第十八話
ヴォルフに、君を傷つけるから側に来るなと言われて。
私の喉から『傷つけられてもいいから側にいたい』という言葉が出かかった。けれど、言えなかった。
だってヴォルフは、私が傷つかないようにずっと側で守ってくれた人だ。
私を愛してくれる家族を裏切る言葉でもある。
それでもなお、私は言うべきだったのだろうか。
そうしたら今、ヴォルフの側にいられただろうか。
リリィならどうするのか、その答えを聞きたい。彼女がそれどころではないと分かっているはずなのに、気づけば私はそればかり考えていた。だって彼女の答えこそが、一番正しい解答だから。
私の出した答えでは、きっと正解にはたどり着けない。
学園に、父がやってきた。
父と顔を合わせるのも、実は少し怖かった。父には何度も諭され、叱られ、最後には見捨てられてきた。……ああ、違う。それは、夢の中の話だった。
とても機微に敏い父に、自分が見ている悪夢を知られてしまうのではないかということも恐ろしかった。
けれど実際には、父は私にとても優しく笑いかけ、ただ一緒に家に帰ろうとだけ言った。私は嬉しくて気が緩んだのか、帰りの馬車の中でうとうとと微睡んだ。やはり、悪夢は追いかけてきたけれど。
家に帰ってからも、父は私に何も聞かなかった。
何も聞かず、けれどしょっちゅう寝台の上の私の顔を見にきた。それがなんだか、少し可笑しい。
「お父様、お仕事は大丈夫なの?」
気を使ったつもりだったが、私の言葉は父に悲しい顔をさせてしまった。
「……ごめんなさい」
「いや、君が悪いのではないよ。君に今まで何度その言葉を言わせたのだろうと思ったら、自分が情けなくなっただけだ」
「お父様は、情けなくないわ」
「いや、情けないよ。実はね、リコリス。私にはいま君が、どんな悪夢に苦しんでいるのか分からない。君にどうしてあげたらいいのか、分からないんだ」
父はどこか頼りないような顔をして、寝台の端に腰を掛けた。父ならばきっと私の心の中などお見通しだろうと思っていたが、そうでもないようだ。
「お父様でも、誰かの心がわからなくて困惑したりなさるのね……」
言ってから、ふと強い既視感に襲われた。以前にも、こんなことを父に言った気がする。
そう、ナーシサス叔父について話していた時ではなかっただろうか。
そして父は、いったいなんと答えただろうか。
記憶力が頼みのはずの私の頭は、どこか霧がかかったようにはっきりしない。けれど幸いに、父がその答えらしき言葉を続けてくれた。
「それはそうだよ。そもそも私はずっと昔から、娘が本当に欲しているものも、私のことをどう思っているかも、全然分からなかったんだ」
「え……?」
「本当に、情けない父親だ。君は小さい頃からとても大人びた子で、わがままを言う前に自制を覚えてしまった。いや、私が側にいなかったせいで、わがままを言う機会すら与えてあげられなかったのかもしれない」
「そんな……ことは……」
かつて私は、確かに父に対して心の壁のようなものを築いていたと思う。父のことが分からなくて、寂しく思ったことも、不安に思ったこともあった。父もそうだったと言うのだろうか。
とにかくこれだけは言っておかねばならないと、私は身を起こして言葉を重ねた。
「私、お父様のことを情けない父親だなんて思わないわ。ランクラーツ邸の時だって、お父様が駆けつけてくれて、ナーシサス叔父様のことをやっつけて、私のことを抱きしめてくれた。私、お父様の腕の中にいるうちは、何も恐ろしいことはないんだなって思ったわ」
父がその大きな手をゆっくりと伸ばしてきて、私はその暖かさに包まれた。
父に抱きしめられるのは、いつ以来だろう。学園に入学してしばらくは、家に帰るたびに抱きしめられていた気がする。私はその時よりもずっと大きくなっているはずだけれど、この安心感は全然変わらない。
そしてこのぬくもりは、私の中にまだほんの少しは残っていたらしい勇気に火を灯した。
「お父様。私、昔からずっと、お父様に聞きたいと思っていて、でも聞けなかったことがあるの」
「なんだい?」
「……お父様は、お母様のことを愛していた?」
私の言葉に、父はとても驚いたようだ。
「どうしてそんなことを? ……誰かに、何か言われたのかい?」
「ずっと前のことなのだけど。……ナーシサス叔父様に」
「ナーシサス?」
父の声に険がこもって、私は少し身を震わせる。
「ああ、すまない。君に怒ったわけではないよ。だが、そうか、ナーシサスが……」
私は父の声に少し不穏を感じる。
ナーシサス叔父は、シェイドが我が家に引き取られた後に叔母様とクリナムから絶縁状を叩きつけられ、領地管理の仕事もやめさせられている。私が最後に父に彼の消息を聞いた時には、ただ外国にいるとだけ聞かされた。
