◆第147話◆ 『答え』
庵が通話をかけるよりも、時は少し遡る。
「――んん」
眠たい目を擦り、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。これでも星宮は朝に強い方なのだが、今日は目覚めがとても辛かった。遅れて、何故か体が言葉では言い表せない不快感に包まれていることに気がつく。視線を落とせば、星宮はまだ昨日の私服のままだった。
そこまでして、ようやくすべてを思い出す。
「おはよう星宮。ぐっすりだったな」
「あっ!」
「安心しろよ。俺はお前の寝顔を見てただけで、まだ指一本触れてないぜ」
星宮の勉強机の椅子に、背面を抱きしめながら後ろ向き座る男が居た。その男――北条は、星宮をジーッと見つめている。あまりの恐怖に、星宮は声が出なかった。
「あ、ぁっ!」
自分の部屋に、男が居るという恐怖。それも二人きり。星宮は咄嗟の判断で、ベッドから離れ、自室から出ようとする。
「ぅっ」
しかし、急に体全体に激痛が走って動けなくなり、ベッドから降りた瞬間にコケた。思い返してみれば、昨日あれだけ北条にいたぶられたのだ。少し寝ただけでその傷が癒えているわけがないだろう。
「おいおい。寝起き早々元気だなぁ。どこ行くつもりなんだよ〜星宮」
「はぁっ、はぁっ」
椅子に座ったままキャスターを転がして近づいてくる北条。逃げたくても、体が言うことを聞いてくれなくて逃げれそうにない。あまりのどうしようもなさに恐怖して、星宮の呼吸がどんどん乱れていく。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
怖い。怖い。怖い。
後ろで椅子が軋む音が怖い。顔を上げれば北条の顔が有りそうで怖い。早く逃げなきゃ、取り返しのつかないことになりそうで怖い。でも、どうしようもなくて怖い。
「......っ」
体が動いてはいけないと警鐘を鳴らしているけれど、やっぱりこのままではどのみちだ。呼吸は未だ荒げたまま、体に無理を言って、壁を支えにゆっくりと立ち上がる。冷や汗で手が滑りそうだったけれど、なんとか立ち上がれた。
「――まぁそんな俺から逃げんなよ」
「っ」
背後、おぞましい気配を視認せずとも察する。その瞬間、星宮は北条に腕を掴まれていた。
「いやぁっ、触らないでくださいっ!」
「おお、超元気じゃん」
北条が強引に星宮の腕を引っ張る。体の向きを変えられた星宮は、北条と視線がぶつかった。見たくなかった顔を見て、星宮は目を見開き、悲鳴を上げる。
「俺を見てそんな泣くなよ。せっかく二人きりなんだぜ。もっとムード良くいこう」
「いやっ、いやっ、いやぁっ!」
「ったく、いやいやうるせぇなぁ」
ふと、北条の表情が凍る。それに気づいた瞬間、星宮の背筋も凍った。次の瞬間、北条の大きな手が星宮の顔面に迫り、口元を覆っていた。
「んッ」
「一旦黙れ。俺はお前が熟睡してるのを数時間もずっと待ってやってたんだ。だから俺今超イラツイてんの。こっちがどれだけ暇してたと思ってる」
「――」
「お前を眠らせたのは、俺なりの最後の優しさだ。お前が寝ている間に指一本触れてないってのは神にも誓える。――んで、そこまでしてやったってのにお前のその態度はなんなんだよ。超イラつくんだけど? あぁ?」
そこまで言って、北条は星宮から手を離した。パニック状態で話が半分も入ってこなかった星宮だが、これ以上抵抗してはいけないということだけは伝わり、その場にヘロヘロと体勢を崩す。その様子を見て、北条は満足そうに笑みを浮かべた。
「あぁ。それでいい」
そう言うと、北条は再び椅子に座り直して、星宮の前まで近づいた。それを、恐る恐る見上げる。
「......あなたは、何なんですか」
「ん?」
掠れた声で、星宮は北条に問いかける。この質問に別に時間稼ぎの意図はない。ずっと知りたかった、すべての謎の話。星宮の不幸の、元凶にしか分からない、すべての始まりについてだ。
