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36話 『元』橋姫ガールとお泊まり(その1)

「はあ、めっちゃ緊張する……」


 茉里との会話から数週間後──。もうじき夏休みも始まる7月下旬のことだ。

 今日、オレはメゾン・デュノールと呼ばれるマンションを訪れていた。現在地はその715号室。ネームプレートには『橋立』と書かれている。つまりは、璃世の家の前。

 今日から明日にかけて、璃世の家に一泊二日でお泊まりだ。曜日は土曜と日曜。次の日は月曜だが、祝日なので特段困ることはない。

 

 インターホンを1回押す。

 押した瞬間に、こっちに駆けてくる足音がした。

 そして、足早な足音とは違ってドアは静かに開かれる。


「いらっしゃい、颯君」


 灰色の、ゆったりとした柄なしパーカーに身を包んでいる璃世。

 呼吸が乱れることはなく、落ち着いた声色だ。

 でも、オレにはどこか緊張しているように見えた。


「璃世、緊張してる?」

「そ、そりゃあもちろんっ!」

「安心してくれ。オレもちゃんと緊張してる」

「そうは見えないけど……」


 やっぱり、大好きな彼女の前では『余裕なオレ』を演出したくなってしまうのだ。もうこれは元から備わっている男の性のようなものなので仕方がない。

 もちろん辛くなったらやめる。本能に逆らってでも。


「さっ、入って入って!」

「お、おじゃましまーす……」

 

 玄関に足を一歩踏み入れてさらに緊張。

 心臓が一瞬『トクン……』と静かに跳ねた。

 オレの家とは違う、璃世の家の匂い──。

 ここに来るのはまだ2回目。初めて訪ねた時は、璃世が大丈夫かどうかの切羽詰まった状況だったので、匂いやほか諸々を気にしている暇はなかった。なので、璃世の家で感じる全ての感覚が新鮮に思える。初めてじゃないのに。


 靴を脱いで用意されてあった黒のスリッパに履き替える。そして、まずはリビングに。璃世の後ろにぴったりと付いて歩いていく。

 ここではお互いに無言。璃世もオレも、お互いに緊張しているのだ。

 でも、無言でも心地良い。

 大好きな彼女の傍にいられるだけで、心地良いのだ。


 そしてリビングに着く。

 玄関からリビングまで、今回は辿り着くまでに時間はかからなかった。

 前来た時に璃世のお姉さんの璃央さんに案内された時は、時間がやたらかかったのを覚えている。リビングまでは目と鼻の先にあるはずなのに。


「座って、颯君」

「お、おじゃましまーす……」

「もうおじゃましてるでしょ」


 焦げ茶色のソファー。見るのは初めてじゃない。

 前見た時は、窓から差し込む西日に照らされてやたらめったら神々しく見えたっけか。

 でも今じゃ、『明るく』見える。

 焦げ茶色というのは暗い色に分類されるはずなのに、その『暗さ』を上回るリビングの照明と午後2時過ぎの太陽の光に照らされて『明るさ』を醸し出していた。

 ほかのものも絶対にあるのに、このソファーが璃世の家のシンボルのようにも思えてくる。


 オレは促されて、ソファーに座る。

 璃世もぴったり付いて座ってきた。

 距離が近い──。

 こんな近さも初めてじゃないが、やっぱり『璃世の家』というところに特別感がある。

 オレと璃世の2人だけしかいないこの家で、静けさにまだ包まれているこの状況、オレは昂る心臓の鼓動を感じずにはいられなかった。


「今ごろ、璃世の家族は熱海かあ」

「……そうだね」


 そう、璃世の家族は今熱海に一泊二日の旅行中。

 木曜の夕食時に突然、『今週の土日で熱海に旅行な!』と宣言されたらしい。

 しかし、その土曜と日曜はどっちもオレと出かける予定が──!

 恋人という関係になってからというもの、放課後や休日もちょくちょくデートをしていたオレたち。旅行に行く土曜と日曜もしっかりと予定が入っていたのだ。

 『約束は守らないと──』と考えた璃世は、即座に『ごめん、予定がある』と告白。今更日程の変更もできないので、璃世を残してほかの家族は熱海へGO──というワケなのだ。


 もともと、この土曜と日曜は外で遊ぶはずだった。映画館や美術館に行く計画を立てていたのだが、2日間とも璃世の家族が家にいないという状況に。

 そこで『お泊まり会を開催しても……?』という発想に至ったらしく、両親に相談。初めは渋ったみたいだが、相手がオレであると知ると『颯君なら任せられるね』と快くOK──という顛末を、オレは璃世から電話で聞いた。

 もちろん、オレは『私の家でお泊まり会もできるけど……どうする?』という彼女の問いかけに即座に『断然お泊まり!!』と回答。


 ──後で、このことを杏樹や母さんに話すと『理性を保て』ということを強く念を押されて言われた。なので、理性を失って猿にならないようにできるだけ頑張らなくちゃいけない。




 璃世や家族とのやり取りから一晩が経って、『お泊まり』のお熱がほんのちょびっと下がった頃、1つの疑問が湧き上がった。それが──


「一緒に熱海に行かなくて良かったのか? なかなか旅行なんて行けないだろ?」

「颯君の約束を反故にしたくなかったし、それに今心地良いし。……私は颯君の方に夢中になってるから」

「璃世の家族だって、きっと璃世のことを大切に思ってる」

「分かってるけど──それでも、颯君と一緒にいたいの」

「そう言ってくれてうれしいけどなあ……」


 オレのかわいい彼女さんは、ほっぺたをちょっぴり膨らませて上目遣いで見つめてきた。そして、オレの肩に寄りかかってくる。甘いストロベリーのジャンプの匂いが鼻孔をくすぐった。


 肩に寄りかかられたことですぐ目の前にやってきた、璃世のダークグリーンの色をした髪。

 ──触れるのを、我慢できるはずがなかった。


「璃世の髪、前から思ってたけど緑でキレイだよな」

「でも、人とは違うよ?」

「それがいいんだよ。こんな髪の人、そんなにいないだろ? オレ、この髪好きだなー」

「なんか照れるなあ……」


 ちょっと髪に触れてみる。

 匂い、艶のある髪質──腰のところまで伸びたとても長い髪なのに、キチンと手入れされているのがよく分かる。さすがはオレの自慢の彼女さんといったところ。


「なあ、もう少し──触っててもいい?」


 静かに璃世が『コクン……』と頷いた。

 自制が利かなくなる前までには、やめておこう……。



 時間はまだたっぷりある。

 璃世と一緒に居られる今日という日を、存分に堪能しようじゃないか。



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