27.中国宋代の「火箭(かせん)」、「飛火槍(ひかそう)」から「コングリーヴ・ロケット」まで
弓矢やマスケット銃等の個人携行用の中遠距離用攻撃武器を除き、それ以外の中世の幾つかの飛翔兵器を調べてみた。
その中に予想以上に寿命の長い兵器があったのでご紹介したい。
基本的な発想と初期開発は中国宋代の時代を起源とする兵器で、やがて、中国からイスラム圏ヘと伝わりインドで発達している。更に、インドのスルタンとの戦闘によって英国の東インド会社が戦利品として入手、英国で改良されてナポレオン戦争や米英戦争で使用された長い歴史のある飛翔兵器ある。
古代での飛翔兵器といえば、岩石や大型の矢を発射する古代ローマ帝国の軍団が用いた鉄製の強力な石弩「カタバルト」や攻城用の大型弩砲「バリスタ」が直ぐ思い浮かぶ。
「投石機」については、日本では馴染みが薄く、特に大型の、平衡錘投石機「トレビュシェット」に関して十分な知識を持っている日本人は少ない。「トレビュシェット」はイスラム圏を中心に発達し、ヨーロッパ諸国でも中国でも使用されている。中国で初めて実戦で用いられたのが「元」による南宋の城郭都市「襄陽」の攻城戦であった。
しかし、本稿でご紹介したいのは、投石機「トレビュシェット」では無く、「宋代」に発明されたと思われる火薬を推進薬とする飛翔兵器の「火箭」、「火槍」と呼ばれる初歩的な「ロケット」についてである。
簡単に表現すると、一般的な矢に推進用の火薬の筒を取り付けて点火して敵陣に発射したのが「火箭」であり、槍に同様の推進薬を取り付けて飛ばして敵への破壊力を倍加させたのが「火槍」である。
古代ローマ軍団兵士の有力な武器の一つに投げ槍「ピルム」があったが、ピルムの有効射程距離は20m弱だったと推測されている。その点、火薬の推進力によって強化された中国の「火箭」や「火槍」の有効射程や最大射程距離は、ピルムのそれを遙かに上回る驚異的な距離であった。
(宋から元へ、「飛火槍」の登場)
古代中国で火薬が発明されてから、ある程度の時間が経過した「五代十国」の時代に最初の「火槍」が登場している。最初の火槍の実態は、判然としていないが、どうも竹の先端付近に火薬の入った筒を付けて、戦闘時に点火、火炎を敵に向け放射する一種の火炎放射器だったと考えられている。当時の火薬の性能は開発途上のため貧弱で火炎の放射距離も短く、それほど有効な武器では無かった可能性が高い。
しかし、五代十国に続く「宋」の時代、火薬自体も火薬を応用した各種兵器も多彩に変化している。発明された当時、爆竹程度の音で敵を驚かす程度の効果しか無かった火薬の性能も徐々に向上して、各種用途向けの調合方法の開発が進んだ。
まず、火薬の効果で中国人が着目したのは、大きな爆発音と激しい炎の噴射と破裂による容器の飛散効果であった。後年の「文永弘安の役」で、我国の鎌倉武士達が元軍の最新鋭兵器「鉄炮」に苦しめられたことは、良く知られているし、鷹島周辺の海底から今日でも投擲型の丸い鉄炮が見つかっている投擲兵器としての応用である。
元寇時の「鉄炮」が、この三つの特徴を併せ持っていた状況は、「竹崎季長絵詞」が生き生きと伝えてくれる。
宋代になると「火槍」も大きく進歩している。前代の火炎放射器的な機能に加えて、マスケット銃の原型の一つとなった弾丸を発射する「突火槍」が出現したのである。そして、第三の「火槍」として、槍の先に付けた火薬の入った筒に点火して、火薬の推進力によって槍が敵に向かって空中を飛翔する火槍、「飛火槍」が新たに登場しているし、多分同じ頃発明されただろうと推測される、より小型の「火箭」も開発されている。
