第一話
その手紙が私のもとに届いたのは、チャンスの神様の無情に私が意気消沈していた折の事だった。
リーリア公爵邸を経由して、学園にいる私のもとに届いた一通の手紙。
いつもどおりの経路だった。白地のごく簡素な封筒が使われるのも、変わりない。
貴族が手紙を出す時のように、蜜蝋で封を閉じるようなことはされていない。糊で簡単に止められた便箋をパリパリ音を立てて開ける。ペーパーナイフを使うよりもこちらの方が綺麗に封を開けられると分かっているのだ。
中から出てきたのは、やはり白無地の便箋。
『私のたったひとりのお友達へ』
始まりの一文も、この二年ほど一度も変わったことがない。
この手紙の主はとても健気で一途な、『人形歌劇座』の女優である。
私が初めて彼女に会ったのは、忘れもしない感動的な夜のこと。
舞台の上に彼女が、客席には私がいた。
といっても、私にとって彼女はその日の素晴らしい舞台を演じきったただ一人の主演女優。彼女にとって私は、数多いる観客の一人。出会いとも呼べない出会いだけれど、私はあの日のことをよく覚えている。
あの頃の私は、学園で女の子の友だちができなくてかなり寂しい思いをしていた。
第四学年にあがり準監督生になって、これで私もクラスメイト達に話しかける大義名分ができたとわくわくして。
でもクラスメイト達は――おそらくは私への気遣いなのだろうけれど――こちらに負担をかけまいと団結し、おかげで私の仕事は本当に少なくて。できればいろいろと頼ってほしかった私としては拍子抜けだったり寂しかったり。
いえ、さすがに問題が起こってほしいなんて不謹慎なことを考えていたわけではないけどね。個人的な相談を受けてしまうなんて事態をちょっとだけ想像して、心の準備万端整えていたとかその程度のことだけどね。寮の私室に突然の訪問者があった時のために、特別なお茶とお菓子なんか用意してたけどね。
けっきょく個人的な相談なんて誰もしてくれなかったから、ひとりお茶会を催してお茶とお菓子を消費……。いや、思い出すのはやめよう。
とにもかくにも。
準監督生になって初めての休暇を浮かない気分のまま過ごしていたところ、私は父に観劇に誘われたのだ。それも、以前からぜひ行ってみたいと思っていた『人形歌劇座』の舞台である。
王都にある様々な劇場のうち、格式や知名度で言うなら先代国王陛下が改築された王立劇場が一番。海外からのお客様も多く訪れる劇場で、公演される舞台もそれは素晴らしいものだ。そして、もしかするとそれに並ぶかもしれない知名度を持つのが『人形歌劇座』である。劇場の名前でもあり、そこに常駐する一座の名前でもある。
劇場としての正式名称は他にあるのだが、今となっては誰もその名で呼ぶことはない。
この劇場は、『命ある人間が舞台に立つことができない』劇場として有名なのだ。
私はこの劇場の歴史を、同年代の人間のうちでは一・二を争うほどに知り尽くしていると自負している。興味を持って、調べたことがあるからだ。
かつて、そこはごく普通の劇場だったという。
劇場建設の立役者は、舞台芸術に格別の熱意をもったさる貴族。その人脈でもって多くの賛同者を得、たくさんの出資者を募っての一大事業だった。
王都の中心から少し離れるとはいえ、一等地と呼べる立地で、広さも十分。格式では王立劇場に劣るものの、その分演目には自由がきく。たくさんの人気役者・歌手がここから生まれた。
事件が起こったのは、今から三十年ほど前のこと。
そのころこの劇場には、『百年に一人の、類まれなる宝石』そんな売り文句の女優がいた。
この女性が本当に、調べるだにすごい人だった。その美貌もさることながら、素晴らしい演技力、加えて当時の居並ぶ一流歌手の中でも一番の声域を武器に、難曲を軽々と歌いこなすことで有名になった。
彼女の登場がこの国における『歌劇』――つまり劇中の台詞を部分的に、もしくは全体的に歌唱によって表現するという劇――の地位を一気に押し上げたと言われるくらいである。
女優であり、歌手でもあった彼女の公演は、毎回大変な好評を博したそうだ。
王立劇場でもいくどか公演を行ったようだが、彼女はあくまでこの劇場の女優であり続けた。本当に、死の瞬間まで。
その女性は、この劇場の舞台の上で、亡くなったのだ。
練習中の出来事だったという。
死因は病死であると公表されたが、当時一世を風靡していた女優の死である。自殺説から事故死説、他殺説といった噂も根強かった。
そして問題は、この後。
彼女の死後、この劇場ではあまりに短い期間で不審な死が相次いだのだ。
