第44話 ジャイルーンとサナニエル
握られた手を悠が外す。彼は一度頭をなでるとそっと離れていった。
「何か腹に入れた方がいい」とつぶやいて、部屋から出ていく。
ほど無く、スープと小さなパンの載った盆を抱えてやってきて、机に置くと、スープの暖かさを見てから悠の方を向く。
「今日1日は、寝ておけよ」
うつむいている悠の顔を見るために、顔を横にする。気づいた悠はそのまま両手と腕で顔を顔を隠してしまう。その動きが少し性急で、しまったと悠は思う。
もっと自然にできたのに。
バリュバルは、ちょっと困ったように首をかしげると、そのまま悠に顔を近づけようとする。焦ってますます身を固くする悠。
ほんの少し、耳に手が触れる。
耳元でささやかれる。
「丁度いい温度だ。熱すぎもせず、冷たくもなく」
ば、と耳に手を当てる悠。
「はははっ」
バリュバルは軽やかに身を起こしてベッドから離れると立ち去り際に一度だけ振り向いて言った。
「スープ」
パタン、と扉が閉められた後、スープとパンを口に入れ、ベッドの上でいろんなことを考えながら気づいたら再び眠りに落ちていた。
夢は、見なかった。
翌朝、悠は軋む肺に空気を取り入れるように背伸びしてベッドに起き上った。
忘れてはいない。
忘れてはいないが、忘れてしまいたい。
忘れてしまいたいが、忘れられない。
ゆっくりと部屋で身支度を整えて出てきた悠だったが、食堂がバタバタと、騒がしい。
何事かと思って侍女達の様子を見ると、洗礼式の最終にジャイルーンが気分を悪くし倒れたのだという。
大変だ。
妊娠中だから、貧血だろうか。
麦の茶に黒豆を入れた飲み物と自分で作ったドライフルーツが部屋にあったので手にしてジャイルーンの部屋へ向かう。
一度目は医師や侍女たちがてんやわんやしている様子を見て、そっと控えたが、夕方になって落ち着いたころ合いを見てもう一度訪ねる。
ジャイルーンはベッドに起き上って窓の外を見ていた。
「ちょうど退屈してたの。入って」
彼女はいつでも悠を快く迎えてくれる。
「顔色が……」
「あなたの目にはどう見える?」
顔色が悪いどころではない。もはや紙のように真っ白な顔を見て、悠は動揺する。
「とても……悪い」
そっと机の上の果物に手を伸ばそうとするジャールーンをやんわり押しとどめて悠はドライフルーツを差し出す。
「いちご、は、悪くはないけど、生の果物は水分が多いので冷える。これを……」
ありがとうと言ってドライフルーツを受け取る。
「洗礼式は、やり直しですか?」
侍女たちが言うには洗礼用の聖水に触れると気分が悪くなっただという。
最後までやり切らなかったのだろう。
「うん……うーん。あまり気は乗らないけど、彼等はやり切るまであきらめないでしょうね。ねぇ悠」
彼女はドライフルーツをつまみながら言う。
「あの水。私には合わない気がするの。触れる前からなんだかそんな気がした。あなた次の洗礼式のとき、そばにいてくれない?」
ジャイルーンの提案に戸惑いながらも悠は頷く。
「私で役に立つかはわからないけど、近くで見ておきます」
「ありがとう。あなたは外からやってきた。あなたは信頼できる。その目はあなたが持つからこそ誠実な光で輝くのね」
「……さあ。どうでしょう。なぜ私がこんな目を持っているのか。本人にもまだよくわからない状態なんですよ」
「出産が怖い。この事態は私の恐怖の現れかしら」
けほ、と一度せき込んでから言う。
脈絡もないことを話したい日のようだ。悠はゆっくり頷く。
「大仕事だから、きっと怖いんだと思います。楽しいこと、うれしい事、生まれたら何する?たくさん考えて楽しみましょう。」
「……ねえ。サナニエルを見た?どこに行ったのかしら」
「夕刻前に書庫で見かけた気がします。何か探し物をされてたような」
「……そう。あわてんぼうさんだから、何か困ったことをしてなければいいのだけど」
いうジャイルーンに、ふと悠は思う。
「仲が良いんですね。なれそめを聞いても?」
「ええもちろん!そうね。彼とは、村の精霊祭で出会ったの」
※※
ジャイルーンの語る思い出
東方のスーフィニア山岳地帯の一国、テレージアには、変わった風習があるわ。
王族から貴族から、成人する前に一度外の国に外遊の旅に出かけるというね。
私が19になったとき、母のアンナは外遊国に迷わずこの国メディナ国の、西領であるダナン領を選んだわ。
何か思い出でもあったのかしら。
母アンナはテレージアの下級貴族の出だったけれど長い間外の国で暮らしていたということで見識も広かった。話し出すと止まらない明るい性格の母だった。ものを大切にする性格で私の産着からゆりかごからすべて綺麗に取ってあって、私の出産に合わせて東方から送ってくれたときに、あまりの保存状態の良さにため息が漏れた。
そう、サナニエルね。
彼と会ったのは私の外遊先のダナン領。西方の交易と海を見てから帰るつもりだったので村に一泊したわ。ちょうど精霊祭の日。
一人一つずつ、鳥かごから鳥を放す儀式があるのだけど、彼はうっかり先に離してしまって、魔術を使って籠に戻していた。
私は「魔法使ったらダメ。先に離れてしまったのならそれが運命でしょう」
と話しかけたら彼はしばらく考えこんで、
「そうだな。結局、鳥よりいいものが寄ってきたから、私にとっては大成功ということにしておこうか」
といって魔術を解いてゆっくり空に鳥を放した。
気の利いたことを言って女を誑し込む常套手段かしら。
そう思って彼の顔をみたら、予想より優しい笑顔だったので心が弾んだ。
空と私を交互に見る彼の笑顔は、すがすがしくて朝の光の中でとっても輝いてたわ。
その笑顔がずっと私に向いていてくれることがとても幸せ。
※※
「ふふふ。サナニエル様、優しそうですもんね」
悠は言いながら、少しの既視感に心はざわめいていた。
東方のスーフィニア山岳地帯。
「これ、珍しい模様ですね。山岳地帯の伝統織り?」
悠はひざ掛けをに手を当てて聞いてみる。
美しい八角形の幾何学模様。何色かの折り重なりの八角形の中心に羊のような角のある動物が刺繍で描かれている。
「ああ。これ?そうね、私の産着として使っていた布らしいの」
笑いながらジャイルーンは言う。
「これね。山岳地帯の伝統模様じゃないのよね。でも綺麗でしょう?何度か真似して作ってみたんだけど、なかなかうまくいかないの。中心にある動物がちいさくて細かいのよね」
とジャイルーンが棚の中からコースターのような布を取り出して悠に手渡してくれる。
「綺麗……」
角のある動物の特徴を綺麗に映している。
「それあげる。ガラスの下に敷くと八角形の文様が光に反射して綺麗なの」
少しだけ、ジャイルーンの顔色が戻ったようだ。
悠は安堵して頷く。
次の日も、ジャイルーンの体調は思わしくないようだ。
しかし、悠は彼女の部屋を訪れることはできなかった。
夢の中でジャイルーンとサナニエルに出会っていた。




