◆第149話◆ 『嫌』
ベッドに押し倒された星宮は目を丸くし、呼吸を詰まらせる。想定していた最悪が行われようとしていた。両腕を掴まれ、下腹部に跨がられているこの状況。星宮に取れる選択肢は会話しかない。
「は。死ぬって......そんな物騒な話、正気なんですか!?」
「正気も何も、もう取り返しのつかないところまでやってしまったからな。このまま俺は何もしなくても近い未来に豚箱行きだ。てか、もう既に通報入ってるかもな」
そう言い放つ北条の脳裏に浮かぶのは、よく喋り、よく動く金髪の女――愛利の姿。あれに見つかった時点で、北条は取り返しのつかないことになったと思考を切り替えていた。
「あの金髪女に見つからなきゃ、まだやりようはあったんだがなぁ」
残念そうに溜め息を吐くが、表情を見る限りそこまで落胆しているようではなさそうだ。それよりも今の言葉に星宮はハッなった。気が動転していて大切な事を忘れていたのだ。
「そ、それって前島さんのこと、ですか?」
「あ? 名前なんか知らねーな。というか、お前も見てただろ。あの金髪チビが俺に殴りかかってきたのを」
一応確認を取ったが、やはり愛利の事を言っているのは間違いない。星宮の最後の記憶では、愛利は星宮と朝比奈を逃がすために北条を足止めしてくれていた。そのおかげもあり、一度は無事逃げ出すことに成功したのだが、甘音に見つかって、気づけばまた北条に襲われている。
北条の足止めはいつ終わって、愛利との決着はどのようについたのか。今現在北条がここに居る時点で嫌な予感しかしない。
「前島さんに、何したんですか......!」
「あ? ポケットナイフで、グサッだぜ?」
返ってきた答えは星宮の理解を越えるもの。それは、星宮の中で勝手に引かれていた”越えてはいけないライン”が、確かに越えられてしまった瞬間。あまりに現実味のない話に、星宮は直ぐに反応を示せなかった。
「ぐ、グサ?」
「あぁ、グサッだ。――信じられないなら、これを見ろよ」
呆気にとられる星宮。今自分が大ピンチなことも忘れて呆然とする彼女に、追い打ちをかけるかの如く”あるモノ”を取り出してきた。
「だいぶ血が固まってきて、あとで洗うのが面倒だな。いや、もう洗うことはないか」
「――は?」
思わず、そう間抜けな声をこぼさずにはいられない。北条が取り出したのは一本のポケットナイフ。その刃先から平らな部分にかけて、赤黒く固まった血がこびりついている。気づけば、星宮は悲鳴を上げていた。
「いやぁぁぁッ!」
「おいおい驚きすぎだろ。血を見るのは初めてか?」
まだ、これが愛利の血なんて確証はどこにもない。だが、それでも叫ばずにはいられなかった。このポケットナイフを見て連想されるのはまず、愛利の死。知人の死なんて今まで考えたこともなかったので、急な情報の暴力に、星宮はまたパニックになる。
「あ、あぁ、あぁ......」
ワナワナと震え、動揺を隠せない。目を背けたいもののはずなのに、何故か血の付着したナイフに目が釘付けになる。
もし、これで本当に愛利が殺されていたら? それは間接的に、星宮が殺したも同然になるのでは? そんな恐ろしい連想がぽんぽんと脳内で行われ、みるみるうちに恐怖が増大していく。
「分かるぜ。お前は自分よりも他人を優先するような”良い奴”だからな。だから、自分のせいで友だちが殺されたなんて知ったら、お前もきっと死にたくなるよな」
開いたばかりの傷口に漬け込むような形で、北条が同情の姿勢を見せる。まさにこれを狙ってたかのような口ぶりだ。
「――だから、もう俺と死のうぜ。俺に罪を償って、友達にも罪を償って、それで全部チャラだ」
「う、嘘。嘘嘘嘘、嘘」
「まーだ疑うかよ」
疑うも何も、信じられるはずがない。今の話を信じてしまったら、星宮は永遠の罪と後悔を背負うことになる。越えてはいけないラインを、星宮までもが越えてしまうことになる。愛利の死なんて、そんなの認められるはずがない。意地でも、認めない。
「お前はあの金髪女を心配するよりも、自分の心配をしたほうがいいと思うぜ?」
