第八話
ガクガクと身体を揺さぶられて、私は眠りの縁から引っ張りあげられた。
私の感覚からすると、目を閉じて布団の海に沈み込み、意識が途絶えそうになった辺りで網にかかって引きあげられた、そんな感じである。
無遠慮に人の肩を揺さぶる手の主は、シェイドだった。
「……??」
寝起きに出会いたくない人物の襲来に驚いて、一瞬でかなりはっきりと覚醒した。
「な、何事?」
シェイドは私の眠る寝台の横に立ち、荒い息を整えていた。
変態か!とか茶化せないのは、どう見てもその様子が尋常ではないからだ。枕元のほのかな明かりに照らされた白い顔は、それこそ幽鬼のように青ざめていた。
「何かあったの?」
「ち、父が……」
「ナーシサス叔父様が?」
シェイドはかつてない必死な顔で私に訴えた。
「俺の目を、寄越せと」
シェイドのこの、あまりに突拍子もない言葉を。
しかし私は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
ゲームの中だ。
『子供の時。父にお前の目を寄越せと言われて、追いかけられた』
この件については他に説明もなく、これが冗談なのかそうでないのかユーザーにもヒロインにもよく分からないような描かれ方だった。
けれど私は、この現実ですでにその片鱗に触れていた。『リーリア公爵家の赤』に対する叔父の執着に。
「まさか……いま、叔父に追いかけられているの?」
私がかろうじてそれだけ聞くと、シェイドは幾度も頷いた。
その時。
ノックの音が部屋に響いた。
私はシェイドを布団の中に引きずり込んで、上掛けをひっぱりあげた。
枕元の魔法灯を専用の布で覆って明かりを消す。
ノックの音は、続いている。
「は、はい。誰?」
ヴォルフであって欲しいと心の底から祈りながら、私は震える両手を握り合わせた。
「リコリス。私だ。ナーシサスだよ。夜遅くにすまないが、こちらにシェイドが来なかったかい?」
「来ていないわ」
言ってから、私は後悔した。寝起きの人間が返す返事にしては不自然すぎる。どうしたの、とでも聞き返すべきだった。
「入るよ」
叔父は了承もとらずに、我が物顔で部屋に入ってきた。
部屋の中は、暗い。
私は、叔父が寝台の横まで近づいてくるのを心臓を押さえつけながら待つと、枕を掴んで叔父に投げつけた。
渾身の力で投げたそれは幸いにも顔面に当たって、慌てた叔父の体勢を崩した。私はシェイドの手をとって扉へと走る。
ヴォルフの部屋に逃げこむという選択肢も頭をよぎったが、彼の部屋は階段とは反対の方向にある。ヴォルフを巻き込むよりも、シェイドを逃がすことが先決と思われた。
「外に逃げましょう!」
私とシェイドは、階段を駆け下りて外へ続く扉に向かった。
だが大きな扉の施錠は、内側からでも子供の私達にどうこうできそうなものではなかったのだ。もちろん鍵を探す時間はない。
シェイドに外に出られそうな場所の心当たりを聞くが、彼は苦しそうに息をつきながら首を振った。私もかつてはこの館で遊びまわったとはいえ、扉以外の場所から外に出る方法を考えたことはなかった。
例えば、どこかしらの部屋に飛び込んで窓をあけて逃げるという手がある。でも今の私たちには、廊下の脇に並ぶ部屋に飛び込む勇気がなかった。例えば背の低い私達が出入りに使えない形状の窓だった場合、もしくは鍵の形状によっては、袋小路に閉じ込められる形になるのだ。
最善の策を見つけられないまま、私たちは近づいてくる足音に追い立てられるように下りてきたのとは別の階段へ走った。そして上の階へ、屋根裏部屋へ向かう。そこは、私が知る中で唯一の、このランクラーツ邸で籠城が可能な場所だ。
私たちは階段を出来る限りの速さで駆け上り、屋根裏部屋に飛び込んだ。シェイドと協力して、扉の前に辺りの物を片っ端から運んでバリケードを作る。そして、シェイドに部屋の隅にある梯子を登るように指示した。
この屋根裏部屋の構造は二層になっている。普通にドアから入る部屋が一層目。そこから簡素な梯子で登った先が二層目。
シェイドを登らせたあとに私も続いて、上からはしごを引っ張りあげれば誰も上がってこれないというわけだ。
はあはあと息を切らせていた私はその場に座り込み、更に空気の悪さに咳き込んだ。
急いで窓を開けるが風がないのであまり換気にはならず、窓の側でシェイドと二人座り込む形に落ち着いた。
「あいつ、ここまで来るでしょうか」
「……多分。相手には地の利があるもの。居場所はバレるだろうし。バリケードも適当だから、そんなに保たないと思うわ。バリケードが突破されたら、とりあえずここにあるもの何でも投げつけてやりましょう」
流石に普段物置として使われている場所だけあって、たくさん物がおいてある。例えば叔父が別に梯子を用意して登ろうとしても、邪魔をしながら時間稼ぎくらいは出来るだろう。
