第二十一話<リリィ視点>
そこはとても静かな場所だった。
誰の姿も見えず、誰の声も聞こえず、煩わしいことは何もない。ここには私を傷つける人はいない。
それがとてもさみしい場所であることには、彼女に「リリィ」と名前を呼ばれた時に気がついた。
冷たい場所であったことには、彼女の手を握った時に気がついた。
そこには心を動かすものが何一つなかったのだと、不安から喜びに鮮やかに移り変わる彼女の瞳を見た時に気がついた。
目が覚めた時に驚くほどの日数が経過していて、私は不安と焦燥感に襲われた。眠っていた間のことを聞いて、元凶でありながら事態の解決のために何も出来ていないことを知った。
だから、リーリア公爵様からの提案は、本当に私にとっては渡りに船だったのだ。
医務室で目が覚めて、周りの慌ただしさが一段落した頃に、その人はやってきた。
入学前に一度会ったきりの学園長の後ろからその人――リコリスのお父上――が現れた時には、自分を断罪する人がついにやってきたのだと誤解して取り乱してしまった。
けれど実際の所は、リーリア公は私に一つの提案を持ちかけにきたのだ。
公爵様はまず私に、自分は国王陛下の意を受けてここにいると前置いた。それに震え上がった私に、なだめるように優しい声で言った。
「君は学園の庇護下に置かれる生徒であり、今回の一件において、大勢では被害者だと我々は考えている。これから私が言うことは、命令ではなく提案だ。君には拒否する権利があるから、どうか落ち着いて聞いてほしい」
それでも私は恐ろしくて身体が震えた。
「……大丈夫。君の行動に間違いがなかったとは言わないが、それでも子供の過ちの尻拭いは大人の役目なんだよ」
不意に私は、目の前の人が確かにリコリスのお父様なのだと合点がいった。そうすると不思議なほど恐怖が薄れていく。私は何度も頷くと、今度は公の言葉を聞き漏らすまいと身構えた。
一つ、私がギフトを治癒魔法で回復したことは、私の自由意志ではないと把握されていること。
一つ、私がその後誰にも秘密でギフトに会っていたことについては、罪とは言えないものの事態を深刻にした原因であるとみなされていること。
そして私は学園――ひいては国と協会に危険視される状況にあるということだ。公は、この王立魔法学園が国の寄付のもと協会が運営する組織であるといった体制の説明なども交えながら私に説明をしてくれた。
危険視の内容はもちろんギフトと通じる人間であるという疑惑。そして私の魔力自体が今後もこのような事態を引き起こす可能性について。
「現状は、君にとって大きな不利益と考えていいだろう。その上で提案したい。迎賓館の地下に赴き、ギフト・アシスを再度封じる任を受けてくれないだろうか。それによって君の共謀者疑惑を払拭できるし、君自身の有用性を示すことが出来る。もちろん、助力は惜しまないよ」
それがあのギフトのことだと気がつくのに少しかかった。私は彼の家名は知らなかったし、そんなものがあるとも思い至らなかった。
「ギフトを、封じるのですか? 殺すのではなく?」
「そうだ」
表情を変えない公爵様の真意はわからないが、少なくともそれが国と学園とで出した結論なのだろう。
「でも、私にギフトを封じることなんてできるでしょうか?」
「方法はある。君が一番の適任なんだよ――」
公爵様がその方法について説明し終えるころには、私の答えは決まっていた。
「……はい。私、やります」
ギフトが次に何をしてくるかわからない以上、待つ事は危険だった。最低限の用意を済ませて私たちは地下へと向かう。
下へ。下へ。冷たく湿った匂いのする方へ。それはとてもではないが気持ちのいい行程ではない。
初めてここに訪れた時は、何かを考える余裕もなくひたすら小鳥を追いかけていた。
二度目以降は、小鳥の道案内を受けながらここを通った。ギフトは私が初めて会った、自身の魔力の強さ故に不幸な人生を送らざるを得なかった人。ある意味での『仲間』で、私は浮かれていたのだ。言い訳にしかならないが、私はやはりギフトの魔法の影響下にあったのかもしれない。深淵へ潜っていくようなこの行程を恐ろしいと思ったことはなかったし、今となっては不可解なことに学園に彼の存在を報告しなければという思考には至らなかった。
そして今、私は学園の年輩教師の案内を受けて、震える足が階段を踏み外さないように最新の注意を払いながら歩いている。
まったく思いがけないことだったが、同行者となったリーリア公が私の足元を気遣ってくれている。その前後を守るように学園の先生方が魔法灯を手に、辺りを警戒しながら進んでいた。