「なんで、私をここまで執拗に、追い詰めるんですかっ!」
「ほうほう」
「天馬くんも、前島さんも、秋ちゃんも、朝比奈さんも、みんな巻き込んで、何がっ、何がしたいんですかっ!」
「――」
「あなたは、本当に......何なんですか」
最初は大きな声を出せたけど、だんだんと恐怖で萎んでいく。そして寝起きなので、少し変な声が出た。そんなこと別にどうでもいいが。
「何なんですか、か」
星宮の質問に、北条は真顔で何かを受け止めていた。その表情に怒りも悲しみも含まれていない。だが、そこには今まで北条が誰にも見せたことのないような深い感情が溢れているようにも見えた。
「......はは。あー、最後の最後まで気づいてくれないんだな」
北条は笑いながら天井を見上げ、両目を手で覆う。口角は上がり、笑っているように見えるが、星宮にはとても心から笑ってるようには見えなかった。自嘲という表現が一番適切かもしれない。
そして星宮は今北条が放った言葉の意味が理解できなかった。おそらく星宮に向けて言っているのだろうが、何の見当もつかない。
「まぁでも、今更気づいたところで既に手遅れだ。こうなったもんは仕方ない」
何やら勝手に自己解決をされ、星宮は更に訳が分からなくなる。そんなチンプンカンプンな星宮を置いてきぼりに、北条は椅子からゆっくりと立ち上がった。星宮に背を向け、クローゼットがあるところまで近づき出す。まさか下着を漁りだす気ではないだろう。
「――教えてやるよ星宮。答え合わせの時間だ」
「あっ、それっ」
北条はクローゼットの上に置かれていた、一つの額縁――星宮が幼稚園生の頃の集合写真を手に取った。以前、秋が星宮の家に遊びに来たときに、彼女も反応していた物だ。北条はそれを壊すでも投げ捨てるでもなく、感慨深そうにジッと見つめ、長い吐息を溢した。
「......懐かしいな」
「え?」
ポツリと溢れた北条の言葉に、星宮は素の反応が出てしまう。それは普通に北条の発言が意味不明だったからだ。何せ、その集合写真には”北条康弘”は存在しない。同じ幼稚園じゃないのだから、当たり前の話だ。
北条の狙いが分からず、星宮の不安が増大していく。突然、額縁をこちらに投げ出してくるんじゃないかという恐怖の方が、圧倒的に北条の発言よりも気がかりだった。
「触らないでくださいっ。それは、私の思い出の写真なんです」
「思い出、ねぇ」
北条の声色が数トーン落ちている。何か北条の気に障るようなことを言っただろうか。星宮は恐怖に、またごくりと息を飲んだ。
「なぁ星宮、幼稚園生活は楽しかったか?」
「え?」
「幼稚園生活だよ幼稚園生活。楽しかったか?」
不意に聞かれた謎の質問。そんなことを聞いて何か意味があるのだろうか。
「......そんな昔の話、よく覚えてないです。でも、つまらなくはなかった、と」
「へぇーあっそう」
かなり抽象的な解答をしたが、北条はとくにそれを咎めることはなく、意味深に相槌を打っていた。何故北条が星宮の幼稚園のときのことを気にするのかやはり意味が分からない。その話が何か、北条が星宮を追い詰めるようになった理由に何か関係するのだろうか。
「――俺は今でも鮮明に覚えてるぜ。幼稚園の頃の自分をな」
「は、はぁ」
次は自分が幼稚園生だった頃の話をされ、星宮も反応に困る。”鮮明に覚えている”だから何だといった感じだが、もちろん思っても口には出さない。
「俺はお前と違って、幼稚園が楽しいと思ったことは一度もない。幼稚園が地獄の日々と言っても過言ではなかったな」
「......」
「普通は幼稚園のときの記憶なんか、デカくなりゃ赤ん坊の頃の記憶くらい曖昧になるもんだ。でも、俺は鮮明に覚えてる。あの屈辱の日々は、一度たりとも忘れたことはないぜ」
空いた拳を握りしめながら、感情的に過去を語りだす。幼稚園時代に、それほどトラウマになることがあったのだろうか。あの北条が、といった感想をどうしても抱いてしまうが、語っている最中の彼の瞳は本気だった。
