12
夜の帳はとっくに降りていた。マクはずっと作業を続けてる。最初は慣らしてたが、一気にトップギアへ。やはり、マクだ。熱心に絵を描く。すごい集中。これは昔よく見てた光景。わけもなく涙が出てくる。ただ、暗闇が隠してくれて、気づかれなかった。
「べつに僕がすることはないよ。怪我した彼から構想は聞いてるし。だから、それをなぞるだけ。翠が心配する必要はなにもないんだ。とにかく、今日と明日で残りの大枠を描けばいい。で、最終日に全員で完成させればオッケー」
すでに、補助の生徒は帰った。それは大枠がまだ。やることがないせい。仕方がないと思う。だから、マク一人だけで作業に没頭してる。
私はそのマクにつきっきり。軽い写真撮影が終わった後はずっとこの調子だ。とはいえ、私が具体的にできることはない。なので、やってることはマクの助手。あるいはただの話し相手。こんな状況になったせいだろう。へんなこだわりはなくなっていた。
「ほら、もうこんな時間だぜ。あまりにも遅いと、おばさんも心配するじゃないか」
「べつにマクと一緒に帰るからいいもん。危なくないし」
マクが筆を器用に動かす。その筆使いはほれぼれするレベル。速さだって、普通の人とは比べものにならない。これぞ本当の二倍速だった。
「ちなみに、危なくないかは分からないな。僕はなにもできないんだ。大切にしたいと思ってもさ」
「あっ」
「どうしたのさ?」
「また大切にしたいって言ってくれた」
「ああ、うん。それは本心だから。でも、このけじめをつけないとね。ただ、今のところは順調だけどどうなるか。正直、自分でも分からないんだ。最後まで大枠を完成させられるか」
マクが自分の気持ちを吐露する。
「とにかく、無理はしないでよね。気分が悪くなったら止めてもいいし」
「それはできないぜ。いろんな意味で。僕はもう一度絵を描くことに身を投じたんだ。自分のため。家族のため。翠や三波とのけじめもある」
「そっか。うん」
私は頷くしかない。マクの決意が固かったから。これでマクが幸せになれるなら問題なし。私はその考えを肯定する。
すでにほとんどの人が帰宅。たくさんの人を吸い込む校舎はがらんどうみたい。私とマクの声だけが響く。
「で、京極くんとは?」
「え?」
「ほら、文化祭の話の続き」
「あー。そんなこともあったな」
今や遠い昔の話。あの後、マクが絵を描く決心をつけるなんて。本当にどう繋がるか分からない。由美ちゃんの無茶ぶりだって、予想外なのに。
「でも、京極くんとはべつになんともないから。私はもう少しマクに関心を持ってほしくて。だから、あんな子どもじみたことをしたの。マクの気を引きつけるためにね。だけど、マクは全然だった」
「さあね、全然だったかな?」
「ほんとに?」
「どうだか。翠のお姫様思考くらい分からないよ」
マクがからかうように言う。私は憮然。
「後はほら、夏休みにウチへ泊まったよね。その時に私があれしたから。そのせいで私、気まずくなっちゃって。うん」
「ああ、うん。あれは僕も悪い。いや、悪くはないのかな。翠のスタイルがいいせいだ。あそこまで魅力的な体なのがいけない。抱きつかれたらね。僕はにっちもさっちもいかなくなるさ。思い出すだけでくらくらとしてくる」
「エッチ。マクのばかっ。そこまで言わなくていいし」
あの日、私はマクの胸板に抱きついて寝てた。なので、起きた瞬間はかごの中の鳥と同じ。マクの手中に囚われてた。密着してたせいで私の胸もくにゅりと変形。我ながら弾力があるなと思う。でも、あそこでそうなるのはまずかった。しかも、下半身だってしがみつき状態。マクの骨格をとにかく感じてしまった。
「まあ、そうだよね。ごめん」
「うん。もういいかな。私が原因だから」
そして、私たちはしばらく静かになる。マクは絵を書き続けたまま。私も大人しく見てる。なんとなく、流れてる時間が心地良い。さらに、どこか懐かしかった。なぜだろう。同じような体験はしてないはずなのに。でも、どこかで似た感覚が残ってる。それもここ最近の感覚。私にはその感情は分からなかった。
「あのさ、翠」
「なに? マク」
思考が内にこもってたので、反応が遅れた。とはいえ、マクがそれをいぶかしむこともなく。普通に話を続けてくる。
「これは僕の役割じゃないんだけどね。でも、僕にはどうしてもしなければいけないことがあって」
「えっと、なにを?」
「赤い絵の具。それを使うことだよ。これが使えないとだめ。僕の中で絵を描くのを克服したことにならないんだ。言ってしまえば、今の僕がやってることはデッサンに近い。だから、僕も最終日に絵を塗らなければ。特に赤。赤色」
