第9夜 マチン(5)
数日後。少しはベッドから離れて歩きまわれるようになって、半日ぐらいは起きていても大丈夫なぐらいまで回復したころ。マーガレットの夫が亡くなったということを聞いた。
黒いドレスを着せられて、葬儀に参列する。同じく黒いドレスに身を包み、青白い顔で未亡人として立っていたマーガレットは、まるで幽霊のようだった。
じっと夫の御棺を見つめ、亡くなってしまった現実を受け入れられないかのような顔をしている。周りがお悔やみの言葉を伝えても聞いているのか、いないのか。
「なんでも、毒入りの菓子を召し上げってしまったのですって」
「まあ。では、あの連続事件の被害者のお一人なのね」
「そうらしいですわ。怖いですわね」
私の後ろで噂好きの女性たちがひそひそと話している。
連続事件? 一体どういうこと?
「あの事件の犯人も、まだ捕まっていないんでしょう?」
「ええ。大人だけではなく、子供も被害者になっているとか。菓子に入れられているので、食べてしまったら終わりですもの」
「どの店の菓子に入っているのか…分からないところが怖いですわ」
お菓子に毒…。その菓子を食べて、マーガレットの夫は亡くなったということ?
マーガレットは葬儀の最初から最後まで、真っ青な顔のままで夫の死体が入った御棺をじっと見つめていた。
暗闇の中、かすかな音で目が覚める。彼の訪れを告げる音。
「やあ」
目を開ければ、彼の茶色の瞳が私の顔を覗きこんでいる。
「あなた…」
「そろそろ来ないと君が寂しがるんじゃないかと思って」
「さ、寂しくなんか…」
拗ねようとしたところで、彼の手が私の頬を撫でた。
一瞬期待しそうになるのに、彼の声は容赦をしない。
「それで? 今日の選択は? 何か面白い話を用意した? 僕に溺れる? それとも死んでみる?」
最後の選択肢は絶対にないことを、そろそろ分かっているはずなのに、彼は外さずに聞いてくる。
私は思わず小さくため息をついた。本音を言えば、彼に溺れてしまいたい。
でもそれを素直に言うのは、負けを認めたみたいで嫌だった。
「菓子に毒が入っていた事件の話は?」
「ああ。あれ」
彼がつまらなそうに答える。
「知っているの?」
「知っている」
「子供も犠牲者になっているのよ。痛ましい事件だわ」
「でも…彼女の夫も犠牲者になって、彼女は自由だ」
「え?」
暗闇の中、わずかにカーテンの隙間から届く月明かりが彼の顔を照らす。唇の両端だけを上げた笑み。冷たい視線。
「菓子に入っていた毒の名前を知っている?」
「し…知らないわ」
これ以上、聞いてはいけない気がするのに、耳を塞ぐことができない。
「毒の名前はストリキニーネ。マチンという植物から得ることができる」
静かで涼しげな声が耳に響く。
「なぜ…あなたがそんなことを知っているの…」
「さあ。何故だろうね?」
彼の目が細められて、唇の両端が上がる。でも瞳は笑っていない。
「まさか…あなた…。あなたが…」
言いかけて、思い出したのは薬の瓶。私にくれたのと同じ、綺麗な瓶をマーガレットに手渡したのは彼だった。
薬だと思った。マーガレットは身体中が傷ついていたから、きっと薬なのだと。そう思い込んでいたけれど、彼は何も言っていなかった。
ううん。私には聞こえなかっただけ。何かをマーガレットに説明していたわ。
「マーガレット…」
彼は肩をすくめた。
「君はマーガレットを助けてくれと言った。だから僕は助かる手段の一つを提供した。ただそれだけだ」
「そ、そんな…」
マーガレットは…マーガレットはどうなってしまうの?
「誰も、何も、知らない。僕ら三人が黙っていればね」
私は何という人に助けを求めたのだろう。
「相当な遺産も転がりこむし、これで彼女の父親は大喜びだろうよ」
「マーガレットの…お父様?」
「そう。娘を売った父親だ。まあ、血は繋がっていないけれどね」
「え?」
彼がにやりと嗤った。
「マーガレットの母親は君の母親の妹。今の父親とは血が繋がっていない。さあ、実の父親は誰だろうね? 君もよく知る人物だよ」
「な…なにを…」
私が知っている人なんて数少ない。
家族と身の回りの世話をしてくれる人たちぐらい。しかもマーガレットの父親になれそうな年齢の人など、そんなに多くない。
「もっとも本人は気づいていないらしいけれど。だから平然としていたんだろうけどね。あの男に嫁ぐと知ってもね」
「どういう…」
「もう言わなくてもわかるだろう? アリス。マーガレットは君の姉。異母姉妹だ」
異母…まさか。そんな。まさか…。
「君のお姉さんを助けたんだ。感謝してもらいたいね」
彼の目がさらに細められる。
「さあ、アリス。幸せな子供時代は、そろそろ終わりだよ。君が知らないだけで、世界は歪んでいるんだ」
「嘘よ。嘘だわ。そんなの」
「そう? じゃあ、そう思っていたらいいさ」
「嘘…」
身体から力が抜けた。彼の言葉は嘘だと思うのに、どこかでそれを信じてしまった自分がいる。
「やれやれ。今日のお楽しみは何も無しかな。いや。君の絶望している顔を見られたから良しとしよう」
彼の唇が私の唇に触れた。
「また来るよ」
呆然としている私の枕元から消える気配。混乱している私を残して、彼は去ってしまった。




