」
叫ぶも、閉じた瞼はピクリとも動かない。
震える視界の端に、何かが落ちていることに気づいた。それは、小さな写真立て。ガラスの破片と共に、木製のそれはバラバラに砕けている。そして知らない幼稚園生の集合写真が宙に舞っていて――、
「――どいつもこいつも、超めんどくせぇな」
「っ」
聞き覚えのある声が、庵を現実に引き戻す。恐る恐る後ろを振り返れば、そこにはあの男の姿があった。気だるそうに頭を掻きながら、こちらに近づいてくる。
「北条......っ!」
「ホージョーくんっ!」
現れたのは北条康弘。奇しくも、庵たちの賭けは勝ったのだ。しかし、本題はここから。この男をおびき出すのに成功したはいいが、ここからはノープラン。
「まじ、かよ」
しかも朝比奈は不意打ちに気絶してしまった。となれば、これから庵は一人で北条を抑え込み、星宮を救出しなくてはいけない。朝比奈が居たとしても成功の可能性は低かったのに、ここにきて更に可能性は下がる。
「天馬。さっさと帰れよ。俺は今、忙しいんだ」
「......っ」
初めて聞く、人格が変わったかのようなドス黒い声色。もう、昔のような優しい瞳を北条はしてくれない。庵はそれを強く痛感し、呼吸を詰まらせる。
「――」
急に手が震えだした。朝比奈の額から流れる血がポツリと一滴庵の膝に落ち、それが染みとなって広がっていく。できていたはずの覚悟が、またゼロに戻りそうだった。
「でも......っ!」
ここで怯えたままなら北条の思う壺。北条がヤバい奴だなんて、ここに来る前から分かっていたはずだ。今更それを目の当たりにしたからといって、何だと言うのだ。いい加減、覚悟を決めろ。
何のために今、ここに居るのか思い出せ。
朝比奈が眼の前でやられたからなんだ。一人だから、なんだ。目的を思い出せ。
『――天馬くんは私のヒーローですよ?』
そうだ。天馬庵はヒーローなのだ。ここで膝をつくなんて、ましてや最初から諦めるなんて、ヒーロー失格。星宮の期待に応えろ。これ以上、恥を晒すな。気持ちを切り替えろ。星宮が好きで好きで仕方ないんだろ。
「――ごめん朝比奈。あとは、俺がなんとかするよ」
小さく息を吐いてから、今は届かない言葉を投げかける。それから朝比奈を側に寝かせ、ふらふらと立ち上がった。小刻みに震える体に、掌に爪を立てることで気合を入れる。これは恐怖なんかじゃない。武者震いと思え。
「か、帰らねーよ」
「あ?」
これが”庵たち”の最後の戦い。ビシッと、いつか見た少年漫画の決めポーズを思い出して、北条に指を突きつけた。
「タイマンだ北条。俺が勝ったら、星宮を返せ」
いよいよクライマックスですね。
長かった第三章もあと残り10話あるかないかくらいです。




