第十七話<シェイド視点>
「姉上」という呼びかけに振り返ったリコリスは、俺の顔を見て少し不安そうな顔をした。俺が笑いかけると初めて、少し安らいだ様子で口元にあるかなきかの笑みを浮かべる。
普段彼女を高嶺の花扱いしている同学年の男どもになど、絶対に見せられない姿だった。
姉の体調不良を理由に女子寮の医務室に出入りしているが、男子寮に帰るたびに様子はどうだったとうるさく聞いてくる友人が引きも切らない。
俺のほうが誰かに詰め寄りたい気分だ。これは一体何事か、と。
又聞きだが、リリアム嬢が語った話によるとここ数日に起こった事の次第はこうだ。
アルトに嫌がらせをされたその日、リリアムは鳥を追いかけた。その青い影を追ううちに足は迎賓館へ、そしてその地下へ地下へと進んでいったという。鳥の目という特性を考えればまずこの時点でおかしな話だが、おそらく彼女は既に何らかの魔法にかかっていたのだろう。
この青い鳥については、狂人がほぼ無意識の下で放ち続けていた探査の魔法の一種だろうとは、その監視役を担う迎賓館の司書ヘムロック氏の言だ。
ともあれリリアムはこれを追い、地下最奥の部屋でわざとらしくも力なく墜落した鳥にありったけの力で治癒魔法をかけ、結果そこに眠る狂人を回復させることになった。以降この狂人は、リリアムの目を通して外界を見ることを始めた節がある。
この先は推測が混じるがこんなところだろう。
リリアム嬢に対してとち狂ったらしいそいつは、起きると早速行動を開始した。なにせ魔法の天才だそうで、精神魔法も風魔法もお手の物だ。アルトをおそらくは精神操作の魔法を用いて階段から落とした。アルトの取り巻き達は狂人からしてみれば現行犯である。問答無用で頭の上からガラス片を注いだ。
あげくご丁寧にも人の姉に、挨拶代わりの魔法を放って去ったというわけだ。
リコリスは――ヴォルフもだが――昼夜に関わらず悪夢に苛まれている。
不安や恐怖を凝縮した夢を、眠れば必ず見る。これはもはや立派な精神攻撃だ。協会の擁する魔法体系の知識の中にはない魔法で、対処方法が分からない。
姉は眠ることを極端に恐れる傾向にあるようだった。その結果はこのたった二日で如実に体調不良や精神不安定に現れている。
もちろん学園側も手をこまねいて見ていたわけではないが、実質有効な手を打つことはできていない。
ギフトという名の狂人が現れたその日のうちに、ヘムロック氏をはじめとする数人が迎賓館の地下へ向かったらしいが、そこで見たのはリコリスとヴォルフを襲った黒い霧。これになすすべなく引き返してきた。
この黒い霧はまた、学園内に少なからず影響を及ぼし始めたようだ。精神魔法への適性のせいか俺にはまだそれらしき兆候はないが、その分学園内の不穏な空気を肌で感じる。男子寮ではささいながらいざこざが頻発している。お坊ちゃん育ちとはいえ同じ年頃の男を集めれば喧嘩など珍しいことではない。それでも今日起こった騒ぎの数は異常だった。
リコリスやヴォルフほど顕著な症状を示すものはまだいないとはいえ、先はわからない。末は悪夢の蔓延だろうか。
とりあえず、『騒乱の元』の代名詞であるアルトはベッドにでも縛り付けておく必要があるだろう。
「シェイド、リリィは?」
寝台の上、背をクッションに支えられた体勢でリコリスが聞いてきた。
「駄目です。まだ目が覚めないそうで」
リリアムは事情を話すだけ話した後から、力尽きたように昏睡状態に陥っている。
こんなことを姉の前で言う気はないが、狂人が残したという言葉から推察するに、彼女は地下からの迎えが来るその日まで眠り続けるのではないだろうか。
「そう。でも、リリィは悪い夢を見ている様子ではないのよね?」
心配ならご自分で見に行かれては、などと言えなくさせる不安げな声である。
「大丈夫ですよ。ところで姉上。今日あなたの自宅療養の手続きをしましたから」
リコリスに一度も相談せずにしたことを告げても、彼女の反応は鈍い。どこか呆けたような様子が彼女らしくなくて、こちらは一層不安にさせられるばかりだ。
「……え?」
「その状態でここにいても、何の役にも立たないでしょう? 今はとにかく学園から離れたほうがいい」
