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「違うと思っても、すごく緊張する」
「でも、あの騒動の後で仲良くなるよりは、容易いことなんじゃない?」
「たしかに。だって、今の私は加絵先輩を信じられるから。むしろ、そこから突破口が開けるかもしれない。ピンチの後にチャンスありだよ」
「ピンチでもチャンスでもないけどね。たぶん」
「うん。そうかな。しかるべき状況だしね」
翠が通話ボタンを押す。携帯も耳に当てる。なかなか出てこない。やはり、生徒会で忙しいのか。さらに、文化祭実行委員の仕事も。夏休み前でやっておくことはたくさんある。
留守電に入ったので一呼吸。その後、もう一度かけ直す。やはり、出てこない。六コール、七コール、八コール。諦めて携帯を耳から離そうか。なんて動作をした矢先。ちょうど電話が繋がった。
『あ、加絵先輩。はい。はい。えっと、マクなら復活しました。大丈夫みたいです。え? 違いますよ。その報告ではありません。はい。うん。んん? そうじゃなくてっ。もっと大事な話。具体的には、屋上の女の子についてです』
翠がゆっくりと息を吐く。呼吸を整える。
『加絵先輩に聞きたいこと。それは生徒会室にある冷蔵庫の中身について。あの冷蔵庫の中に、ペットボトルの飲み物がありましたよね。そうです。五百ミリリットルの。あれは? え? そうなんですか?』
山内先輩が、意外なことでも口にしたんだろうか。翠の目が大きくなっていく。
『じゃあ、ますますですね。とにかく、加絵先輩。その飲み物は絶対に飲まないでください。もちろん、誰に飲ませてもいけません。先日の事件と大きく関わってきますから。……はい、そうなんですよ。まだ解決してません。しかも、加絵先輩に魔の手が延びてる可能性もあります。だから、警察に連絡した方がいいかと――』
翠と山内先輩は、さらに会話を続ける。話は山内先輩が取るべき行動。
「マク。聞いてて分かったと思うけど。うん。あまりにも意外なところから人物が浮上した」
電話を切って開口一番。翠が僕に言う。
「たしかに。あり得ないな」
「でも、生徒会室の冷蔵庫にあの珍しい飲み物があるという事実。おそらく、屋上の女の子とそのお父さん。それと目撃された二人組の片割れしか持ってないはずだよね。だって、あそこの自販機はすべて二人組に買い占められた。おかげで、入手不可能。だから、おかしい。あそこにあるはずがない」
翠が筋道立てて説明してくれる。
「そして、加絵先輩は言ったの。あの飲み物は先生から差し入れだと。それも行方をくらました先生。松本先生だよ。彼女が直接関係してるかは分からない。でも、かなり怪しいよね」
松本先生。彼女はその振る舞いから公家と揶揄されていた。最近では繰り返しの授業が多くて困惑。しかも、三波が亡くなった後に突発の休みを取ってる。
「ただ、なんでわざわざ証拠を残すようなことをしたんだろう。あれを山内先輩に渡したのはどういう理由で? 山内先輩になにをしたかったのかな」
「うーん。そこまでは分からない。きな臭いことには変わりないけど。仮に二人組の片割れ。つまりね、彼女が二人組の女性だとしたら結構繋がる。屋上の女の子がうちの学校に来た理由。上手く仕向けてたかもしれない。さらに、彼女の行動だって観察可能」
「そんな。そしたら三波後輩は」
「そう。たとえば、彼女の気分にあわせて、少しずつ情報をすりこんでたかもしれない。サブリミナル効果みたいに。あたかも、自分の考えと錯覚させてね。そうやって、彼女が自分の意志で自殺するように動かした。薬物作用も使って」
「翠。そこまでいくと考えすぎだよ。それにその計画は失敗してる。結局、三波後輩は自殺じゃない。他殺だ」