「一体何がどうして、こんなことになったの?」
改めて正面から見たシェイドの顔色は、それはもうひどいものだった。今気がついたが、月明かりに照らされた青白い肌には、引っかかれたような細い傷がある。昼間に私がつけた傷とは違う。
私の中のシェイドに対する警戒心は消え去ったわけではないが、さすがにこの様子が全て演技だったらもはや称賛に値するだろう。
「あなた方からあの男に引き渡されたあと、一人で部屋に閉じ込められていたんですが、夜になって、あいつが部屋に来ました。ちゃんと俺と話がしたいと言って」
やっとか、と思ったのは私だけではなかったらしい。
「何を今更と思いましたよ。俺も被った猫はほとんど剥がれかけていたし、いいかげん潮時だと思っていたので、貯めていた鬱憤を吐き出してやりました」
「例えば?」
「お前は無能だと罵ってやった。とても父親として尊敬できるような相手じゃないと。俺がお前の息子だと本気で信じているのか、お前の血を引いていれば俺だってもっと馬鹿だったはずだ。……もちろん、実際言ったのはもっと汚い言葉でしたが」
「え? あなた、叔父様とは血が繋がっていないの?」
「いいえ。残念ながら、俺は多分あの男の息子です」
つまり、お前など父親じゃないと言ってやらねば気が済まないほど鬱屈が溜まっていたということか。何となく分かる。
「それで……『目を寄越せ』?」
「ええ。目を寄越せ、そしてお前はこの家から出て行け、と。初めてあいつがまともに怒る声を聞きました」
背筋を不快な汗が伝った。汗が冷えたせいもあるだろうが、どうにも肌寒く感じる。
そしてこのタイミングで、廊下に続くドアがガタンと音を立てた。
ガタン、ガタンと、恐ろしい音が続いて響く。
「リコリス。そこにいるんだろう? 出てきなさい。私は君に怒ってはいないよ。君は何も悪いことをしていないだろう」
もちろん私は、絶対出て行くものかと押し黙った。
必死で気配を消して、息まで詰める。
しかしバリケードは私の決意ほど硬くなかった。
ガタン ガタン ガタン ガタン
ドアにほんの少しずつ押し動かされて、ドアとバリケードとの間が十センチほど開いてから後はもろい。
叔父が屋根裏部屋に足を踏み入れた。
叔父は、しばらく猫なで声を出しながら屋根裏に置かれた大きな荷物の影を探しまわっていたようだった。
「シェイド、反省しているなら、今出てくれば許してあげよう。そしてお前はリコリスと結婚して、子供を作るんだよ。赤い目をした子供だ。素晴らしい才能を持って生まれるに違いない。お祖母様、あなたの悲願を果たすのは、あれほどあなたに可愛がられたカフィルではない! 軽んじられ、疎ましがられたこの私です!」
声が興奮したように高くなって、それからふと静かになった。
「ああ、そうか。そんなところに子供だけで上がっては危ないと言っただろう」
かつて、叔父にそんなことを言われたことがあっただろうか。
むしろそういったことに細々と口を出してくるのは叔母の方で、叔父は私達がどんな遊びをしているかなど全く興味がなかったはずだ。
そうだ。叔父は昔から、私達に興味などないのだ。
クリナムさえ、叔母さえ、叔父の興味の対象ではない。
シェイドだって、本当の意味で叔父の興味をひく存在ではなかった。
上から叔父に物を投げつけてやるなどと豪語していたはずが、私は窓の側から動くことが出来なかった。私と同じく、いや私以上に怯えて身体を縮こませるシェイドは、どれだけ人をくったところがあってもまだ私よりも小さな子どもだ。
私たちは二人、四角くぽっかりと空いた穴から月光の届かない下の部屋を覗きこむ勇気はとても持てずに、ただ寄り添って震えていた。下をのぞき込んだら、そこには叔父とは全く別の姿をした化け物がいるのではないかと、本気でそう思った。
下でなにか、ガタガタと音がする。
私はいよいよ恐ろしかった。梯子など用意せずとも、大人ならば少し高い踏み台があればここに登って来れると思いついたから。
かつて幼い私やクリナムがここに逃げ込んだ時に放っておかれたのは、叔母や父の温情だったのだと気づく。
私は強く強く目をつぶって耳をふさぎ、シェイドに覆いかぶさるように身体を縮こませた。多分私は、絞るような声で誰かに助けを呼んだ。
ガン、バタンと、下で大きな音がした。
塞いだ耳にも届くような音だ。
次いで声。
「子どもたちを、お前の玩具にするな! 何より、私の娘をだ!!」
父の力強い言葉に、私の目から涙がこぼれた。
Qなぜこんな鬼ごっこ風似非ホラーになったのか
A私にもわかりません
屋根裏の構造は、アルプスの少女ハイジの山のお家っぽいって言ったら分かりやすいでしょうか