まさか公爵様本人が同行するとは思わず最初は焦ったが、この集団の中でも一番落ち着いた様子なのが彼だった。目から受け取る情報があまりに少ないせいで、永遠に続くかのように錯覚させられる道のりにも、彼は堪えた様子がない。
やがて一行は地下室の最奥――ギフトの元にたどり着いた。
黒い霧が立ち込めていたという場所にはその名残すらなく、扉を開けると幽鬼の如き姿のギフトがそこにいた。彼の実体は棺のような箱に入っていて、半透明のギフトはその脇に立って私を迎える。いつもの光景だった。
彼は静かな眼差しで、同行者を引き連れた私を見た。多くのことを悟ったであろうギフトはしかし、私から視線を逸らすことはない。
この真っ直ぐな眼差しに惹かれたのは、多分精神操作の魔法によるものではないと思う。彼の外見的特徴の最たるものは鮮やかな青い髪なのだろうけれど、私にとってはその闇を映したように深い緑の瞳だ。
先生方からかけてもらった防護の魔法をまとう私が近づいても、ギフトは好戦的な反応を見せはしなかった。もはやそんな力がないのでは、と私は思った。油断はできないけれど、ギフトの姿は以前よりさらに透明度が高くなって、いつ消えてもおかしくないほど希薄に感じられる。
『……なぜあいつらに加担する? そちらにあの女がいるからか?』
相変わらず喉を通さない『声』で話しかけられて、しかし私は答えなかった。
ギフトは私の気持ちを確信した様子で続ける。
『なぜ、あれほど自分と違う者に心を許す? 憎くはないのか? あの女はお前が持ち得ぬものを全て持っている。恋人や、家族を、安寧の地位を、お前が喉から手が出るほど欲しがっているものを、当たり前のように手にしている』
ギフトは的確に私の心を知り、弱さを知り、嫉妬や羨望を知る。
けれど、今の私には分かっていた。彼の操る言葉は結局彼の主観であって、必ずしも真実ではない。彼は私と似ているけれど、決定的に違うところがある。
「……あなたは差し伸べられた手を、取ってみたことがないんでしょう」
『何?』
「それがあなたと私の決定的な違いです。私はもう、その手の暖かさを知っている。だから拒否するよりも、嫉妬するよりも、それが失われてほしくないと、放さずにいたいと思うんです」
ギフトが私に与えようと差し出してくれるもの。無二の渇望。それは私がかつて確かに求めたものだ。
いつか見捨てられるのではという不安がいつも胸の奥にあった。母のように、友のように。全ては私を見捨てて遠のいていくのではないかと。
そして父によってただの一人も話す相手がいない生活を強いられる中で、強く強く私を責め苛んだ孤独感。
私は、不安を感じる間もないくらい私を求めて欲しかった。誰にも制御できないほどの強い想いで、私を飲み込んでしまって欲しかったのだ。そのためには私の自我なんて、なくしてしまってもかまわない。そう思っていた。でも。
私は胸元のペンダントを握って心を決めると、懐から一つの短剣を取り出した。
柄に飾りはなく、刀身は細くて腕の半分ほどの長さがある。それは何の変哲もない短剣で、幽霊のようなギフトに危機を招くことができそうにはない。けれど、私が魔力をみなぎらせると、一転の曇りもなかった刀身にじわりと模様が滲む。
危機感を感じたらしいギフトが私と距離を置こうとするが、そもそもこの魔道具は相手の身体に突き刺す類の物ではないのだ。私は右手で短剣を立てるように携え、魔法を発動した。
『これは……』
ギフトの体から不可視の何かが失われていく。それが不思議と手に取るように分かった。
私が使っているのは、私が唯一使える魔法、回復魔法だ。そして私が手にしているのは王家の秘宝の一つ、『逆行』の力を備えた魔具だった。
それを私に貸してくれた本人――公爵様は警戒した様子でギフトを注視している。先生方も結界を張ってギフトの最後の抵抗に備えた。
けれどギフトはただ惑うように私の目をじっと見つめて、そしておそらくは、そこに私の確固たる拒絶を見つけたのだろう。
『お前も私を否定するのか』
強い落胆と絶望のこもった言葉に、何も感じないわけではない。けれど私は心を決めていた。
「私を不実と責めても構いません。でも、私は言った筈です。――リコリスを傷つけたら、許さないって」
私は左手で再度胸元のペンダントを握った。
祖母から母に、母から私にと持ち主を変えたペンダント。幼い頃、こんな力を得る前は確かに愛されていたのだという証拠だ。
かつて私はこのペンダントを握り締めるたびに、これを私にくれた時の母の顔を想像した。優しい顔をしていたはず。記憶にある母よりも少し若くて、溌剌と明るい表情をしていたはず。私を愛情深い眼差しで見ていたはず。
でも今は、ペンダントを握り締めると別の顔が浮かぶ。