僕はすかさず反論する。
「マク、そこなの。それは彼女がマクに会ったから。おかげで、違う歯車が回りだした。だから、いろいろとずれてしまったはず」
そうなんだろうか。すべては松本先生が鍵を握っていて。三波は彼女の思惑に誘導されてしまった。こんな結論なんて認めたくない。
「とにかく、ペットボトルの件が明るみになった。ということは、亡くなった彼女のお父さんが渦中の女性を知ってる。そこの捜査線上で、松本先生が浮かび上がってくるかだね」
「うん」
僕は深く頷く。
「現段階ではそうとしか言えないな」
にしても、翠の推測が正しければ大変だ。相手のじわじわと毒を飲ませてくるような手口。用意周到にも程がある。もし僕が屋上にいなかったら、三波は自殺してたんだろうか。だとしたら、犯人の思惑は成功。そんなことになってしまう。
退院前の検査で異常なし。なので、僕はあっさりと退院。そして、そのまま夏休みへ。やはり、屋上はしばらく使用禁止との通達。おかげで、よく話のネタにされた。何をやってるんだって。僕も自分自身に問いかけたい。とりあえず、親譲りの無鉄砲でと言い訳。この次はすかさず飛んで見せます、って答えた。なのに、笑いは半分も取れない。
生徒会室の冷蔵庫にあった飲み物は黒。調査の結果、薬物反応が出たという。どうも、脱法ハーブ系統を溶かしてたらしい。だから、へんにペットボトルが膨らんでた。あの違和感は、標高における気圧ではないようだ。
ただ、ここまで証拠が出てるのに事件は迷宮へ。なぜなら、三波のお父さんが拘留中に自殺。警察内でも大ごとになっている。結局、娘が亡くなったことで心身喪失してたのか。詳しくは分からない。具体的な追加聴取もできないままに、行き詰まってしまう。
そして、松本先生は完全に失踪。連絡が取れないらしい。警察もその線の方向で動いてると思う。松本先生を最重要人物にして。
「この前な、後藤さんが言ってたぜ。これはとかげのしっぽ切りだって。たぶん、彼女のお父さんは目立ちすぎた。だから、消されたんだよな」
夏休み。学校もなく長期休暇。翠と佐々木くんは我が家へ。ややもすれば、ふさぎ込みそうになる僕の元気づけ。とはいえ、会話の流れでこの前の事件が話題に。正直、これ以上は素人が手を出せる範囲でないと思う。
「そうだね。屋上の女の子が殺された犯人も不明。死亡推定時刻のトリックも分からない。そのせいで、マクが犯人扱いされたんだよ」
「おお、それは聞いたさ。まったく。本当にひどい話だな。だから、拘留中に自殺なんかされるんだよ。そのせいで警察は大騒ぎだし。事件の解決は遅々として進まないときた。からくり屋敷だって、設計者がいないから大変だ」
「うん。さらに、この前のせいで加絵先輩も」
たしかに山内先輩も元気がない。僕と同じくらいに沈んでる。今日、家へ呼んだのも丁重に断られた。すごく心配である。
「困ったー。困ったー」
佐々木くんがふざけた調子で言う。
「とはいえ、俺たちまで神妙な顔をしてはいけないよな」
「だよね。うん」
夏休みも中盤。日々は緩やかに流れていく。ともすれば、風化してしまいそうな前学期の出来事。それを避けるために、悔恨へ身を預ける。ところが、僕の中に潜む罪障、無力、喪失といった感情は止まらない。三波の言葉を思い出しても避けられなくて。逆に否定的な幸福を享受してるような気分。これではまったく逆効果だ。
『おい。しのぴー。おまえんちの前へ来たぞ。顔出せ。出かけるから』
携帯から響く佐々木くんの声。自室から見ると家の前で待っている。なぜか、翠も一緒だ。
『もうそこまで来てるのに。電話しなくてもいいと思うけど』
