第7夜 囚われ人(2)
私の部屋の扉を開けたのは、神経質そうな痩せた男だった。マーガレットの夫となったかなり年上の男の人。
「これは失礼」
そう言いつつも、悪びれずに私の寝室にすたすたと入ってきて、一直線にマーガレットの傍まで来る。
「お待ちください」
後ろから執事の声がして、そして執事の後ろには少し息のあがったマリーが小走りで現れた。
「帰るんだ」
マーガレットの細い手首を掴んで、無理やり立たせようとする。マーガレットは帰りたくないというように、私にしがみついた。
「ま、待ってください。あまりにも失礼ではありませんか? ここは私の寝室で…そこへ踏み込んで、マーガレットを無理やり連れていこうとするなんて」
思わず私が抗議の声を挙げれば、彼の視線は私へ向けられる。怖い…。まるで蛇に睨まれたみたい。何かを裏に隠しているような怖さ。深淵を覗き込んだような…。
「これは失礼いたしました。しかし夫婦の問題に口を出さないで頂きたい」
そう言うと、マーガレットを引きずっていこうとする。思わずマーガレットの反対側の手を掴んでしまった。
「待ってくださいと申し上げているんです。マーガレットは私の大事ないとこです。それをこのように連れていこうとなさるなんて…」
「言ったはずです。これは夫婦の問題です」
「い、いやです。帰りたくありません」
マーガレットが嫌がって首を振る。次の瞬間、マーガレットの身体が吹っ飛んだ。ごろごろと転がって、ベッドの足にぶつかって止まる。
何が起こったか分からないまま、思わずマーガレットに駆け寄れば、左頬が真っ赤に腫れている。目の前で人が打たれるなんて初めて見た。なんということをするの。
「マーガレットっ! 大丈夫?」
マーガレットは自分の頬を手で覆いながらも泣き出してしまった。
「文句を言うんじゃない。私は君の夫だ。私の言うことには絶対に従えと言っているだろう。それとももっと酷い目にあいたいか?」
痩せた男の言葉にマーガレットが息を飲むと、諦めたような表情でのろのろと立ち上がる。行かせたくない。目の前で起こっていることは、きっと良くないことだわ。
「マーガレット。待って。行かないで」
彼女の肩を抱きしめたけれど、彼女が泣きながらも無理に微笑んだ。そして私の手をそっと外す。
「アリス。ごめんなさい。私…帰るわ…」
「待って」
私が止めるのも聞かずに、マーガレットは夫と一緒に扉を出ていってしまった。
「お嬢様…」
マリーが呆然と座り込んでいる私の傍に駆け寄ってくる。執事はマーガレットたちと一緒に玄関へと向かったようだ。
「酷いわ…。あれが結婚なの? 夫だからって…何をしてもいいの?」
「お嬢様…」
表だって何かを言うことは憚られたのだろう。マリーは否定も肯定もせず、私が文句を言うのを黙って聞いていた。
真夜中。辺りは寝静まっているというのに、私はマーガレットのことが思い出されて眠れなかった。
カタン。
微かな音がして、部屋の空気が動く。暗闇の中で目を凝らせば、ベッドサイドに立つ人影。
「やあ」
男性の涼しげな声。
「あなた…」
「少しは元気になったかい?」
優しい言葉とは裏腹に、冷たい視線。嬉しいはずの彼の訪れも、今日は気持ちが澱んでしまって素直に喜べない。
ベッドがやや沈んで、彼が腰掛けたのだと分かる。彼の手が私の頬をそっと撫でた。
「血の気は大分戻ったようだね」
「そうね…」
ぼんやりと返事をすれば、顔がぐっと近づけられて、目の前の眉が顰められた。
「どうしたの? まだ身体が辛い?」
「いいえ。そうじゃないの」
彼の手が頬から首筋にと移っていくのを、私は身じろぎもせずに受け入れていた。その手が胸元へと下がっていく。鎖骨を撫でたところでぴたりと止まった。
「今日は抵抗をしないんだね」
「そんな気分じゃないの」
彼が再び眉を顰めたのが至近距離で見える。
「人形のような君を相手にしても面白くないんだけど?」
彼の手がゆっくりと私の乳房で遊び始める。そっと優しい手つきで、押して撫でていく。壊れ物を扱うように私に触れる彼。次の瞬間に思い出されるのはマーガレットのこと。
私を殺すと言うショーンですら、こんなに優しいのに…。あの男の人は何故あんな風にマーガレットをぶったりできるの? 何もしていない彼女を。
結婚相手のはずよ。神様の前で生涯を共にすることを誓ったはずなのに。マーガレットは…無事なのかしら?
唇が温かくなる。彼の唇が重なって、舌が入ってくる。私の舌はされるがままになっていた。こうやって彼が来てくれて嬉しいはずなのに…。不意に唇が離れていく。
「本当にどうしたわけ?」
彼の身体が離れて、ぬくもりが消えていく。
「あ」
ようやく私は彼を見た。感情の読めない瞳が私を見つめている。
「心配なの」
「何が?」
「無事なのかしら」
「誰が?」
そこまで無意識で答えて、そして気づいた。
彼にマーガレットのことを話してもいいものかしら?
じっと不機嫌そうに私を見ている茶色の瞳。
「マーガレットが心配なの」
「マーガレット?」
「私のいとこの」
そう言った瞬間に、彼の唇の両端が持ち上がった。
「君は自分の心配よりもいとこ殿の心配かい」
「私の心配?」
「言ったよね? 楽しめなくなったら僕は君を殺すって」
「あなたは私を殺さないわ」
それは殆ど条件反射。言葉を終わらないうちに突然息が出来なくなった。片手が首にかけられていて…呼吸が苦しくなる。
「ずいぶん暢気じゃないか」
「かはっ」
息が吸えない。
「君なんて片手で殺せる」
その言葉を聞いたとたんに、何故だろう。思わず笑ってしまった。とたんに首から手が離れていって、肺に空気が入ってくる。
「なぜ笑う。自分の状況が分かっているわけ?」
ああ。何故だろう。殺すにしても彼は私を苦しめない。それは確信。彼に殺されるときには、きっと苦しみは刹那。それを甘美に感じた自分がいて、おかしくて笑ってしまった。
彼が怪訝な顔で見ている。どうにかしたいのに、私の頭は混乱していた。マーガレットのこと。彼のこと。自分の気持ち。何がなんだか分からない。
「マーガレットが心配なの」
結局、私は同じ言葉を繰り返した。




