第十話
穏やかな日が続いていた。
あの日――ダンス授業の日のヴォルフの思わぬ言葉は、私の目を覚まさせる効果があったように思う。あれは私に、彼の心を信じさせてくれる一言だった。
恥ずかしかったけれど。言われたことを頭が理解した瞬間、脳みそが沸騰しそうになったけれど。
その後ラストダンスに誘われてダンスフロアに出たはいいものの、頭が真っ白だった私のダンスはきっとひどいものだった。ヴォルフのリードで何とか形になっていたことを祈るしかない。
ともかく、私は前世でプレイしたゲームの展開などというものよりも、ヴォルフの真心を信じることに決めた。
だいたいリリィだって、私にこんな疑いを持たれていると分かったら失礼以前にきっと面食らうだろう。
今の私には、ちょっと前の自分の慌てぶりを笑えるくらいの余裕があるのだ。
リリィの勉強の方も軌道に乗っていた。
もちろん、まだ四年分の遅れを取り戻すには至らないのだが。授業時間中にもっと初歩的な課題をこなすという事について、ほとんどの先生が理解を示してくれたのである。中にはもっと積極的に、リリィに見合った課題を提示してくれたり、低学年の教科書を用意してくれる先生もいた。
結局のところ先生方は、勉強熱心な生徒が好きなのだろう。嬉しいことである。
魔法の授業が進む中で、リリィの魔法適性もはっきりした。
彼女は治癒魔法に強い適性を示し、その他かなり広範の魔法を使いこなす可能性がある、ということである。チートですね、分かります。
『可能性がある』というのは、今現在リリィには治癒以外の魔法が使えないからである。
実は彼女は過去に魔力の暴発による事故を起こしていて、そのトラウマのせいで治癒以外の魔法を使用することに大きな心的抵抗があるとのこと。
そのあたりを克服していけるかどうかが、今後のリリィの魔法熟達の鍵になるだろう。
ともあれその辺りは、焦っても仕方のない問題である。
私はその日、朝からウキウキと心を弾ませて昼食の時間が来るのを待っていた。
本日の昼食にかける私の意気込みは並大抵のものではない。どれくらいかというと、朝食を食べずに午前の座学の授業に臨んだくらいである。
座学の授業は比較的静かなので、そこでもし大音量でお腹が鳴ったりしたらまずいと気がついたのは教室に入ってからだった。戦々恐々としながら授業に臨んだが、幸いにして私に社会的な死は訪れなかった。本当に良かった。
私がなぜこんなに昼食を楽しみにしているかといえば、今日の昼食はリリィ、ヴォルフ、シェイドと私の四人で屋外ランチと決め込む予定だからである。
人目につかず、かつ気持ちのよさそうな場所の目星は付けてある。寮長を務めた先輩から後輩へ、口伝で伝わっている秘蔵の場所である。
場所の決定&確保は私、料理はヴォルフ、荷物運びはシェイド、リリィはお客様。そういう分担になっている。
実はヴォルフは、私よりずっと料理がうまい。私だって特に料理が下手というわけではないのだが、ヴォルフが作ると手際も味も文字通りひと味違うので、これについては敗北を認めている。
過去の一時期彼に料理を教えたのは私だが、それでヴォルフが料理を趣味にしてしまうとは思わなかった。ヴォルフは真面目な性分のせいか、こうと決めたら一直線、というところがあるのだ。寮の彼の部屋にはかなりちゃんとした料理道具が運び込まれているそうだ。もちろん寮の部屋に元から台所が設置されていたりはしない。こういうフリーダムなところは、ヴォルフもさすがいいところのお坊ちゃんである。
まあ、私たちの間に横たわる料理の腕前の差について、女の身としては少々複雑な思いにかられないでもない。しかし過去彼に起こった毒殺未遂事件のことを考えれば、外でお昼を食べようなんて誘いに彼が笑顔で乗ってくれるだけで十分喜ぶべきことである。
ちなみにシェイドは食べる専門。リリィはそのうち私に料理の腕前を披露してくれるそうなので、今から楽しみにしている。
とにかく、今日は素晴らしいお昼時間になるはずである。
急いで指定の場所へ向かおうと教室を出た所で、黄色頭に絡まれなければもっと良かった。
「あれ? ボス! ボス! 女ボス!」
絶対振り向くものかと無視しながら歩くと、アルトは諦めることなくタタタッと走り寄ってきた。もちろんその後ろには取り巻き達を引き連れている。
ぞろっとした人の塊にここまではっきり絡まれれば、流石に足を止めるしかない。
「……その呼び方をしたら返事はしないと言ってあるでしょう」
「りょーかい、リコリスりょうちょー」
珍しくアルトが素直に言葉を改めたので、私はおや、と思った。
ニコニコと機嫌良さげなアルトは姉上そっくりの薄茶色の瞳を愛嬌たっぷりに細めて、外見だけは文句なしに天使のようである。
「今日は素直なのね?」
「ぼくはいつでも素直ですー。一緒に食堂行こう!」
「悪いけど、用事があるの。また今度ね」
「また今度っていつさ」
「いつでもいいわよ。事前に言ってさえくれれば」
「でも今日会ったんだから今日でいいじゃん!」
やっかいなのに捕まったものだ。
「今日は諦めて。いいでしょう? 一人ではないんだし」
暗に取り巻き達を示唆しながら言うが、即座に反発をくらった。
「やだよ! 一緒に行ってくんなきゃ寂しくて死ぬよ!」
うさぎ気取りかこの野郎。
いくら見た目が可愛い系だからといって、こんな言動が十代も半ばの男のものであっていいのだろうか。もうちょっと男としての体面というものを気にしていただきたい。
「死なないわよ、絶・対」
私が呆れて言うと、アルトは頬を膨らませた。
ああここにヴォルフかシェイドがいれば! アルトを実力行使で押さえつけることもできるのだが、私一人では不可能だ。
目立たないように個別で指定の場所に向かおうという計画が仇になった。
もちろんこの場合、アルトの見てるだけのお目付け役は役に立たない。
「聞き分けてよアルト」
懇願調で言ってみると、アルトが少し表情を変えた。
「……ふ~~ん。大事な用があるんだ」
「そうなの! 分かってくれた?」
「まあ、いいけど。今度一緒にお昼食べてくれるなら」
「わかったわ! じゃあね、アルト」
私は喜び勇んで歩き出した。
もちろん走り出したかったのだが、人目のある校内でむやみに走るわけにはいかない。でも場所確保担当が最後に合流したのでは格好がつかない。
アルトも上級生になって自覚が出てきたのね、なんてのんきなことを考えていたのだ。
結局指定の場所には私が一番乗りだった。
しばらくしてリリィが現れて、私たちは昼食を食べる場所を一緒に整え始めた。
そんな私達を見つめる薄茶色の眼差しには、気がつくことはなかった。
リコリスさん油断する、の回ですね