『そこはあれさ。一応、親しき仲にもなんちゃらだからな』
ピンポン。ピンポン。ピンポン。ピンポン。真夜中の一時に四連打。どこが親しき仲になんちゃらだか。言動と行動が矛盾してる。やりたい放題だ。
『親しき仲には無礼ありだっけ』
『おっと、ごめんごめん。手が滑ったんだ。とにかく、四十秒で支度しな。三分間待ってやるから』
僕は崩壊の呪文を唱えて、電話を切った。
「翠も佐々木くんに無理矢理?」
「うん。手込めにされかけた。マク、助けてよ」
「こらこら。人聞きの悪いことを言うなし。少なくとも、翠ちゃんは俺の案に賛同してくれたんじゃなかったのか?」
「うーん。分からない。私はどうなんだろう」
翠が自分へ問いかけるようにつぶやく。
「にしても、なんでこの時間なんだか」
佐々木くんの提案は、からくり屋敷へ行くこと。そこで後顧の憂いを断ってほしいという。でも、そんなことはできるはずがない。その場所へ行ったところで、どうにかなるわけでもなく。そもそも、今は事件の余波で封鎖されてる。
「しのぴーはだめだな。だからこそ、この時間に行くんだよ。隙をつくために」
「だったら、もっと遅い時間の方が」
「だめだ。翠ちゃんが眠くなるから」
「私、なんか子どもみたいな扱い。しかし、どっちにしたって眠いよ」
翠の言うことはもっともである。ちなみに、僕は問題なし。眠れてないのが耐性になってた。
「とにかく、オマエに腹をくくってもらうためだ。いつまでもこの調子じゃしょうがねえからな。まあ、心配すんなって。いろいろと下準備はしてきた。その方面に詳しい人から結構教わったんだ。任しとけ。で、今から連絡も取る」
「……」
何を教わったのだろうか。少し怖い。佐々木くんは顔が広いから、どんな知り合いもいそうだ。何が出てくるか想像できない。
さらに、僕は後藤さんから釘を刺された。こういう非日常的なことに首を突っ込まない。それに囚われてしまうのはだめだという。ただ、今回の佐々木くんの思いつきは僕のためらしい。まさにジレンマだ。
「ふわぁ」
翠が生あくび。やはり、夜は深い。すれ違う人もほとんどいない。街は静まりかえり、電灯が輝く。ついでに月も。そう。月。前に三波と話した。神様は太陽でなく、月にいるべきだと。翠も幼い時はそのように考えてた。
「あのさ、マク」
「なに?」
「なんか変わったお話ない? 私の眠気が醒めるくらいのやつ」
「え?」
翠の無茶ぶりだった。
「もう、眠くてどうにもならないかも。そこをマクの力でなんとか」
「そういうのは佐々くんに任せておけばいいんじゃない?」
「だめだよ」
翠が首を振って指を差す。佐々木くんはいつのまにか近くにいない。どうやら、誰かと連絡を取ってるみたいだ。
「たぶん、からくり屋敷に侵入する手口を確認してるんだと思う。その筋の人に」
「うん。そうみたいだね。あの様子は。たださ、僕は気が進まないな。餅は餅屋ともいうし。それにこういう行為は、三波後輩を侮辱してるようで」
「でも、そのせいでマクに濡れ衣が着せられそうになったよ。今も不明なところだってあるし」
「そんなことはどうだっていいんだ。僕は三波後輩が居なくなった事実だけが悲しい」
「うん。そうだよね。ごめん」
翠が神妙な顔で謝る。
「マクにはマクの事情。そして、私には私の事情。佐々くんには佐々くんの事情。それぞれが各々の考えで動く。それが上手くいけばいいけど。でも、上手くいかないこともあるよね」
ふいに心地よい風が吹く。今年の初夏は本当に涼しい。夏の気配が全く漂ってこない。ずっと、このままの調子なんだろうか。
「ねえ、青い月って知ってる?」
「なに? そのいきなりのフリ」
「それはマクが話を始めないせいだし。このままだと歩きながら寝ちゃうよ? マクが私を背負って歩くことになるから」
