第四話
その後、私にはシェイドと二人きりになる時間が与えられた。
こんな展開に強引に持っていったのはナーシサス叔父だ。私をシェイドの教育係にするという考えも本気のようで、シェイドにそう説明していた。私も父もそれを了承した覚えはない。
叔父の強引さは何に起因するのだろう。何かを私に期待している? それとも父の後ろ盾を期待して? 何も考えていないという可能性も捨てきれないが。
とにかく私には、この複雑な事情を抱えたいとこに質問をするチャンスが出来た。
「私のことはリコリスと呼んで欲しいわ。『様』はいらないから。あなたのことをシェイドと呼んでもいいかしら」
「はい」
「夕食はもういただいた?」
「はい。晩餐に出れなくてすみませんでした」
「そんなことは気にしなくてもいいのよ。ちなみに、何を食べたの? 晩餐の食事と同じものかしら?」
内心ドキドキしながらこの問いを発したが、シェイドはすらすらと晩餐と同じメニューを口にした。
私はホッとする。どうやら、少なくとも今は食事を抜かれたりはしていないらしい。不躾ながらもう少し率直な質問をぶつけてみることにした。
「あなたは食が細いの? 随分と痩せているようだけれど」
「いいえ。そんなことは……。でも、こちらで出される『良い食事』には慣れません」
不自然な回答ではなかった。人は大概において、幼い頃から食べつけているものを美味しいと感じるものだ。
「そう。では、食べ慣れた食事も、……お母様も、恋しいでしょうね」
母親について言及した時、彼の赤い瞳がゆらゆらと揺れたような気がした。
そしてその目は、私を――眼の前にいる、失礼な質問をしてくる女をほんの少し睨みつけた。
「恋しくとも、帰ることはできません。母は自分の意志で僕を手放したんですから」
私はやっと少し見ることの出来た彼の感情の一端に、おかしなことにホッとした。だって、こんな小さなうちから自分を完全にコントロールしてしまえるような人間相手では、とても太刀打ちできる気がしない。
「不用意なことを言って、ごめんなさい」
「……いいえ」
「明日から、少しマナーについて教えるわ。本当は男の人に聞いたほうがいいことがたくさんあるのだけど、とりあえず私にも伝えられることをね」
「はい。ありがとうございます」
シェイドはニコっと嬉しそうに笑った。
私にはこの年下のいとこの、ごく無邪気な部分がどうにも不自然に感じられる。もちろんゲームキャラクター・シェイドとのギャップのせいであり、言ってみれば私の中の先入観のせいだ。
だからこういう笑顔をするのは、逆に本意でない時かもしれないと思ってしまうのだ。
「マナーの勉強は大事よ。貴族社会で自分を守る鎧はしっかり鍛えなくちゃ。それはあなたの力になるのだから」
「…………力、ですか?」
「ええ、そう。広義の意味での力。興味が出た?」
シェイドは首を傾げただけだが、ちょっと興味を持ってくれたかも、と思う。短い時間でも教師役をするなら、教え子には学ぶ意欲を持ってほしいものだ。
「じゃあ、また明日ね」
「はい」
「おやすみなさい」
「はい」
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
このくらいの年代の男の子には少々恥ずかしいやり取りだったかもしれない。でも挨拶は大事だ。明日はそこから徹底して指導しよう。
気づけば私は、けっこう指導役にやる気を出していた。
そんなぎこちない挨拶のあとシェイドと別れて、客間へ向けて歩き出した。
小さな頃から何度も訪れている場所なので、案内は必要ない。
初めはシェイドのことを考えていた。
彼の状況や考えを知りたい。例えば叔母は本当に彼を虐待しているのか、叔父やクリナムのことをどう思っているのか。シェイドの信用を得ることが出来れば、話してくれるだろうか。それとも、信用できる大人――父に任せるべきなのか。
叔父はシェイドをかわいがって、叔母はおそらく疎んじて、悪くすれば憎んでさえいる。クリナムは、彼のことをどう思っているのだろう。
初めてその存在を知ったときは、驚いただろう。自分の父の所業を軽蔑しただろうか。怒りを感じただろうか。でも、実際にシェイドが引き取られてどう思っただろう。クリナムは優しい子だ。
私の思考は、クリナムとこの館で遊びまわった頃に飛んだ。
私は幼い頃から部屋に閉じこもって本ばかり呼んでいるような子供だったけれど、父に連れられてこの館に来たときは本など読んでいる暇はなかった。年の近い優しいいとこと遊ぶのに忙しかったからだ。
叔母の教育方針から外に出て遊ぶことを許されなかった幼い日の私とクリナムは、人形片手に家の中を隅々まで探検して遊んだ。小さな子供には、普段出入りしない納戸や物置は未知なる冒険の世界で、特に気に入っていたのは、変わった形をした屋根裏部屋だ。
私達はそこに人形を持ち込み、家に見立てたごっこ遊びをした。お菓子をほんの少しポケットに隠しては持ち寄った。あの屋根裏部屋は今もあの時のままだろうか。