「飛火槍」と違って、一本での敵を殲滅する効果が低い「火箭」の使用に際して、宋はロケット火矢の多連装発射装置である「多発火箭」を開発して、建国当時、発達途上の「火箭」を南唐の攻略戦に使用している。後に、「火箭」は宋の軍船に搭載されて宋水軍の主要装備の一つとなった。
当時の木造軍船は火攻めに弱い関係から、「多発火箭」による敵船への攻撃による放火効果の大きさを宋の水軍は認識していたと思われる。逆に考えると陸戦での多発火箭の効果は、それ程でも無かったのかも知れない。(笑い)
戦場で雨のように飛んでくる無数の矢は恐ろしいものだが、それ以上に長い槍が多量に飛来する状況は兵士にとって矢以上の恐怖感を与えるのに十分だった。矢であれば丈夫な盾で防ぐすべもあるが、槍、それも火薬を噴射して飛翔する槍のスピードを防ぐ十分な盾など存在しなかったのでは無いかと、勝手に思ったりしてしまう。
しかし、久方ぶりの中国人によって成立した国家「宋」の政治は、科挙によって選ばれた士大夫が活躍する「文治政治」だった。
馬にも乗れない軟弱な儒教信奉層を政治上層部の基盤とする「宋」の軍事力は貧弱で、建国以前から契丹の侵略により北部の「燕雲十六州」を占領されていた上、契丹及び、それに続く女真族の「金」による度重なる侵攻を受けていた。その後、度重なる外交上の失策を重ねた「北宋」は、「金」により、首都開封を包囲されて滅亡している。
華北を占領した「金」は、宋から奪った「火薬」を使った最新の軍事技術に磨きを掛けて、大モンゴルに対峙、「鉄炮」や「火槍」を含む新兵器はモンゴル軍を苦しめたと想像される。
しかしながら、最終的に長期間の攻防戦の末、金と南宋を滅ぼしたのはモンゴル族だった。金と南宋の技術者が国防のために心血を注いで開発した最新鋭の各種「火薬使用兵器」はフビライの統治する「元」の手に落ちたのである。
当時の「飛火槍」の実態は正確には分かっていないが、『世界を変えた火薬の歴史』によると約1.2mの竹の棒の先に鋼鉄製の鏃を付け槍の先端付近に推進役である火薬を入れた紙の筒を取り付けた構造で、飛翔距離も450mを超えるところまで改良された性能を持っていたらしい。
その背景には、研究熱心な中国人の技術者の長年の努力により、推進薬として専用の成分構成比の火薬が開発されていたものと思われる。
古代、火薬が発明された当時の硝石と硫黄、炭素の構成比率は、現在理解されている「黒色火薬」の最適な構成比率よりも硝石の比率が極端に少ないものだったと考えられている。その結果、爆発するというよりは、強烈な火炎を出して燃える秘薬と表現した方が適当な薬品だった。
しかし、この時代になると火槍に十分な推進力を与える為には、硝石の比率を多めにした方が好ましい傾向ある点も理解されてきているし、火薬の真ん中にくぼみを付けると燃焼が安定して飛行が安定することも、竹の後端に小さな鉄の錘を取り付けると射程が伸びることも理解していて、一応、中世的に完成した姿の「飛火槍」になっていたと考えられる。
けれども、この初期のロケット兵器、「火箭」や「飛火槍」の実用上の大きな問題点が命中精度の低さだった。残念なことに、この欠点は近代になるまで改善されなかった。
小型ロケット兵器である「火箭」の場合、中をマス目に区切った箱形の容器に収納し、一度の点火で連続して発射が可能な改良も進んでいる。火箭の連続発射シーンは、李朝の世宗などを描いた韓国歴史ドラマや中国ドラマ等で観る機会があるので、ご覧になった方も多いと思う。
これら、中国で開発された「飛火槍」や「火箭」は如何にも東洋的である。本体に使用する棒は、アジアでは入手しやすく安価な竹が主だったし、推進薬を入れる筒も造りやすい紙製であり、敵に対する方向性や射程距離を決定するガイドレールも箱にマス目に組んだ木造の収納ケースである点も如何にもアジアらしい。加えて、「火箭」が装填された箱は、輸送用として一輪車に搭載されて使用された形跡もある。