「無理。絶対に」
「あ、今のは私が重くて運べないって意味でしょ」
翠がへんに揚げ足を取って絡んでくる。頬を膨らませてないからまだ大丈夫。危険なサインは出ていない。でも、眉根は寄せてる。だから、しゃくに障ってると思う。
「違う違う」
「二回繰り返したから怪しい」
「会話にそんなルールなんてあったっけ?」
「ううん。私の勘」
「止めてくれ」
そもそも、翠はスタイルがいい。ここ一年でスタイルを劇的に改善させた。ネコネコ体操とやらで。しかも、普通から素晴らしいへ。文句のつけようがない。むしろ、原因は背負って歩くもう一つの弊害。背中に翠を感じることだった。
「でさ、青い月ってなに? 昔の翠のお姫様思考っぽいんだけど」
背中をつつかれた。全然痛くない。くすぐったい。
「違うから。実際にあるんだって」
「ほんとなの?」
「うん。でね――」
それはブルームーンというらしい。三年に一度くらいしか見られないとも。だから、めったに起こらないことの慣用句へ。そんな青い月。ブルームーン。カクテルにも似たような名前があった。菫が関係してたと思う。
先頭を歩くのは佐々木くん。彼は携帯で丹念に打ち合わせ。そのあいだ、僕と翠は適当な話を続ける。しかし、本当にこんなことをしていいんだろうか。疑問が募っていく。僕たちがすること。それは亡くなった人の根城を暴く行為。言うなれば、墓荒らしと同じだ。違いは追求が物質的か精神的か。そんな区別しかつけられない。
「見えてきたね。前も目立ってたけど」
「うん。封鎖されてからますます目立つようになった」
僕と翠が交互につぶやく。佐々木くんは振り返って言う。
「まあ、たしかに目立つよな。昼は迂闊に侵入できない。そこは確実だぜ」
いつでも無理だ、とツッコミを入れたかった。とにかく、佐々木くんには現場で状況を把握して早く諦めてほしい。とはいえ、彼なら侵入できそうな可能性も。その辺が怖いところだ。
「翠。僕たちはどうする?」
「分からない。とりあえず、様子を見るしかないよね。一応、私だって憂さを晴らしたいから。マクに冤罪を被せようとした原因くらいは突き止めたい。分かる可能性があるならね。探るのもやぶさかでないと思ってる」
「そっか。うん」
これは翠における立場の考え。こっちともまた違う。なぜなら、僕はどうにでもと思ってるから。実際に三波を殺してないので関係なし。仮に罪を被せられようが、すでに成立しない冤罪。それよりも後悔が先に来る。僕が三波を助けられなかった事実。三波が虐待された。薬物を投与された。そして、殺されてしまった。
「マク。たぶん、マクは正しいと思う。でも、自分を苦しめるのは止めてほしいな。難しいと思うけど。だって、私も佐々くんも簡単に割り切れてないし。だから、こんなことしてる」
からくり屋敷。外観の不思議さもさることながら、どことなく隙がない感じ。ただ、どこがという明確な基準があるわけでない。なんとなくだ。
「こうして来てみるとあれだなあ。広い。しかも、隙がない。封鎖のせいもあるだろうな。おかげで、そう感じるぜ」
佐々木くんの感想もあまり大差ない。誰が見ても、同じ印象を抱くと思う。
「でも、どこかに抜け道ってのがあるんだよ。誰も意識してないから気づかない。意識した者だけが気づくんだ」
まるで僕が屋上で見つけるスペースみたいだ。
「よし、ここか」
からくり屋敷の周辺をぐるぐる歩いてたが、ある地点で立ち止まる。僕と翠も同じように停止。ここは裏側。あまり目立たない場所だ。侵入するには王道といっても差し支えない。
「間違いない。付け焼き刃な俺でさえも攻略できるよ」
佐々木くんの自信に満ちた声。うっすらと不安が増していく。