星宮が恐怖に硬直しているところ、それを現実に引き戻すかの如く、北条の手が星宮の胸に着地した。いやらしい手つきが服越しからでも感じられる。
「うっ。や、めてくださいっ!」
「おっと。今からヤるってのにこれぐらいで暴れんなよ。てか意外と胸あるんだな」
解放された腕を振るって北条の体を押すも、びくともしない。ヘラヘラとした様子で胸から手を離しはしたが、反省の表情など微塵もしていなかった。今この場で、本気で北条は星宮を襲うつもりだと、地獄のような再認識をさせられる。
「一応聞いとくが、お前処女? 天馬とヤッてんの?」
何食わぬ顔で、デリカシーに欠けた質問を投げかけてくる。一体宝石級美少女に何を聞いているのだ。もちろん星宮は今までにそういう経験は一度もない。それをわざわざ北条に答える義理はどこにもないだろう。
「いやッ。どけ、どけてくださいっ。無理、いや、いやですっ!」
「あーあ。これじゃ会話成立しねーなぁ」
愛利の話の影響も大きいのか、星宮のパニック状態はどんどん加速していく。そんな冷静さを失った星宮を見て、北条は面倒くさそうに頭をポリポリ掻いた。
「――一回黙れよ」
今までとは違う、重たい声が響いた瞬間。星宮は首を締められ、もう片方の手で口を塞がれた。必然的に呼吸ができなくなり、声も出せなくなる。手足は動かそうと思えば動かせるが、僅かに残っていた理性がそれを止めた。一瞬にして部屋が静まり、空気が凍りつく。
「――」
星宮の首を締めている間、北条はジッと星宮の表情を伺っているだけで、何も言葉はかけてこなかった。一秒、二秒と時間が刻まれて、少しずつ星宮の限界が近づいていく。
「――」
その間、パニックになっていた頭が一度リセットされて、次は生命の危機を訴えだす。一度愛利と北条のことは頭から吹っ飛び、とにかく呼吸がしたくなった。震える手で北条の袖を掴むも、何も変わらない。涙目になりながら、苦痛に耐えること数十秒――、
「――うッ。かはっ、けはッ」
突然苦しみから解放され、星宮の肺に新鮮な空気が流れ込む。咳をし、大きく息を荒げながら、呼吸を整えていく。自分の心臓の鼓動が耳に聞こえてくるくらいに、大きく音を立てている。それは本気で死を悟った瞬間だった。
「はぁっ......はぁっ......」
「どうだ? 少しは冷静になれたか?」
冷静になれたというよりは、恐怖に支配された。これ以上は逆らってはいけないという恐怖が、しっかりと星宮に刻まれたのだ。そういう意味ではある意味冷静になれたが、冷静になれたところで星宮にはどうすることもできないのが今の現状。
「ハハ。これじゃムードもクソもねぇな。ま、俺とお前じゃ当たり前か」
人の首を締めておいてヘラヘラとする北条。死という選択肢を選んでいる彼にとって、最早失うものは何もない。だからこそ彼は何をしようと無敵なのだ。
「――あぁ」
分かっていたことだ。どれだけ足掻いても、どうしようもない。今まで散々北条の掌で踊らされ続けたのだから、それは星宮が一番理解していることだ。ここでどう足掻こうと、時間稼ぎにもならず、結局は北条の思い通りになる。
「お、超大人しくなったな。いよいよ覚悟ができたか?」
星宮琥珀は、自分のせいで誰かを傷つけたくないという思いを持つ優しい心の持ち主。だからこそ、北条が愛利を秋を――庵を傷つけたと知ったとき、それは自分の責任だと己を責めた。
一人で北条との問題を抱え込み、一人で解決するつもりであっても、結局は大切なみんなを巻き込んでいる。愛利に関しては、もしかしたらもう取り返しのつかないことになっているかもしれない。
「お前は体は貧相でも、顔だけは良いからな」
これ以上不本意にみんなを巻き込むくらいなら、北条の要求を全て飲んで、この世から消え去った方がまだマシなのかもしれない。これが北条の一方的な星宮に対する攻撃なら話は変わるが、結局は星宮にも”エメラルドとの過去”という非があったのだ。
「腕、伸ばせよ。脱がせられないだろ」