このように、世界最初の「ロケット兵器」開発の栄誉は、中国人技術者の頭上に輝くはずだったが、技術者を卑しむ中華の伝統もあって誠に残念ながら今日に開発者の名前も伝えられていない。
(元からイスラム圏へ、「火薬兵器」の伝搬)
モンゴル軍の中国全土占領により、中国が長年極秘に開発を続けてきた「火薬兵器」の全てを「元」が入手した状況は前述した通りである。
モンゴル軍は、その後、ユーラシア大陸各地への遠征、特にイスラム圏諸国との戦闘で、火薬兵器を使用しているし、南方のインドでも火槍と地雷を実戦で使用した形跡がある。
加えて、当時の世界帝国であるモンゴル帝国内での親族国相互の情報交換や交易によってユーラシア大陸西部のイスラム圏や東南アジアの国々へ「火薬兵器」が伝搬された可能性は高い。
そう考えると中国からのイスラム圏への「火薬兵器」の伝来は、西に遠く離れたヨーロッパ諸国より相当早く、1200年代中期から後期前半には伝わったと考えられる。
イスラム圏で中世に登場する火薬兵器の種類は多く、まず、投擲型爆弾が挙げられる。この種の兵器は鎌倉武士も苦しんだ「鉄炮」と同種の武器で、イスラム圏特有の陶器製の手投げ弾が既に13世紀には使用されていた。
火薬を応用した焼夷兵器も同じ頃には登場して、十字軍に従軍したフランク人を苦しめている。また、西洋の火薬兵器の主役となる大砲も遅くとも13世紀には登場しており、その後、攻城兵器としての大砲の開発がイスラム圏では進んでいく。
ヨーロッパでの大砲の使用が、1346年の「クレシーの戦い」が最初と伝えられているので、大砲の使用では、イスラム教徒が先行していたことが分かる。大砲の製造と使用は徐々にイスラム教徒間に広まり、やがて、オスマン・トルコ軍によるコンスタンティノープル攻城戦で大々的に使用される運命にあった。
その他の「火薬応用兵器」としては、中国の「飛火槍」の系譜を引く「ロケット兵器」があった。人間の身長を超える長い槍の先端近くに、推進薬を入れた筒を固縛、柄の後部には矢の羽を大きくしたような姿勢制御用の尾翼を付けた姿で14世紀の絵に描かれている。外観的には中国で発明された頃とそれ程大きな違いは感じられないので、形状的にも中国で開発された当時の形を保っていたと思われる。
イスラム圏のロケットの中でも、インドのロケットは、中国の原型に近い形状で、約1.2mの竹の棒の先端付近に鉄製の推進薬の詰まった筒を装着し、先には鉄で出来た槍状の突起が付けられていて、寸法的にも中国時代と大きな変化は無かった。
しかし、まるっきり、中国の猿まねかというと、そうでは無い証拠に、イスラム圏では推進薬の他に先端付近に手投げ弾を搭載する技術が発展している。敵陣到達時に爆発するように時差発火のための導火線に点火して発射された「飛火槍の改良型」は、その搭載する爆裂弾によって、敵兵の恐怖を倍加させる効果があった。
更に、射程距離が中国で開発された頃の倍の900m程に改良されているところを見ると、インド独自の兵器として進化していることが解る。
この兵器はイスラム圏で広く使用されたが、特にインドでは最新の「ロケット兵器」として、15世紀以降、国内のスルタンの間で盛んに使われている。
けれどもインドのロケット兵器も中国で発明された当時と同じく基本的な問題点を抱えていた。それは、命中精度の悪さだった。軽量で運搬がし易く、駱駝一頭に数基の火槍ロケットを積載可能な上、大砲に比較すると安価で好ましい武器だった反面、照準性や命中精度に関しては大砲に比べると大きく劣っていた。
しかし、インドでは、中国と同じく多量に使用することにより敵の騎兵隊や攻城戦の際の有効な攻撃手段となりうると理解されていた。インドの藩王達は、このロケットを造る技術者や運用する部隊を大切にしていた様子が覗えるので、実戦である程度の効果があったのだろう。