少し厳しく諭すとその黒い瞳が潤んだ。
やめてくれ。本当に頼むからやめてくれ。
「リーリア公自ら迎えに来るそうですよ。心配していました」
「お父様が……」
泣き所を突いてみれば、心がそちらに傾いた様子でホッとする。
「シェイドも、一緒に帰る?」
「………………俺は帰りません。一応監督生ですから、こんな時くらい仕事をしますよ」
「私、寮長だわ」
「基本的に寮の運営は監督生の仕事です。寮長の仕事は上でふんぞり返ってることなんですから、いてもいなくても変わりません」
「……ヴォルフはどうするのかしら」
そこが、頭の痛いところなのだ。
姉に『ヴォルフが会ってくれないの』と泣きつかれたのは昨日の朝のことだ。
まだ起き抜けで事態を正確には把握していなかった俺は、なぜこの二人の取り次ぎなどを俺がせねばならないのかと大いに不満に思いながらも、朝っぱらから訓練場に入り浸っているらしいヴォルフのもとに姉を連れて行った。
ヴォルフには煮詰まると訓練場でひたすら身体を動かすという癖があるので、何かあったのだろうとは思ったのだ。しかし事態は想定をはるかに飛び越えて複雑だった。
まず、ヴォルフは姉を背後に従えた俺を見るなり、射殺さんばかりの凶悪な眼差しで俺を睨んだ。顔色が悪いのも相まって、ものすごい凶相だった。
何があったか知らないがリコリスの顔を見れば機嫌を直すだろうと思ったのに、姉はなぜかおかしなほど遠慮してあまりヴォルフのもとに近寄ろうとしない。
その姉の態度を見てますますヴォルフは表情を硬くし、更に姉は萎縮する。長年この二人のそばにいたが、この二人が一緒にいることで悪循環にはまっていく様子を見るのは初めてだ。逆ならともかく。
傍で見ているだけの俺でもそうなのだから、本人たちの困惑はいかばかりか。
あげくヴォルフがまるで激痛に耐えるような顔をして吐いた言葉が。
『……すまないリコリス。私のそばに来ないでくれ。今の私は多分、君を傷つける』
そんな言葉を吐いておきながら、相手を焼き焦がしそうな目でリコリスを見つめるのだ。あまりにギラギラした目をするので、状況が許せば『欲求不満なら適当に女でも抱いて来ればいい』と冗談の一つも言ってやっただろうが、まあ、言わなくて良かった。
とりあえず俺は、ヴォルフがこれ以上なにかリコリスを傷つけるような言葉を言う前にと、彼女の手を引いて踵を返した。もちろん、背中に突き刺さる視線が痛かった。
それから、リコリスはヴォルフに会いたいとは言い出さない。二人が見る悪夢の内容については本人たちが口を割らない以上推測するしかないが、リコリスの様子からすると彼女が見ているのはヴォルフに関わる夢なのだろう。
「とにかく、姉上は実家で十分に静養してきてください。その間なんとか持ちこたえて見せますから。ヴォルフはいざとなったら鈍器で頭でも思いきり殴ってやれば眠れるでしょうし。リリアム嬢には一度、王子様のキスで目が覚めないか俺が試してみましょう」
「……シェイドは大丈夫?」
不謹慎な言葉に怒るでもなく、リコリスが不安げに見上げてきた。
「あなたってば、背が伸びるのと一緒に可愛くなくなって。……追い詰められている時ほど、不謹慎な冗談がひどくなるのよね」
不意打ちのように彼女の口元に浮かんだ優しい笑みに、俺はうつむかざるを得なかった。
「……とりあえず、帰省の用意をしてください」
それだけ言って、姉を医務室から追い出す。
俺は、無闇に壁を殴りつけたい衝動に耐えた。
狂人だかミイラだか知らないが、手前勝手な色恋沙汰に姉が巻き込まれるなど冗談ではない。
リコリスを家に帰すという、この選択が正しいのかは分からない。ヴォルフが見る悪夢は、確実に彼女の夢だ。彼女が離れれば、おそらく精神状態は悪化する。
それでも、今彼女を救う手立てがない以上、姉をこの不穏な場所から一刻も早く引き離したい。父の元でなら、姉も少しは安らげるだろう。
いつか俺も悪夢に囚われるとして。
俺が見るのはきっと、あまりに無力な自分の夢だ。
和むかもしれない小ネタ:シェイドが『王子様のキス』とか言ってるのは、昔リコリスおねーちゃんに寝物語で童話を語り聞かされたから。