私はクリナムと話をしたくなって、踵を返そうとした。
だからまさか、こんなタイミングで本人から話しかけられるなんて思いもよらなかった。
「リコリス」
「えっっ!? ……クリナム?」
私はびっくりして飛び上がりそうだった。クリナムの細い体が壁にもたれて立っていたのは、廊下の明かりと明かりのちょうど中間だ。
廊下の明かりは等間隔で、明るい部分と暗い部分の落差が激しい。自然目に見える部分にばかり集中してしまうから、これほど近づくまで相手に気が付かなかった。
「ご、ごめんなさい。考え事をしながら歩いていたから。我ながら注意力散漫だわ。どうしたの? 私を待っていてくれた?」
クリナムは、私の問いには答えなかった。
私がクリナムに近づこうとすると、彼女は数歩後ずさった。
「……クリナム?」
「リコリス。あなたに、お願いがあって、待っていたの」
やっとクリナムが答えをくれたことに私は安堵して、彼女の言葉に奮起した。
「何? なんでも言って」
私は胸を張って答えた。例えば叔父に物申して欲しいとかだったら、喜んで叔父の部屋に特攻をかけよう。
けれどクリナムの言葉は、私の予想とは違った。
「どうか、あの子に――シェイドには、あまり近寄らないで。……お願い」
俯きながら言った彼女の表情は闇に紛れて見えなかった。
「クリナム? それはどういう……」
私の疑問にかぶせるように、彼女は再度「お願い」と繰り返す。
「それは……。例えば、叔母様がシェイドに辛く当たるのを見られたくないとか、そういうこと?」
一番に思い至った可能性を口にすると、クリナムはさらに深く俯いた。
「知っているのね。母があの子に何をしているか。公爵様もご存知なの? あなた達は、この家からあの子を助け出すために来たの?」
キッと顔を上げたクリナムの表情は、私への敵意に溢れていた。私は様々なことにショックを受けて、かつ混乱した。
「いいえ……私が、そうかもしれないと思っただけ。父は多分まだ気付いていないし、この家の中で解決できることならそうすべきだと考えているはずだわ」
「そう……。良かった。リコリスお願い。母があの子に辛く当たっていると、公爵様には言わないで」
「それは……。あなたのお願いなら、叶えてあげたいけれど、でも……どうして? 父に頼めば、シェイドを救えるんじゃないかしら。叔母様にとっても、今のままがいいとは思えないわ。それに父に任せれば、むやみに叔母様を傷つけるようなことにもならないと思うの。あなた達にとって、一番いい方法を考えましょうよ」
クリナムは押し黙った。長い長い沈黙のあと、やっと口を開く。
「私ね、リコリス。初めてあの子に会った時、なんて綺麗な子なんだろうって思ったわ」
勢いの止まらない奔流のようにクリナムが話しだしたのは、叔母のことではなかった。
「でもいざ紹介されて、父があの子に、私の事を姉だと紹介した時、ついでみたいに言ったの。『クリナムもそばかすさえなければ、少しはシェイドと似たところもあったかもしれないな』って。私、恥ずかしかったわ。なんだか、あの子に合わせる顔が無いような気がして、自分から話しかけたりは絶対にできないと思った。あの子は綺麗なだけじゃなく、頭も良かった。初めはおかしな訛りがあったのに、人の発音を真似することですぐにしゃべり方もとても綺麗になった。初めて聞く単語は、多分人が発音するのを聞くまで口に出さないの。それを繰り返していくことで、訛りなんてなかったみたいに会話するのよ。すごいでしょう? あの子は、自分から私に話しかけてくれたわ。そばかすなんて大人になれば消えるから大丈夫だって、私のこと、すごく綺麗だって。でも私はやっぱり、あの子の前に出るのがいつまでも怖かった。でもね、転機が訪れたのよ。父が、かねてから欲しがっていた薔薇が手に入りそうだと、遠くまで出かけることになったの。母は、父が家を出てすぐにあの子を閉じ込めたわ。水も食事も絶対に出すなって言うの。そんなわけにはいかないと思って、夜中にこっそり水と食事を持ってあの子のところに行ったわ。その時が初めてだったの。あの子に自分から話しかけることができた。あの子には私が必要なんだって思えた。私は……」
そこまで一気に喋って、クリナムは我に返ったようだった。
夢中になって読んだ本の、ヒロインやヒーローの心情について話し合う時、クリナムは饒舌になる。今の彼女はその時と同じようにうっとりと宙を見つめていた。
けれど、彼女も気がついたのだろう。自分が口にしようとしていることがどんなことか。
(こ……これは……)
彼女の手も、青ざめた唇も、暗がりでもそうと分かるほど震えていた。けれど、彼女は言葉を止めなかった。
「リコリス、あなた本当に綺麗になったわ。それに昔から、あなたは私よりずっと頭がいい。私、どうしてもあなたに、あの子に近づいてほしくないの!」
引き絞るような声で言い捨てて、彼女は走り去った。




