第32話 夜のざわめき
「そう。…というか、この屋敷は本当に「そのたぐい」の本が多い。王都だと禁書扱いだと思うんだけど、平気でその辺に放り投げてあるから…。」
書庫を確認していて二人とも気づいたことだった。
「ぐっちゃぐちゃに棚に並べてあるからわかりづらいけど歯抜け巻も多くて気になりますね…。」
戯れに手に取った全6巻の戯曲ロマンスものの5巻だけ無くて地団駄踏んだり。古い本も多くあるようで所々ページが破られていたり、ひどい時は真っ二つに裂かれて片方しかないものもある。
「古書といえば、ロマンスものもありましたよ。女性の心でも勉強しては?」
エルフィールがため息混じりに言うが、バリュバルはどこ吹く風だ。
「もう腹いっぱい。食傷気味だよ。」
「…どうぞ。扉の外で待ってますよ。人んちのものにあんまり手を出さない方がいいと思いますけど…。」
おっとと、と、おどけてふらりとソファから立ち上がると片手を上げる。
「うまくやる。」
「んじゃ。宴もたけなわだ。」
軽く挨拶してバリュバルは扉を閉める。
「お片付けしますか…?」
扉の外でジッと待っていたお気に入りの召使いの女がくすくす笑いながらそっと耳打ちするが、バリュバルは軽く笑ってその肩をそっと抱き寄せる。
「頼むよ。」
ますますおかしそうに笑う女に手をあげるとしっかりした足取りで歩く。
「あとでお部屋へ伺っても?」
「…ああ。…いや。今日はやめておくよ。」
女が軽く目を見開く。断られる予想などなかったのだろう。本当はさっき扉をあけるまですっかりその気だった。
けれど、なんとなく、そう、なんとなく。彼女の顔を見たら、今日はうまくやれない気がして、考えるより早く唇は断りの言葉を紡いでいた。
夜風にでもあたってくるか。
そう思いながら部屋ではなくバルコニーの方に向かう。バルコニーと階下への渡り階段が見えるところまでくると、視界の端にふわりと白い影がよぎる。
ん…?
視界がぼやけるほど飲んだとは我ながら始末が悪い。
バリュバルはそう思いながら目をこすったが、次の瞬間、視界に白い影だけでなく、風にたなびく黒髪も映ってしまい、目を見張る。
白い影は滑るような足取りで階下へ降りていく悠の夜着だった。
天窓が窓が開いているのか、長い髪の毛がふわふわと風にもてあそばれている。
珍しいこともあるものだと首をかしげる。悠は夜日が落ちてからは部屋の外には出てこない。一度だけ湯を取りに客間へ降りてくることがあったが、相棒の灰色猫がぴったりと寄り添って、小走りで廊下を駆け抜け、湯をポットへそそぐと夜盗か何かのような素早さで部屋へ戻っていった。
悠に言わせればそれはルナの恐ろしい噂話におびえていただけなのだが、知らない彼から見ればよほど過去に何か恐ろしい事でもあって警戒しているのだろうと思っていた。
そうしている間にも悠はふわふわと髪をなびかせて階下へ降り、ロビーから入口へ向かっている。
それにしてもよくなびく軽い髪の毛だ。一度、熱心に本とにらめっこしている彼女にいたずら心がわいて髪の毛をそっと数本手に取ってみたことがある。やましい気持ちはなく、見たことがないほど艶のあるほっそりした髪の毛が、自分と同じ黒でもこんな黒もあるのか、と常々気になっていたため、思わず日の光に透かしてみたくなったのだ。
悠が驚いてばっと顔をこちらに振ると、髪の毛はプチと歯切れよい音を立てて切れてしまった。悠には睨まれて謝ったが、手に残った切れた髪の毛を見て驚愕した。その、糸のような細さ。黒のように見えて黒ではなかった思われるほど日の光で赤茶けたような色彩に変わる色。西方大陸にはあんな絹糸のような髪の毛の人間はいない。西方の諸島にはこんな人種もいるものだろうか。
はっ、とバリュバルは我に返る。よく見たら悠は裸足ではないか。
しかも夜着のまま?
バリュバルはとっさに階段を音を立てて駆け下り、「悠」と声をかけた。
反応はない。
聞こえていないのか。
「こんな時間にどうした?冷えるぞ。外に行くならガウンを…。」
言いかけてバリュバルは眉をひそめる。
前にまわって悠の目を見て今さら気づく。
その目はどこも見ていない。目の前の開こうとを手をかけている扉さえも。
「帰る…。私の場所へ。」
悠がうつろな目でつぶやく。その言葉は中央大陸のものではない。ひどく崩した、西方の魔大陸の訛りの強い言葉だった。
「悠…。どうした。何が…?」
その滑らかな西方言葉を聞いた途端、悠は両手を差し出してバリュバルに抱き着いた。
予期しない勢いによろけてしまったが何とか受け止めて壁際に2人で座り込む。
悠は彼の胸に顔をうずめて何かをしきりにつぶやいているが、訛りがひどく聞き取ることができない。ひどく取り乱しているようで首を振りながら小さな声で何かを訴えている。
顔を見て聞き取ろうと額に手をかけて顔を上げさせようとするが、ますます強い力で胸に縋りついてしまい顔が見えない。
肩がかすかにふるえてる。泣いているのかと焦って髪をかき分けると、思いがけずかぐわしい香りがする。
その香りに自分があいまいに溶けていくような錯覚を覚える。自分が自分でないような。
誘われるように顔を近づけ髪に口づけを落とし、かき分けた髪の間に形よく収まっている耳たぶに唇をそっと押し当てた。
そのまま左手で白い首筋をなでようとして…ピタリと手が止まる。一度長くため息をついて、悠の長く豊かな髪の毛で耳とうなじを隠してやり、震える肩をそっと抱いた。腕を回してすっぽりと収まる身体を包みこんだ。
「大丈夫だから。…もう、大丈夫だから。」
心臓の鼓動と、身体のざわめきが収まるまで、ずっとそうやって宵闇から彼女を守ってやりながら、明け方頃、抱き上げて鍵の開いている部屋をそうっと開けベッドへ戻してやった。




