第9夜 マチン(4)
十時のお茶の時間も、お昼も、午後のお茶の時間も過ぎて、もうそろそろマーガレットが帰られなければならない…という時間になって、待っていた彼が現れた。
「お嬢様…本当にこちらにお通しするのですか?」
マリーが困ったように私に言う。
私も分かっているわ。寝室に男性をお呼びするなんて、本来は恥ずかしいことだもの。
けれどマーガレットの話を居間でするわけにはいかない。それに、誰も知らないけれど、彼は何度も私の寝室を訪れているから今更だった。
「ええ。マリー。これは大事な話なの。申し訳ないけれど、目を瞑って。それにお父様やお母様には言わないでね」
「はぁ…」
今一つ納得をしていない表情でマリーは彼を呼びに行ってくれた。
さわやかな微笑が、マリーが消えてドアが閉まったとたんに不機嫌な表情に変わる。
「まったく…。僕は君の便利屋じゃないんだけど」
イライラとしたものが混じった声に、思わず反射的に謝ってしまった。
「ごめんなさい」
とたんに彼はため息をつく。
「それで? 手紙は読んだ。どうしたいわけ?」
「どうしたいって…」
口ごもった私のことを綺麗に無視して、彼はくるりとマーガレットの方を向いた。
「君次第だ。今の場所から逃げ出すのか…どうするのか…」
「あなた…どなた?」
至極もっともな問いが、彼女の口から洩れる。とたんに彼は再びくるりと私の方を向き、睨んできた。
「君って人は…彼女には何も説明せずに僕を呼んだわけ?」
「え…えっと。あの…だって…」
「やれやれ。君は人の紹介もろくに出来ないわけだ」
酷い…マーガレットの前で、そんなに言わなくてもいいのに…。
再び彼の口から大きなため息が出る。
もう一度マーガレットの方へ向き直ると、彼は完全に私に背を向けた形となった。
「僕は彼女の…アリスの友人。それ以上はこの際、どうでもいい」
「あ…あの…」
マーガレットが困ったように私に視線を移してから、彼に視線を戻す。
「君が心身共に傷ついているという言葉だけで彼女に呼びつけられた。まったくいい迷惑だ。とは言え、何もしないわけにもいかないだろうから、これをもってきた」
彼女の手に渡ったのは綺麗な瓶。
「これは…一体」
マーガレットが戸惑うように彼を見た。私にくれたのと同じ瓶。あの薬の瓶。そのことに、ちりちりと私の胸が痛む。
まったく同じ瓶を私の目の前で、別な女性に渡すなんて…。
文句を言いたいけれど、彼に助けを求めたのは私なのだから、何も言えない。思わず唇をかみ締めて、じっと二人を見ているしかなかった。
「それは」
聞こえたのはそこまで。説明の殆どの間、彼の唇がマーガレットの耳に寄せられて、私には何も聞こえない。
彼の言葉にマーガレットの身体がびくりと反応して動く。まるで耳を甘噛みしているような雰囲気に、さらに胸に痛みが押し寄せる。
どうして彼は私のものではないのかしら。彼を独り占めにしたいのに。どうして…。
そこまで考えて驚いた。誰かに嫉妬するなんて。しかもいとこのマーガレットに対して嫉妬するなんて。マーガレットを助けて欲しくて彼を呼んだのに。
マーガレットの視線が瓶に落ちる。あの瓶。彼の綺麗な薬の瓶。私以外にもあの瓶を渡すとは思わなかったのに。
「あとは君次第だ」
彼はそう言うとマーガレットから離れただけではなく、私からも離れてドアのほうへと向かう。
「え? ちょっと…」
あっけに取られて声をかければ、こちらを見ずにひらひらと手を振られた。
「僕の仕事は終わり。帰るよ」
「そんな」
「じゃあね」
パタン。ドアの閉まる音。彼とほとんど会話もないままに、帰られてしまった。残ったのはマーガレットの手の中にある瓶だけ。私には何も残してくれていないのに。
「マーガレット…」
私の声にマーガレットがゆるゆると私に視線を戻す。
「帰る…わ…」
「大丈夫?」
私の問いが聞こえないかのように、マーガレットはふらふらと出ていってしまった。急に感じ始める身体の重さ。立っていられなくてベッドに座り込んだところでマリーが部屋に入ってきた。
私の様子を見ると、慌てて寝巻きに着替えさせて、有無を言わせずにベッドに横たわることを強制する。私も言われるがままに横になった。何も考えたくない。何も。
彼は女性なら誰でもいいの? 私が呼んだくせに。マーガレットを助けて欲しいと頼んだくせに。それなのに彼女に嫉妬する自分が嫌い。
それでも頭の中は彼のことばかり。どうして私には優しい言葉一つなくて、そのまま帰ってしまったの? あんな…マーガレットの耳に唇を寄せている姿なんて見たくなかった。
いろんな想いがバラバラに湧き上がる。いつしか…私は再び眠りに落ちていた。