「……まあ、今は奴のことはどうでもいい。『お母様のことを愛していた?』か。それは少し、違うかもしれないな」
父の言葉に、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。それを押さえるように私を強く抱きしめて、父は言った。
「……今でも、愛しているんだよ」
それは、切なる声だった。
私は父のこんな声を、生まれてはじめて聞いたのだ。
「本当は君には、母親代わりの女性が必要だったのかもしれない、私は再婚すべきだったのかもしれない。でも、できなかったよ。どうしても私の妻は、彼女一人だと、そうでなければ嫌だと思ってしまうんだ」
そうだ。父は、数ある後添えの話をすべてはねのけてきた。それは、私だって側で見て知っていたはずなのだ。
「……でも、お母様は、とても嫉妬深かったって」
「情熱的な人だったよ。そういうところも好きだった」
本当?と首を傾げる私に、父は照れくさそうに笑って言葉を続けた。
「彼女の愛情は、燃え上がる炎のようだとよく思ったよ。確かに私は、少し不安に思うこともあったな。もっと穏やかで、長く続くものを彼女に求めたいと思ったことが。でも彼女は、病気の床にあっても変わらなかった。彼女は最後まで、彼女のままだった」
「……素敵な人だった?」
「ああ。素敵な人だった。素晴らしい恋だった。だからその恋は、君という最も素晴らしい結晶になった」
誇らしげな父の言葉に、私は目の前の霧が晴れていくような心地がした。
「ナーシサスが君になんと言ったかは知らない。でも、そんなものは忘れてしまっていいんだよ。他人が私たちの恋をどう見たかなど大した問題ではないよ。……そうだ。いいものを見せよう」
そう言って部屋を飛び出した父は、すぐに布にくるまれた何かを持って戻ってきた。
「これを君に見せるのは、流石に恥ずかしいんだが」
そう言ってはにかんだ父が布を取り払うと、現れたのは一枚の絵だ。
小さな赤ん坊を腕に抱いて、微笑む女性の絵。
「私が、描いたんだ」
「え?」
「この子は君だよ。生まれてすぐの頃だ」
それでは、赤ん坊を腕に抱くこの人が、私の母親だというのだろうか。
巧みとは言えないかもしれないが、やわらかなタッチで描かれた女性。確かに黒い髪。黒い瞳。でもその表情が、私の知る母の顔とはあまりに違う。
彼女の顔には、愛情があふれんばかりだ。腕に抱いた子供に頬を寄せて、それをこちらに見せびらかすような雰囲気がある。
「君のお母さんは、人見知りをする人でね。姿絵を頼んで描いてもらう時はいつもどこか固い顔で……。もっと早くこの絵を君に見せればよかった。ただ、こう……なんとも、恥ずかしくてね。でも特にこんな表情は、私にしか書けない彼女の顔なんだよ。私にしか見せなかった、彼女の……」
俯いた父は、泣くのをこらえているようだった。
そんな父を見て、絵を見て、私ははっきりと理解した。悪夢の中の母の姿は、私の勝手な妄想に過ぎなかったのだ。
おそらくはナーシサス叔父の言葉と、私の不安とを混ぜあわせた偽物。
母に申し訳ない気持ちで、私は胸がいっぱいになった。私を苦しめていたのは母でもその血でもない。私自身の不安と恐怖、それだけだったのだ。
「……お父様、愛した人を亡くすって、きっととても、辛いことよね。それでも、お母様を愛したことを後悔はしないの?」
「まさか。もっと長かったらと思うことはあっても、別のものだったらなんて、考えたくもないよ」
「そういう恋を、私も出来るかしら」
「もちろんだ。だって君は、私と彼女の子供なんだから」
父は何を当たり前のことを聞くのかと、そんな顔をしていた。
それに背を押されて、私は一つの決意を固めた。
「……お父様、私、学園に戻りたい。戻らなくちゃいけないの」
父はしばらく私の目をじっと見つめて、やがて諦めたように、私を甘やかすように笑った。
「…………そうか。では、これからちゃんと眠って、この頬に赤みがさしたらそうしなさい。君が眠っている間に、私は一つ学園に持っていくお土産を用意しておくよ」
「??」
「おやすみ、リコリス」
優しい声と柔らかい布団の誘惑に勝てず、私はあっけなく眠りについた。
夢も見ない、深い深い眠りだった。
絶対に和めない小ネタ:今話でお父様の絵心が判明しましたが、リーリア公爵家の血筋には絵を描ける人がけっこういます。ナーシサス叔父もその一人で、彼の部屋には大好きな御祖母様の姿や顔を描いて目だけ彩色された絵が何枚も何枚も何枚も(エンドレス)。
今回の話を総括しますと、『ナーシサス叔父様の言うことなんか信じるに値しない』というのは、『ヤンデレは、忘れた頃にやってくる』に並ぶこの物語の金科玉条であった、という感じでした。
ともあれ、リコリスの回復を待って反撃開始でございます。まずはヴォルフの所に特攻をば!




