プロローグ
キス、というのは。
いったい、どういうタイミングですれば良いものだろう。
迎賓館地下に眠っていた魔王のミイラ。もとい、ギフトによる学園を揺るがす事件も収束してしばらく経った。
臨時休校明けにはほとんどの生徒が戻って、学園は以前のにぎわいを取り戻していた。
国王陛下の御名のもと、『魔法学園における安全調査』が行われたという理由が大きい。
ギフトはあいかわらず学園の地下にいるが、結界は更に強固なものになったそうである。今回の事件はリリィというイレギュラーな存在あってのこととはいえ、二度とこんなことは遠慮願いたい。陛下の名前でもって安全が保証されたとあれば、それこそ関係者は血眼になって事件の再発を防止するはずだ。よろしくお願いします。
実のところ生徒たちには、この学園に戻らざるを得ない理由というものもある。
こちらは少々世知辛い話なのだけれど。そもそも我が国には、魔法資質所有者を学園の外で教育するようなシステムがないのである。
個々それぞれに特性を持つ魔法の制御を安全に教えるには、それなりの設備も経験も必要だ。私設の学校や家庭教師といったものに、一朝一夕でこの学園の代わりはできない。
この王立魔法学園を卒業できて始めて、私たち魔法能力所有者は、魔法協会という後ろ盾をもって社会に出ることができる。逆に言えば、卒業できなければ再度魔力は封じられ、それまで学んだことは全て無駄になってしまうのだ。
そんな学園事情とは別に、今の私には気になっていることがある。
平和になったからこそ、時間が空いたからこそ考えてしまう。
ギフトの黒い霧事件の折。
私とヴォルフの仲がちょっと進展したことについて。
悪夢が彼を蝕んでいたヴォルフの私室で、私は告白まがいのことをした。あの時はとにかく夢中だったので、『告白』という意図はいまいち希薄だったのだが。たしかに私は彼のことを好きなのだと感じたし、そう伝えた。
それをヴォルフは受け入れてくれたはずだ。
夢と現を行き来していたようなヴォルフが、もしあの出来事を夢だと思っていたら……私は途方に暮れたことだろう。でもとてもありがたいことに、ヴォルフはあの時のことをちゃんと覚えているようだ。確認した。恥ずかしかった。
ともかく私たちは今、親が決めた婚約者同士、というだけではないのだ。
恋人、と言ってしまっていいと思う。
恋人。
ヴォルフが、私の、恋人。
――そう考える度に、私は床を転げまわりたくなる。
私の思考は迷走し、『恋人になったからには呼び方を変えたほうがいいんじゃないの!?』などと悩んだりもした。
洋画でいうところの『ダーリン』『ハニー』というあれだ。『マイディア』とか『スイートハート』とか『シュガー』とかでもいい。
そういう呼びかけに前世から憧れていたのかというとそうでもなく。そんな風に呼ばれたら……とりあえずびっくりするだろうな、と。その程度の認識だった。
でもヴォルフが相手なら、ちょっとだけ試しに呼んでもらうくらいはありだ。
うん。ありありだ。
変声期を過ぎて低くなったあの素敵な声で、優し~く甘い感じにささやいていただけたら……。録音して永久保存したいくらいである。
恥ずかしいけど。でも、ちょっとくらい恥ずかしいことだってしてみたい。だって、人生初の恋人をゲットして、浮かれに浮かれている時でないとそんな思い切ったことできない気がする。そう考えると、今が人生最初で最後の『ダーリン&ハニー』チャンスかも!?
チャンスの神様には前髪しかないと言うではないか。後ろ髪は掴もうにも掴めない。今か今かとタイミングをはかり、思い切ってえいっとばかり、その前髪を鷲づかんでやるのだ!
私はなにも、『ダーリン』とか『ハニー』とかいう発音をヴォルフにさせようとしているわけではない。浮かれに浮かれた今の私でも、ヴォルフに英語が通じないということくらいは分かっている。
この世界で、それに類する言葉を言っていただければいいのだ。優しいヴォルフはきっと快諾してくれるだろう。
ダーリン、に類する言葉。それを、これだけは自慢できるというほど多い読書経験とその記憶の中から引っ張り出せばいいのである。
ダーリン、に類する言葉。
類する言葉……。
………………。
(ん?)