その理由は、大砲よりも安価な上、戦場への持ち運びも容易な割に、1km以下の近距離の使用では、大砲と同等の効果が期待できる兵器だったからであろう。
このインドのロケット兵器に多大な関心を寄せたのが、イギリス人の軍事技術者「ウィリアム・コングリーヴ(1772~1828年)」であった。
(コングリーヴ・ロケット)
イギリスの東インド会社はインドの藩王軍との戦闘によって、インド製ロケットの性能に感銘を受けた結果、戦勝後捕獲したロケットを調査研究のためイギリス本国の王立研究所に送っている。
そのインド製「ロケット兵器」に重大な関心を示して、研究に着手したのが、ウィリアム・コンクリーヴであった。
コンクリーヴが最初に開発したロケットの射程距離は650mとインドの物よりも劣っていたが、その後の研究の結果、インド製のロケットを上回る1,600~2,000mの長射程のロケットの開発に成功している。
「コングリーヴ・ロケット」は更に、実戦経験によって改善され、二度目のフランス・ヴローニュの戦闘では、射程2,800mのロケット200発をカッター型帆船18隻から、30分の短時間で発射して、街に火災を生じさせている。この戦闘結果に関する評価は英仏で分かれているが、英軍側からは一定の戦果があったと評価されるようになった。
この間、コングリーヴはロケットの改良とシステム化に尽力している。直径の異なる10種類のロケットを開発する一方、大量生産に必須の規格の制定や作業手順書の整備にも心を砕いている。
現在残っている「コングリーヴ・ロケット」の絵図を見ても、インド時代よりずっと近代的なロケットの形状をしている。太い筒の先端は円錐状に尖り、後部に取り付けた方向性と射角をガイドする為の4~5mの長い棒が無ければ、今日のロケットとそんなに外観的な違いは無い。
当時、英国はナポレオンとの戦争の真最中であり、命中精度は劣るが、軽量で運搬が容易なロケット兵器は、大砲と違い攻撃地点を適時選択出来る好ましい兵器だった。
次にコングリーヴ・ロケットが活躍したのは、1807年9月、デンマークの首都コペンハーゲンに対する英艦隊からの攻撃であった。300発のロケット攻撃により、コペンハーゲンでは、2,000人の命と聖母教会などの歴史的建築物が破壊されている。
この爆撃成果にコングリーヴは満足だったが、一般市民への攻撃は、中世騎士道精神が濃厚に残存する時代、英国を含むヨーロッパ各国の顰蹙をかっている。
この戦い以降、イギリス軍は、多くの戦闘局面で、「コングリーヴ・ロケット」を使用しているし、英軍の同盟軍であるイベリア半島の戦闘でもポルトガル、スペイン両軍が対フランス軍との戦闘で使用しているし、1813年の「ライプツィヒの戦い」でもロケットは活躍している。そして、歴史的なナポレオン最後の会戦となった「ワーテルロー」の戦場にも登場している。
ナポレオン戦争での効果が認められた「コングリーヴ・ロケット」は、英国陸軍砲兵隊への配置はもちろんのこと、英海軍でも2隻のスループ型帆船をロケット搭載艦に改造して対外戦争に用いている。その中の一隻「エレバス」は、ナポレオン戦争と同時期に発生した米英戦争のため米国東海岸に派遣された。
(コングリーヴ・ロケットの実戦)
1814年9月、「米英戦争」でコングリーヴ・ロケットが実戦に使用されている。場所はアメリカ、メリーランド州ボルティモアにある星形の要塞「フォートマクヘンリーの戦い」である。
守備側のアメリカ軍の要塞には、18ポンド、24ポンド、38ポンドの各種要塞砲が配置されており、要塞砲の射程は1.5マイル(約2.4km)だった。
一方、攻撃側の英国艦隊の艦載砲の射程は2マイル(約3.2km)と長い上に、前述の多数の「