「――なぁ星宮。お前、今までの人生で人を傷つけたことはあるか?」
「それを聞いて、何になるんですか」
「いいから答えろよ」
再びの問いかけ。その真意は、やはり分からない。星宮は冷静に思考を巡らせ、分からないながらも最適な答えを探し出す。
「......それは、あると思います。逆に人を傷つけたことのない人間なんて、居ないんじゃないですか」
「あぁそうだな。お前の言うとおりだ星宮」
「だから、何なんですか」
「......」
北条の納得のいく答えを出せたようで一安心する星宮。意外にも優しい手際で額縁を元の位置に戻した北条は、ゆっくりと座り込む星宮に視線を戻した。
「俺はお前を傷つけてきた。それも、俺の人生を賭けてだ」
「なんで――」
「なんでだと思う?」
北条が距離を詰めて、真近で星宮の顔を覗いてきた。恐怖で心臓がおかしくなるが、なんとか冷静を装う。時間経過もあってか、だいぶ落ち着きを取り戻せてきた。今まで何度も絶望を経験しているので、皮肉にも冷静になるまでが早くなってきた気がする。
それはそうと、再び北条の質問だ。これで三度目になるが、どれも関連性が無さそうに見える。
「......それをさっきから私が聞いてるんですけど」
恐る恐る言い返すと、北条の顔が分かりやすく曇った。当てずっぽうでも答えるべきだったのだろうか。星宮は数秒前の自分の選択に後悔をする。
だが、当てずっぽうで答えようとも結果は変わっていなかった。
「――ここまで言っても、お前は思い出さないんだな」
冷えた視線が、星宮にぶつけられる。それがあまりにも怖くて、直ぐに視線を逸らした。息苦しい沈黙が一秒、二秒と刻まれていく。
「お前はもう”あの事”忘れたのか? それほど、お前の人生からしたら”あの事”は些細な出来事だったのか?」
「あの事?」
分からない。何のことか、欠片も想像がつかない。北条は何を試しているのだ。どういう答えを求めているのだ。分からない、分からない。
「細くて、弱虫で、体が弱い自分がうんざりだった。それをずっとバカにされて、くらべられて、理不尽な扱いを受けて、恥掻いて。ほんと、超クソな人生だったんだよ」
「――」
「みんなからしたら、俺って普通ができない奴だったから何も分からないガキには”変なやつ”ってイメージがこびりついてたんだろうな。ほんとそれが嫌で嫌で、なるべく目立たないよう生きてたかったのに、それでも地獄は去ってくれなかった。どれもこれも、あの女が全て悪いんだけどなぁ」
「――何、言って」
「ずっと、俺の体の弱さを小馬鹿にしてくるクソみたいな女が居たんだよ。俺が不必要に不名誉な注目を浴びるのも、全部あの女のせいだった。どこまでもあの女は俺を心をぶっ壊してぶっ壊して、本当、幼いながらも殺してやりたいってずっと思ってたんだよ。あいつさえ居なきゃ、俺はここまで歪まなかった」
「――――――え」
瞬間、星宮は時間が止まったかのような錯覚を覚えた。パズルの空いたピースが埋まるような感覚とは違う、覚えのない見知らぬピースが、カチッと埋まってはいけないところに埋まるような、不気味な感覚。
「――あぁ、やっと気づいたみたいだな? 星宮ぁ」
「え、え、えぇ?」
ついに星宮の中に浮かんだ、一つの可能性。もしそれが答えだとするならば、確かに大体の辻褄が合ってしまう。信じたくないが、それ以外の答えは最早思い浮かびそうにない。
「北条くん、って」
心臓の鼓動がおかしい。さっきまで逸らしていた視線が、いつの間にか北条に向いている。今自分が思いついた可能性を否定したくても、心がそれを許してくれない。
乾いた喉を動かし、核心を突く言葉を吐いてしまった。
「エメラルドくん、なんですか」
そう懐かしい言葉を使った瞬間、北条の口元が分かりやすく歪んだ。最早、それが答えだった。
「やっと久しぶりが言えるな。星宮琥珀」
誰やねんってなった方は、40話くらい前の星宮の過去編をご覧ください。