これというものが、浮かばない。この世界にだって恋愛小説はしっかりとあるのだけれど……。
もちろんいくつかの文学の中には、愛しい人を呼ぶ特別な単語がある。相手を花にたとえたり、宝石になぞらえたり。
でも、一般的に恋人同士がこういう呼びかけをする、という語彙がない。
(こ、言葉の壁……)
残念ながらこの世界には、ダーリン&ハニーに替わる言葉は無いようである。
強いてそれに類する言葉はというと『愛しい人』とか『かわいい人』とかいう普通の言い方になってしまう。できれば外来語が望ましいのだ。恥ずかしさを軽減してくれる気がするから。
『ダーリン、って呼んでみて』とお願いするのと、『私のことを愛しい人と呼んでみて』とお願いするのでは、わけが違うと思うのである。
前者は『おねだり』だが、後者はなんというか……ガチすぎる。これはほとんど『告白の強要』ではないか。
懊悩の末。
私は、ダーリン&ハニーチャンスについては見送ることにした。
考えてみればチャンスの神様、ものすごく思い切った髪型をしているものである。とあればその清々しいまでに潔い後姿を、私も同じ心持ちで見送ることもできるだろう。チャンスの神様さようなら。お風邪を召さないよう、せめて首のうしろなどあたたかくなさると良いかもしれません。
私は、脳内会議における次の議題を選んだ。
恋人になったからこそ考えておきたい議題。呼び名以外。恋人として進展を望めるような……。
たとえば、ファーストキスについて。
よし、これだ。
古今東西、現代日本から異世界に至るまで、広く重要と目される議題である。
言葉の壁もこれには関係ない。
個人的にはキスよりも、抱きしめてもらうとか、頭をなでてもらうとか、そういう行為のほうがときめくのだけど。でも、キスだって大事だ。特にファーストキスは、人生に一度しかないわけで。
どうせならば、ここぞというシチュエーションでお願いしたい。一生幸せな思い出として残るような、甘酸っぱい感じでぜひ!
大事なのは舞台装置だろう。ロマンチックな感じ。そう、たとえば星降る夜空の下だとか。
……いや、別に屋外がいいとかそういうことではなくて。二人きりの室内とかでもぜんぜん構わないのだけれど。その場合は少し照明が落ちて薄暗い感じ。近寄らないと相手の表情がよく見えないような……。
あとは気分の盛り上がりだ。ドラマや映画を例にあげるなら、恋に落ちた二人が危機を乗り越えた時とか。思いが通じあったまさにその瞬間とか。
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………………………………。
あれ?
そういう感じのことを、ついこの間体験した気がする。
というか、まさしく告白したその時こそがそういう状況だったのでは?
いっぱいいっぱいの私には気づけなかっただけで、不可視の『ここがファーストキスチャンス!』ゲージが、実はあの時上がりに上がっていたというのだろうか。
そ、そんな……。
でも確かに、あの時はそういうムード満点だった。シャツ一枚のヴォルフは色っぽかったし。薄暗い部屋に二人きり。……ヴォルフの体調が万全でなかったのは大いなる難点だけれど。
ヴォルフが私の首元に顔をうずめるように近づいた時、私はびっくりして声を上げてしまった。でもそれは、首だったから驚いたのであって。唇だったら驚いたりしなかった……かも、しれない。
たぶん、そういう雰囲気であることを即座に読み取った私は、青春恋愛ドラマのヒロインよろしく大人しく目を閉じてその瞬間を待った……はずである。そういう女子力が自分にもあると、心から信じたい。
そうしてあの時ファーストキスを済ませていたら。私たちって今頃、もっとラブラブカップルだったのでは?
私、もしかして絶好の機会を逃してしまった?
(やっぱり戻ってきてチャンスの神様!)
私は未練たっぷりにその後姿にむけて叫んだ。
チャンス神「I'll be back.」
乙女に限らずゲームの中で、親密になると呼び名が変わったり変えられたり。
そういうシステムがすごく好きです。