コングリーヴ・ロケット」を搭載したスループ鑑「HMSエレバス」が砲撃に参加している。同ロケットの当時の射程距離は、1.75マイル(約2.8km)と伝えられ、英国艦隊はロケット砲を含む1,500発もの砲撃を行っている。
9月13日夜明けから開始された英国艦隊の同要塞に対する砲撃は25時間も続き、熾烈を極めたが、その割には双方の損害は戦死者も少なく軽微だった。
両者にそれ程の被害が生じなかったアメリカ側の原因は、要塞砲の射程の短さにあったし、反対に英国艦隊の問題点は、コングリーヴ・ロケットの命中精度が極めて悪かった為といわれている。この時、英国側の砲弾がアメリカ軍の弾薬庫に1発命中したが、不発だった為にアメリカ軍は幸運にも大きな被害を免れている。
ロケット兵器を使用したこの戦闘結果よりも、現在では、この戦いを謳った詩がアメリカ国内で称讃された結果、「アメリカ国歌」になった逸話の方が有名である。
因みに、詩の中には赤い炎の「ロケット」という表現も登場している。
中国で発明されたガイド用の長い柄を付けた「飛火槍」ロケットの系譜としては、「コングリーヴ・ロケット」が最後になったが、同ロケットから長い棒を取り去った形状のロケット兵器は、現代の戦場にも登場している。
第二次世界大戦で旧ソ連軍が使用した俗称「カチューシャ砲」をご存じない方も多いかも知れないが、「コングリーヴ・ロケット」の末裔に連なる近代兵器が、カチューシャ砲と考えても歴史的にはそう大きな間違いでは無いような気がする。
この第二次世界大戦中にソ連軍によって開発されたロケット砲、例えば、「「BM-13」の場合、8本のレールの上下に無誘導のロケット16発を装着して連続して発射することが出来る。主な要目は次の通り、
全 長 1,420mm
胴部の直径 132mm
最大射程 8,500m
弾頭重量 18.5 kg
BM-13型の場合、1941年6月から実戦配備され、翌月から使用されているが、野砲のような命中精度は無いが、大量投入可能な兵器で、ドイツ軍に与えた影響は大きく、ドイツ陸軍の兵士達は、「スターリンのオルガン」と呼んで恐れたという。
中国の「五代十国」の時代に登場した「火槍」が「宋代」に進化して「飛火槍」として世界最初のロケット兵器として実用化され、次に、インドで改良された同ロケットが英国人ウィリアム・コングリーヴの目にとまった結果、英国での改良やジョージ4世の支援もあって、「ナポレオン戦争」やアメリカとの戦いで使用された歴史的経過は上述した通りである。
何といっても、この種の兵器の素晴らしいところは、製造技術的に比較的容易な上、価格も安価で移動も容易な為、大量投入によって戦火を拡大しやすい点にある。一方、欠点としては、「宋」の時代以来、大砲ほどの命中精度に乏しく、小数量の使用では大きな成果を挙げにくい兵器であった。
現代でも中世中国の「飛火槍」に連なる「ロケット技術」は生きていて、多連装ロケット砲を装備している各国陸軍は多い。中でも、先の大戦でカチューシャを使用したソ連軍の後継者ロシア陸軍は、多種類の多連装ロケット砲を装備している。
今回は、未知の分野だったために、幾つかの専門書の助けを大幅にお借りしてまとめさせて頂いた。代表的な参考文献4冊を挙げて、著者及び訳者の方々に文末で失礼ながら厚く御礼申し上げて終わりとしたい。
(参考資料)
1.武器と防具 中国編 篠田浩一 新紀元社 1992年
2.イスラム技術の歴史 アフマド・Y・アルハサン、ドナルド・R・ヒル
多田博一他訳 平凡社 1999年
3.世界を変えた火薬の歴史 クライブ・ポンティング著 伊藤綺訳 原書房 2013年
4.戦争と科学者 トマス・J・クローウェル著 藤原多伽夫訳 原書房 2012年