「よし」
しかし、そんなことはつゆ知らず。佐々木くんは第一関門を突破。実に手際良かった。手元にある道具がマスターキーみたい。さらに、ここからも扉を通過。からくり屋敷の中へ入っていく。地下へ繋がる扉までクリアした。
「佐々くん。私、怖くなってきたよ。どうしよう」
もう、すっかり眠気も醒めた。とはいえ、この展開なら当たり前。怖さの方が先立つ。特に翠はホラー映画も見られないほど。こんな状況は少し恐ろしい。ただ、怖さでいえば、あの日の方が恐ろしかったと思う。あの日は、翠もアドレナリンが出すぎていたのか。僕の近くで死んでる女の子を前にしても、悲鳴一つを上げなかった。
「それにここまで入れると思わなかったし」
本当に信じられないと思う。翠の驚嘆も分かる。ある程度こなす予想はついた。でも、この辺りまで突破すると考えもつかない。
「なんだい。翠ちゃんは俺の万能さを舐めてたのか。残念。ただ、俺の役目は終了だぜ。後は翠ちゃんの集中力。そして、推理力と勘どころ」
「私にそこまでの力はあるのかな。警察でさえ苦労してるのに」
「なに言ってんだよ。翠ちゃんの力なら余裕。現場検証だってできるんだぜ。しかも、当日の状況と比較して」
翠に続いて、佐々木くんは僕にも言う。
「なあ、しのぴー。あの日、オマエは地下へ向かう道で、ずいぶん迷ったと証言してたよな」
「ああ、うん。そうだったよ。とにかく、ずいぶん遠かった気がする。もっとも、僕は通常の状態ではなかったけど。向かってる最中にへんな音も聞こえてたし」
「ふーん。だってさ、翠ちゃん。まあ、この話は前にも聞いたよな」
今度は翠に振る。まるで佐々木くんが進行係のようだ。状況のおぜん立てまでしてくれた。
「ううん。そんなことない。今、初めて聞く話だってある」
「ほう、たとえば?」
「えっと、音の話? ささいなことかもしれないけどね。でも、極限状態でへんな音の印象なんて抱かないと思う」
「そうかい。やっぱり、翠ちゃんは違うね。着目点が」
佐々木くんが感心してる。
そのあいだも僕たちへ進んでいく。地下へ降りてるはずなのに、道が終わらない。あの日の状況とまったく同じ。そんな状態がしばらく続いた。
「僕が行った時もこんな感じだった。でも、三波後輩がいた場所まで行くにはまだだよ。どこかの壁を押さないといけないんだ」
通路の途中でいろんな壁を叩いた。なのに、新しい道はできない。
「そうみたいだね。今日は出てこないけど。それにこの階段、下ってるように見えて下ってない。階段じゃないところで高さを調整してる。そんな感じは全然しないのに」
「ホント? 翠」
「うん。たぶん」
あの日に感じたことは間違いでなかった。などと思えてくる。
「しかも、私たちは同じ辺りをぐるぐる回ってる。なんか酔ってきた」
翠の顔がゆがんでる。おかげで、先ほどとはべつの後悔が募っていく。
「翠、戻ろう。中途半端にさぐっても意味ない。それよりも翠の方が心配だ」
これ以上深追いしてもむだだろう。得られることはほとんどない。
「だな。これは戻った方がいいかもしれない。俺もやばい感覚がしてきたぜ。それにしのぴーも吹っ切れたみたいな表情だ」
「……」
はたして、僕は吹っ切れたのか。ふと疑問を抱く。もちろん、三波に対する後悔。それに無力と諦念。まだ残ってる。でも、そこを上回らないといけない。後藤さんにだって忠告された。
「上へ、上へ。高いところへだったっけ。なにも地下へ行く必要なんかないのに」
「え?」
翠が不思議そうに首を傾けた。サイドハーフアップの髪もかしぐ。
「もう帰ろう。帰るところがあるんだから」
もしかしたら、本当に踏ん切りがついたのかもしれない。