目に涙を浮かべた、彼女の顔。
このペンダントの話をした時の、リコリスの顔だ。
あの人は能力を発現させる前の私を知らず、身分も全く違う。
でも、綺麗な夢の話を信じてくれた。私のために心を砕いてくれた。私のせいで恐ろしいことに巻き込まれても、私の回復を喜んでくれた。手を差し伸べてくれた。
ギフトが彼女を傷つけようとした瞬間に、私は選んだのだ。ギフトよりも彼女を。許さないと言ったのは、けして方便ではない。
二度とギフトに、彼女を傷つけさせるわけにはいかない。
「さようなら。私はもう二度と、あなたを求めずに生きていく。そうしたいんです」
ギフトの姿が霞のように消えかける間際。
最後に彼が、私に何かを言った。別れの言葉だったのか、呪いの言葉だったのか、もしくは愛の言葉だったのかもしれない。あまりにも希薄なそれは、私に届く前に暗い暗い地下の空気に溶けて消えた。
結界の修復などは先生方に任せ、私は一足先に学園へ戻った。
闇に閉ざされた地下から星のあかり降る地上に戻って、真っ先に私の足が向かったのはリコリスの部屋だった。時間は既にかなり遅く、定められた就寝時間を過ぎた女子寮の廊下は静まり返っている。
ただし、最高学年生と監督生は就寝時間を自分で決めることができるそうだ。彼女はもう眠ってしまっただろうか。扉を軽くノックして。それで返事がなかったらとって返すつもりだった。
「……はい、どうぞ」
大きな声ではないが明瞭な返事がすぐに返ってきて、私の心臓はドクンと跳ねた。
「失礼、します」
訪問者が私だとわかると、リコリスはパアッと表情を明るくした。彼女はいつもそうだ。それがこれまで、どれだけ私を励ましてくれたことだろう。
「リリィ、体調はどう?」
「リコリスこそ、眠らなくても大丈夫ですか? もしかしてまだ……」
「違うのよ。むしろ家でたくさん眠ったせいで眠くならないの」
「……では少し、話をしても?」
「もちろんよ」
嬉しそうな彼女に促され、私はリコリスの部屋に足を踏み入れた。
この部屋に入るのは初めてだった。下級生の中には寮長である彼女の部屋にはあまりみだりに訪れてはいけないという不文律があるようで、何かの用事で彼女の部屋に入ったことのある生徒はそれを自慢気に語っていたものだ。
今日の私の行動が知れたらその生徒はどんな反応をするのだろうか。怖いような、少し楽しみなような。
リコリスの部屋は大きな本棚があるのが印象的で、それ以外の大きな家具は寮長といえど普通の生徒の部屋と変わらない。けれど壁掛け鏡の縁取りが花輪のように凝った装飾だったり、寝台の上の布団に精緻な刺繍が施されていたり。それに部屋全体が古色でまとめられて上品だ。……と、第一印象では思った。
「……リコリス、これは、誰かからの貰い物ですか?」
持ち上げてまで聞いてしまったのは、それがあまりに異彩を放っていたからである。
「ああ、それは事情があって昨年末までで学園を出て行った子がくれたの。とても器用な子なのよ。上手くできているでしょう?」
確かに、上手くはできているのかもしれない。縫い方も丁寧だし、細かく仕上げてある。でもなぜ、こんな子供っぽい――よく言えば可愛らしい柄の手刺パッチワーク・キルトをリコリスにプレゼントしようと思ったのだろう。そしてなぜ、リコリスもそれを何の疑問もない様子で枕カバーに使っているのだろう。
そう考えながら部屋をよくよく見回してみると、彼女の趣味ではないであろうものが散見する。でも多分、これを含めて彼女らしい部屋といえるのだろう。
彼女は基本的におおらかだ。色々なものを受け止めてしまう人で、だから彼女の周りには少し癖のある人間が集まるのではないだろうか。
リコリスをじっと見つめると、彼女は『どうしたの?』という風にほんの少し首をかしげてみせた。一見すると切れ長の目と目尻のほくろが色っぽい美人。その実隙がないと見せかけて実は隙だらけだったりするのも、近づいてみなければ気付けない彼女の魅力である。
肩の力が、抜けていくのを感じた。
過去のことを話すには、少し勇気がいる。でもいつかは、彼女に聞いて欲しいと思う。
まずはそう、謝罪をしなくては。彼女と彼女の婚約者を巻き込んだこと、学園を危険に晒したこと。
それから今日のことを話そう。もうギフトは封じてしまったのだと言ったら、彼女はそれは驚くだろう。リーリア公が『私はあまり役にたたなかったね』なんて笑った顔がとても気さくで優しくて、貴女にとても似ていたと言ったらリコリスはどういう反応をするだろう。
そしてできるなら、未来のことを語り合いたい。私はまだ、この先も、貴女の側にいてもいいですか。