赤い絵の具。赤い幻惑。私は昔を思い出す。私がお姫様な理想を捨てようと試みた時期。あの若かった決意が今に繋がってる。私はマクの様子を見て、戦う決心をした。相手もいないのに。その決意が蘇る。
「そこでさ、お願いがあるんだ。その時、翠に近くへいてほしい。ただ、それだけでいいから。赤いの絵の具を使って、絵を描く様子を確認してもらいたい」
「うん。そんなことならいくらでもする。マクのためなら」
「ありがとう、翠。これで心おきなくだね。後は本当に僕次第だ」
悲しかった。本当に悲しかった。あの時のことを思い出して辛くなる。しかし、私が悲しくなってどうする。マク自身がだいぶ取り戻してるのに。私は騎士になったんじゃないのか。そのために、お姫様を封印したはずだ。なのに、マクが昔のマクに変化するだけで、私はあっけなく逆戻り。私は何も変わってない。変わることが出来なかった。あの時の決意はなんだったんだろう。
「泣くなよ、翠。頼むから泣かないでくれ。僕は幼馴染に泣かれたくないんだ。言い換えれば、翠を悲しませたくない。だから、こうなってごめんな」
手元のスタンドで作業をしてるマク。明かりは私まで届かない。しかも、こっちだって見ていない。だとしたら、なぜ分かったのか。気配だけで勘づいたとしか思えない。
私は頬に流れた涙を拭う。おかげで、手元が少し濡れた。ポケットのハンカチで、さらに拭く。最初からハンカチで拭けば良かった。
こうして、時間はもう少し経過。ずっと隣で待ってた。マクは自分が思う予定まで進めたらしい。これで明日からは、平行して作業が進める。つまり、明日もまたてんやわんやだ。この看板作成にたくさんの人が群がるんだろう。
さらにマクは、クラスや文化祭実行委員のこともある。とてもじゃないけど忙しすぎ。たぶん、配慮はされるはず。そうでないなら、私が交渉のテーブルについてもいい。とにかく、マクが絵を描くことに集中できる環境を整えよう。そんなふうに決意した。
月明かりはないに等しい。今日は月が出てなかったから。帰り道は外灯と家の明かりを頼りに帰宅。そうそう、久しぶりに私たちは一緒で帰ったんだ。最近はマクと一緒に帰ってなかった。私の悪い癖が顔を覗かせたせい。だから、私は嬉しかった。
「マク。じゃあね。また明日」
「うん。また明日だ。がんばらないと」
私は玄関からマクを見つめる。なんとなく、見えなくなるまで背中を見てた。そんな時にふと思う。今日の帰りは一緒。でも、文化祭当日は一緒だろうか。約束はしていなかった。
翌日は朝から捕まる。文化祭まで後二日。私にくだを巻く余裕なんてないのに。
「みどちゃーん。私の気の利かせ方は絶妙だった? あの後、ずっと二人でいたんだよね。ねね。有意義に過ごせた? そうじゃないとだめだよ。だって、昨日しかチャンスがないみたいだし」
「そうそう。本日は美術部員たちも作業を再開。大枠を埋める色塗りだからねえ。なので、私も一応気を利かせたつもりだよ」
「えー。こっそりと二人を観察しようとしてたじゃない。はたちゃんのうそつき」
「ないない。私の髪型に誓ってありえないよ」
「……」
私とマクが残ったことは分かるにしても。なんで看板作成の事情を知ってるのか。その上、そこにつけ込んだ有用性を指摘。嫌になってしまう。
「なんか言ってよ。みどちゃん。私は二人が気になってさ、夜も寝れなかったんだから」
「ちゃんと睡眠は取らないと。授業中に寝ないとだめだよ」
「それはすごい皮肉だなあ。誰もが翠ちゃんみたいに寝られないのに。あれはすごい胆力だと思うよ」
その考え方は違う。胆力とかの問題でない。
「てか、畠山ちゃん。それは的外れ。私は睡魔に負けてしまうだけ。あいつらは力強いからね」
「かといっても、寝てはいけない状況だと思うんだけど。一応、曲がりなりにも勉強には力を入れてる高校だからねえ。って、静かだと思ったら、由美ちゃんが船漕いでるし。あー、私の机によだれが。机に唾液垂らしてるよ」
良かった。今日は畠山ちゃんの机に集まってお話しだから。自分の机が被害を受けることはなかった。少々、薄情だと思うけど。
「はあ、どうにかならないかな」
「私はどうすることもできないよ」
とりあえず、惨状を見て判断。
「えっと、由美ちゃんは翠ちゃんのことを思って眠れなかったのに? そこまで薄情なことを言ってていいの?」
「あー、だめだって。その語弊のある言い方。それだとさ、由美ちゃんが私に恋してるみたいじゃない。てか、由美ちゃんが私の様子を面白がってるからいけないんだよ」