何かしら不可解な事件が起こった時、我が国ではまず魔法の介在が疑われる。
場所が王都ということもあって、当時は協会の念入りな調査が行われたそうである。結果は、『魔法による事件ではない』とのこと。
しかしそれで万事解決ということにはならなかった。現代日本でも科学万能主義を基本としながら怪談話が息絶えることは無いように、この世界にも怪談話はある。
協会が言うなら魔法ではなかろう。やはり幽霊だ。そう噂された。
このような噂が立ったところで、『それがどうした』と思う人間もいるものだ。実際、自分こそがそのくだらない噂を払拭してやると奮起する者はいたそうだ。主に、この劇場でこそ経験を積み、名声を獲得した若手の役者や歌手である。
しかし不幸は続いた。
主演女優が体調を崩して公演が中止になったり、いざ舞台の幕が開くという頃にごっそりと役者が逃げてしまったり。エキストラ等の手配が出来ずに企画倒れになった舞台も多かった。
このあたりはもはや幽霊がどうのというよりも、それを恐れる人間の心ゆえの不幸という気がするが。もとより本番の出来が全ての舞台芸術では、精神状態が失敗に直結するのは当たり前だ。
この劇場での舞台失敗を期に歌手業を続けられなくなった例なども出れば、もはやここで主演を張りたいという者はいなくなった。
結果、この一連の出来事にまつわる幽霊の噂は、三十年経った今でも多くの人に信じられている。
つまり。
その劇場には幽霊がいる。
舞台を愛し、観客に愛された美しい宝石。
彼女は生あるものに嫉妬し、それらが自分の舞台に上がることを許さないのだ、と。
演者がいなくなった劇場に、少なくとも『劇場』としての存続の道はないと思われた。
しかしこの劇場はなんと、噂の存在は信じられたそのままに、今でも公演を続けながら存続しているのである。
人形しか舞台に立つことができない、『人形歌劇座』として。
ニバル・ガラントという人形師がいた。
過去形で語らねばならないのは、彼がすでに故人だからだ。
この高名な人形師が得意としたのは自動人形。しかも、魔法で動く自動人形である。
彼はいちおう貴族に連なる血筋だが、あまり裕福な家の出ではなかった。
ニバル少年は、魔法学園で魔法を学ぶうちに自分の力を知る。つまり、自らの手で作り上げた人形を自在に動かす力である。彼が人形師という職業についたのは、ごく自然な流れだったのだろう。
ニバル・ガラントは木を彫り、やすりをかけて、自らの手で人形を作りあげた。彼の手により生まれた人形たちは、元の材質にかかわらず、まったく人間と見まごうばかりの見た目を持ち得た。
魔法によって動く人形。
糸を使わない操り人形、という認識だと少し実際と異なるようだ。
人形師ニバルの得意とした魔法はどちらかと言うと、動きをプログラミングされたロボットを作り上げる魔法、と表現した方が事実に近い。
人形師ニバルの手による人形たちは『自動人形』と呼ばれ、人々の前で華麗に踊り、歌う。ただし自らの声を発するわけではなく、歌手の歌を聞かせて録音・再生のようなことをしていたそうである。
ニバル・ガラントはその魔法で様々な人形を作り上げたが、彼の名を一躍王都中に広めたのは『人形歌劇座』の存在だった。
操り人形の人形劇は、もともとこの国に広く普及していた。
それとニバルの自動人形の間で大きく異なるのは、まずその人形の大きさだ。糸による操り人形と違い、自動人形はどれだけ重く大きくとも、自重を支えて動き回ることができた。つまり、等身大の自動人形が舞台をまるきり人間のように動き回り、踊り、歌う。人形劇ならぬ人形歌劇。それが王都の一大ブームとなったのである。
なにせ人形だから、疲れない。歌や踊りの出来は体調や精神状態に左右されない。いつも練習の通りの出来である。
もちろん、一度限りの緊張感こそが舞台芸術の醍醐味であるとして、この人形歌劇を非難する人は多かったようだ。
『気味の悪い、生命の存在しない舞台』
『借り物の歌。価値のない舞台』
それらの非難の中でも、人形ならではの難易度の高い動きや歌による公演は続き、ブームが過ぎたのちもそれなりの興業成果を出してきた。
その後は十年、二十年と、王都の一観光名所としても興業を続けてきた人形歌劇座。
そこに新たな息吹を吹き込み、人形歌劇座発足当時に勝るブームを作りだしたのが、当座における最高のプリマ、ミリア・ガラントの存在である。
彼女の初舞台における売り文句はこうだ。
『人形師ニバル・ガラントの、生涯をかけた最高傑作』
『まさしく、命を吹き込まれた自動人形』
ミリア・ガラント。
私の友達で、手紙の送り主だ。




