第五話
私とフランデルト様が劇場に足を踏み入れると、すぐに劇場支配人が現れて私たちを客席の方へ行くよう案内してくれた。
この劇場支配人さんもあからさまな人で、私たちの顔を見るなり、双方の家の出資金に感謝を述べ始めた。この人はいつもお金の話ばかりしているように思う。
舞台ではこれから始まる通し稽古のため、照明や音響についての確認がされている。
ミリアは既にその場にいて、私たちに気がつくとちょっとだけこちらに手を振ってくれた。
私はガラガラの席を見渡し、とある見知った顔を見つけて少し眉をひそめた。
これだけ席が空いているというのに、わざわざ後方の座席に座った老紳士。
舞台の方を見つめながら『全てが不本意だ』と言わんばかりのしかめっ面をしている。
そんな顔をするくらいならば舞台稽古など見に来なければいいのに。でも、彼にとってはそれも仕事のうちなのだ。
ロナルド・ベレ。
彼は王都劇団組合の組合員であり、同時に名の知れた劇批評家でもある。その批評は的確で、以前は私も彼の批評を読むのがとても楽しみだった。でも残念ながら、最近は少し偏った記事が多いように思う。
彼が舞台稽古を見ているのは、組合員としての仕事の一環であるはずだ。王都劇団組合は、王都に数ある劇団において、構成員達の最低限の健康と生活、舞台の上での安全を守るための組織である。
そんな立派な仕事をしながらも、一言で彼を紹介するなら、お説教好きですごく頑固ないじわるじじ――失敬、いじわるなお爺さんといったところか。
『今や王都でも有名なミリア・ガラントが舞台の上で事故にでも遭えば組合の名折れ。人ならぬ身で面倒な仕事を増やしてくれるものだが、仕方がない』というのが、ロナルド・ベレご当人の談である。
その言い方が嫌味っぽくてとても頭にきたので、心の平穏を保つため、私はこの時の台詞を脳内変換して思い起こすことにしている。
『フ、フン。あんたのことなんか全然心配してないんだからね! でも、舞台の上で事故が起こったらそれは組合にとってはマイナスで……だからいちおう、時々は確認に来てあげる! でも、それだけなんだからね!』
よし。
そんな私の、口論などせず穏便にやり過ごそうという努力を知らないロナルド氏は、氏から遠い席を選んで座った私たちの元までわざわざやって来た。
「こんにちはお嬢さん。熱心なことだ」
彼は私のことを単に『お嬢さん』と呼ぶ。私は彼に家名を名乗ってはいない。
私が彼の姓名を知っていて、こちらは名前しか教えていないのはアンフェアだろう。でも、公爵家の威光をかさに生意気な口を利く小娘と思われるのは嫌だし、それを理由に議論の勝ちを譲られるようなのはもっと嫌だ。
ちなみに。私とフランデルト様が二人でいるにもかかわらず、彼はわざわざ私だけに話しかけてくる。これは、初対面の時の私の態度が気に食わなかったからに他ならない。つまり、私と彼とはほとんど出会い頭に口喧嘩を始めてしまったのである。
「ええ、こんにちは」と返しながら、私はすでに臨戦の心構えを済ませていた。
「できることなら毎日でも稽古と公演と、どちらも観せていただきたいくらいですね。ミリアの声は本当に素晴らしくて、どれだけ聞いても飽きません。……あなたはそうではないようですけれど」
「ふん。お嬢さんはまたわしの批評に不満のようだ」
「ミリアの新作舞台についての批評のことでしたら、あんなの、批評とは呼べないと思います。いろいろとけちをつけたあげくに、『辛気臭い舞台だった』の言葉で終えるなんて、あまりにもあんまりです。感動的な舞台でしたし、素晴らしい拍手喝采でしたのに、あなたの耳には入らなかったようですね」
「お嬢さんの審美眼こそ怪しいものだ。自分がそりゃあ熱心に拍手していたのばかり耳に入って、周りを見る余裕なんぞなかったんだろう。盲目的な支持者というのは冷静さを欠いておるからいかん」
私はムッとしたが、舞台稽古がこれから始まろうという場所でこれ以上口論を加熱させるわけにはいかなかった。
私は今のロナルド氏の言葉を脳内変換してみることにした。
『あんたなんかにミリアの良さが分かってたまるもんか! 私の方がずっとミリアのこと分かってる! 私があの子に厳しく言うのは、成長してほしいと思ってるから、なんだから!』
本人の前では素直になれないツンデレっ子(ライバルに釘をさしちゃうver)。
私の思考など知るよしもないロナルド氏は、私が口をつぐんだのをいいことに勝者の余裕――ドヤ顔である。
私はロナルド氏のことを思考から追い出し、いよいよ始まる舞台稽古に集中することにした。
これから稽古が行われるのは、今話題に登ったミリアの新作舞台劇。
なんでも、既に興行が始まっているこの舞台について、後援者の一人が口を出してきたとか。それで急遽、少しとはいえ台詞を変える必要が生じての、本番を想定した舞台稽古ということだ。
話には聞いていたけど、やっぱりあるのねそういうこと。
ともあれ、そんな練習をミリアの口利きで特別に見学させてもらうのに、この上騒ぎ立てるなんてことはできない。今日の練習には、気むずかしくて人間嫌いと噂の、この一座専属劇作家もいらっしゃるそうなのだ。まったく公に顔を出さない人なので、私も会うのは初めてである。
それらしき人物が、ミリアと話をしていた。背の高い細身の男性で、私が今いる位置からは顔はよく見えない。
「あれが劇作家だ」と、聞いてもいないのにロナルド氏が教えてくれた。
「人間嫌いで有名な男だ。この一座の仕事を受けたのも、舞台に上がるのが人間でないからだともっぱらの噂だな。……どうも若い頃に、恋人にこっぴどく振られたらしい。好みのタイプはもちろん、『ひたすら一途な愛情を相手に捧げる、純情な女性』」
ロナルド氏が、私にしか聞こえないような小さな声でそんな悪口を言う。
これまで、ロナルド氏に何を言われても『それはこの人の意見であって、私の意見ではないわ!』と毅然とした態度を取ってきたはずの私だが、この言葉には自然頬が引きつった。
ミリア演ずる舞台について、私が実際に目にしたのは初めてミリアを見た時の演目と、いま興行をうっている演目だけ。つまり二作しか知らない。
しかし、ミリアがこれまで常に『ひたすら一途な愛情を相手に捧げる、純情なヒロイン』を演じてきたのは知っていた。それが王都ではミリアの代名詞のようになっているのだ。
今まさしく稽古が始まろうとしているお話の筋も、そのような感じだった。
初めての恋にひたむきな情熱を燃やすヒロインは、相手が言葉ばかり調子のいい苦労知らずの貴族とあっても一途な思いを止められない。相手があろうことか妻子のある身とわかった後も心を捧げ、ついには浮気症の男の心臓に突き立てられるはずだった刃物をその身に受けて死んでしまうのだ。
なぜそんな男をと思いながらも、観客は彼女の一途な恋心に涙せずにはいられない。そんな舞台だった。
でもそれが、劇作家の好みの反映だったとしたら? 本当に、愛した女性に捨てられたという過去の反動でそのような女性ばかりを書いているのだとしたら?
(それはちょっと……ほんのちょっとだけ……。い、いや、でも、もしも私生活の苦しみを芸術作品として昇華しているというならば、それは芸術家としてこの上なく素晴らしいことのはずで――)
私の心を読んだように、ロナルド氏はにやりと意地悪く笑った。
「女々しいと思っただろう?」