「まあ、そうだよねえ。でも、そうはいかないさ。うん」
「そんなことないよ」
「ふーん。さて、起こすか」
畠山ちゃんは、ポケットティッシュでよだれを拭きながら叫ぶ。
「由美ちゃん。ウェイクアップ!」
「ふぁっ!」
バタタン。激しい音を立てて体を起こす。
「眠いからって急に寝てはだめだよ」
「寝てないって。絶対寝てないよー」
気持ちは分かる。なぜか寝てない感覚。私はテレビをつけっぱなしにしてが多い。
「寝てなくてもさ、人の机によだれを垂らすのはよくないな」
「え? あっ、ほんとだ」
由美ちゃんは呆然。
「あはは。まあ、眠かったから」
「そうだねえ。いい天気だし。許す」
「やったぁー」
やっぱり、今日も平和だ。空は快晴。秋の気配が少しずつ近づく文化祭前。
二日前になると授業は午前もない。朝から文化祭の準備で大忙し。私と由美ちゃんはクラス。畠山ちゃんは文化祭実行委員。マクは看板作成。それぞれの作業をこなしていく。時々、いろいろと気がかりになったが作業へ集中。それもそうだ。やることはたくさんある。本当にあさってまで間に合うんだろうか。不安が募っていく。
「ねえ、由美ちゃん。今日はどうしたの? なんでもてきぱきとこなしてるけど。昨日とは大違いだよ。びっくり」
私も大概でない。単刀直入に言いすぎだ。でも、由美ちゃんは全く気にしなかった。
「でしょー。ほら、そこは私もがんばらないと。クラスのみんなに負担がかかるからね。私だってやる時はやるのさ。うん。どうだー。見直した?」
「うん。たしかに」」
今日の働きぶりはすごい。人が変わったかのようだ。
「これが急場の馬鹿力だね。私にも備わってたんだ。びっくり」
「びっくり。ほんとにびっくり」
「びっくりびっくり」
「びっくりだよっ。びっくりすぎてびっくりしか言えないかも」
びっくり続きはともかく。実際、何があったのか。
「じつは種明かしをすると、こんな事情があったのです。ほらっ」
由美ちゃんが携帯を見せてくる。そこには動く私の姿が映ってた。
「なんでショートムービーなんか撮ってるの? しかも、私の」
「そう。昨日、ぱっと閃いたの。あの時、畠山ちゃんが上手く携帯を活用してたよね。私も参考にしようかな、と思って。翠ちゃんの動きを観察するために」
「へえー。でも、それって携帯に取らなくてもいいような。昨日だって、ずっと隣にいたし」
「まあ、うん。ばれたかあ」
由美ちゃんが苦笑い。
「ばれるよ。てか、本当に私の動きが参考になったの?」
「それはなったよ。今まで注意してなかったからね。みどちゃんの動きがよく分かった。私にはむだなアクションが多かったの。結局、意識して注意すればなんとかなるもんだよ」
彼女のオーバーアクションは、作業にまで浸食してたか。とはいえ、意識の差でここまで変えられるとは。やっぱりびっくりだ。
「でも、ずっとはむりだね。うん。私はむだが多い動きの方がしっくりくるもん。だから、今日だけ」
「そっか」
「というわけで、みどちゃん」
由美ちゃんがサムアップ。さらにいい笑顔。
「抜け出しちゃいなよ」
「え?」
「私がなんとかするから。作業もみんなへの取り繕いも。こっそり篠原くんのところへいけばいいって」
「そんな。さすがに気まますぎるような」
「ならぬ。ここは私がくいとめる。みどちゃんは先に行けー」
なんだか楽しんでた。むだな動きも健在だ。
「てか、みどちゃん。今日はずっとそわそわしすぎだよ。作業だって進んでないし。分かりやすいなあ」
たしかに自分でも感じてた。昨日より上手くこなせてないと。私はこんな感覚をあまり抱かない。だから、やっぱりマクのことを気にしてる。間違いなく。
「はーい、みんな。聞いてよ。翠ちゃんがもう眠くて仕方がないって。ほら、いつもはお昼寝の時間じゃない。授業中に。だから、三十分くらい寝させてあげようよ。ね。今だって作業の効率が私レベルだしさ」
クラスに起こる笑い。とても暖かな視線。おかげで、こそばゆい感じがした。
「それにあさってさ、一人だけコスプレがんばってくれるしね。うちのクラスのお姫様だ」
「お姫様はなしにしてっ」
「だめだよー。こんなにかわいくてスタイルがいいんだから。つまり、お姫様でオッケー。じゃあ、お休みねー。美術室なんかがよく眠れるよ。お勧め」
そこまで言ったら分かっちゃうじゃないか。というか、ほとんどの人が分かってるはず。私が幼馴染のところへ行くことを。私は由美ちゃんに感謝しながら、美術室へ向かう。