今、ここで北条に全て任せれば、諸悪の根源は何もしなくとも一緒に死んでくれる。それである意味全て解決じゃないだろうか。それもまた、一つの正解かもしれない。
(......なんで)
――でも、やっぱり嫌なことは嫌だった。
自分が犠牲になって、それで解決? そんなの意味が分からない。いくら星宮が過去にエメラルドを傷つけたからといって、何故ここまでの仕打ちを受けなければならないのか意味が分からない。そもそも、最初はエメラルドと星宮の問題だったはずなのに、なんで庵や愛利、秋が巻き込まれているのだ。それがなんで自分の責任になるのだ。
「ハッ。素直な女は嫌いじゃないぜ?」
悪いのは、全部全部全部全部全部全部、北条だろ。そう、思わせて。
(......やだ)
心の声に呼応するように、星宮の腕が北条の胸辺りを押した。強く押したわけでもなく、ほぼタッチしただけとも表現できる、弱々しい押しだった。まだ気の迷いはあっても、やっぱりこれで自分が犠牲になるなんて許せなかったのだ。
「あ? なんだこの手?」
「......」
北条は星宮の着ていたものを脱がす手を止め、不愉快そうにどういうつもりだと問いかけてきた。
しかし、星宮はその質問に答えられない。理由は単純に、答えたところで何もならないから。歯向かう勇気は残っていても、何を言ったって無駄だとは理解している。
(......嫌......嫌)
どれだけ大切なものを失おうと、星宮にだって譲れないラインというものは存在している。もし誰かにこの体を差し出すときがくるとするならば、それは自分が好きな人であってほしい。それが北条だなんて絶対にありえない話なのだ。
「――」
北条の手は止めさせたが、この先どうするかなんて何も考えていない。というよりか、きっと打つ手なんて何もないだろう。最悪のチェックメイトだ。
(......)
心も体もズタボロ。体をよじれば激痛が走るし、愛利のことを思い出せば呼吸が狂い出す。こんな状態で自分よりも圧倒的に大きな存在に抗おうなんて、誰ができるのか。一度は息を吹き返しかけた魂も、穴の空いた風船のようにまた萎んでいく。
「余計な真似するんじゃねーよ」
また、北条の手が星宮に伸びる。
今度は何も抵抗できなかった。疲れ切った星宮は虚ろな瞳をして、ボーッと天井を見上げる。毎朝、見上げてきた景色だ。それが今はとても愛しく見える。すごく滲んで映っているはずなのに、何故かここで一人暮らしを始めた頃の記憶がフラッシュバックして、鮮明に映って見えるのだ。
「――天馬くん」
ふと、口から大切な人の名前が漏れ出した。幸いにも北条は星宮の服を脱がすのに必死で聞こえていない。なんで今、庵の名前が出たかは本人にもよく分からないが、一つ考えられることがあるとすれば、いつか自分の部屋にも庵を招待したかったのかもしれない。いつも庵の部屋ばかりお邪魔していたので少し申し訳なかったのだ。
「――」
それだけじゃない。星宮には、まだやりたいことが沢山ある。ようやく過去から抜け出し、新たな幸せが掴めそうなところに、つい最近まで星宮は辿り着いていたのだ。
そんな未来の幸せがこんなところで潰えるなんて、想像もしていなかった。
「――」
もう、いくら未来を考えたってしょうがない。どうせここで星宮は終わるのだ。それがどれだけ自分の望まぬことだとしても、どうしようもない。それは何回も、自分に言い聞かせたはずだろ。
(今まで、辛かったなぁ)
そして星宮の体から力が抜けた。すべてを諦めた瞬間だった。
同時に、ベッド上に置いてあった星宮のスマホが振動する。
「――ったく、しらけるな」
鳴り止まない通知が時間を稼いでくれるが、すべてを諦めた星宮にとっては最早ノイズでしかない。代わりに北条が星宮のスマホを掴み、何の通知かを確認する。そしてニヤリと口角を上げた。
「喜べよ星宮。お前の元カレから通話がかかってきてるぞ」
「え?」
その言葉に、星宮は再び現実に引き戻された。北条がこちらに見せつけてくるスマホの画面には、確かに庵の名前がある。
「これはこれで面白いな。――星宮、最後の情けだ。五分だけ通話を許してやるよ」




