第113話 夜明けの支配者
ポロロン――
言われるがまま、左手にお札をもち、右手で梓弓の弦をはじく。
心地よい調べに引っ張られるのに任せて、私はゆっくりと目を閉じた。
まぶたを透かして、燐光を感じる。
……ああ、これは紛れもなく、リン様の光。梓弓は【口寄せ】のアーティファクト。つまりこれから私は、自分の身体にリン様を憑依させるのだろう。そして、お札は【神の光】を発動させるためのものだ。だけど……それから、何が起こる?
考えてみたけれど、私の意識のはっきりしているうちに答えを出すのは諦めた。今はただ、運命に身を任せるしかない。
……しばらくして。
《――カ、ハルカよ》
暗転した視界の中、聞き馴染んだ声が脳内で響く。
続いて、ぼんやりと、見える景色に色がつき始めた。
そこいらに、霧のような、靄のようなものが立ち込めている。夢を見ているような、不思議な感覚だ。
――ああ、そういえば。宮廷での儀式で口寄せをしていたときも、こんな感じで客観的に自分を見ていたっけ。
《我らが姿、見ゆるか?》
やがて、夢とうつつのはざまにあるようだった視界が、確かな輪郭を持ち始めた。
そこでようやく気づき……いや、余計に混乱してしまう。
そこには、もう一体の龍がいたのだから。
目の前の暗黒竜とはまるで異なる。彼女は地球の西洋神話にありがちな見た目だ。
一方で、新たに現れたもの、それは、東洋風の龍である。
華奢な手足こそ生えているものの、大蛇のような身体をしなやかに踊らせている。
純白の鱗、銀色のたてがみ。そして、瞳には瑠璃色の輝き。尾の近くには、うっすらとした花模様がある。これは、私の巫女装束――千早の裾に刻まれているのと同じだった。
黒々とした翼をはためかせる魔王と、何もかもが異なっていた。
白妙と漆黒。光と闇。あるいは――闇夜と、夜明け。
その睨み合いを、私は外から見ている。まるで他人事のように。
だが、白い龍が右手を動かせば私は自分の右手を動かすような感覚になるし、白銀色の髭を引っ張れば私の顔がつねられるような痛みを覚える。
……一体、どういうこと?
☆
リン、いや彼女に限らず、下界に降りる神々は皆、実体を持たない。
その強大な力を行使するにあたり、神々の間での取り決めだけでなく、人の手に触れられる形として存在できないからこその限界もある。
前者の制約を部分的に緩めるのが、巫女の札である。では、後者はどうすれば解決するか。その方法は限られている。
ハルカとリンの相性がいいからこそ、いま、それが可能となった。
すなわち――リンがハルカの肉体を借りることで、物質的に具現化したのである。
【神の光】と【口寄せ】の同時使用。それは、リンが神として持つ力を全て解放するに等しいといえるだろう。
ひとたび実体化すれば、リンはその姿を意のままに操ることができる。
「魔王とて、たかだか魔国を統べる王――下界の長なれば、我ら神を超ゆることなどあらじ!!」
普段のリンやハルカとはまるで異なる、凛とした声。それは玉座の間に、咆哮のごとく響き渡った――
☆
異形の身体が勝手に動く。
初めは混乱していた私も次第に慣れてきて、力を抜いてリン様の動きに任せていた。
時折、暗黒竜がブレスを繰り出す。そのときは、片手で薙ぎ払って掻き消した。手に鋭く熱を感じるけれど、揚げ物の油が飛んできたぐらいの感覚だ。……火傷しそうだが死にはしない。
あるときは、相手が爪でこちらの鱗を引っ掻いた。確か毒があったはず。しかし、毒ならいつも巫女の力で浄化しているのだ。その力が詰まっているようなこの身体に、そんなものは効かない。引っ掻かれたところはピリリと痛いけれど、すぐに暖かい光に包まれて傷が跡形もなく消えた。
しかし、こちらの攻撃もまた、向こうには――まだ、届かないらしい。
こちらの武器は、いつもの【神の光】だ。
リン様の燐光は、盾にも槍にも、稲妻にもなる。盾は、魔王の攻撃をことごとく防ぐ。だがその一方で、あとのふたつは漆黒の鱗に弾かれてしまった。リン様は、昔から戦いを嫌う。その性格を反映しているためだろうか、守りは強靭なのに攻めは少し弱いのかもしれない。
かくして、互いの力が拮抗している。そのことに、相手も思い至ったらしい。
こちらは鎌首をもたげ、魔王は翼をはためかせる。
ふたり、いや、二体、目があった。
瑠璃色の深い陽光と、青白く鋭い妖光。
この空間の真ん中で、それらが絡まり合い、蜘蛛の糸をピンと張ったような緊張感が辺りを支配する。
「グオオオッ」
意外にも、先に動いたのは魔王のほうだった。
白く長い胴に向かって、その黒い身体が突進してくる。まるで闇雲に頭突きをするかのように。
「うぐっ」
虚を突かれた私は、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
《ハルカ、かたじけなし!》
「私のことなんか気にしないで」
リン様が脳内に直接語りかけて謝ってくれる。けれど、いまはそれどころではない。
それに日本でも、誰かがいきなりぶつかってバランスを崩すことぐらいあった。この程度がなんだ。
器用に身体をくねらせることでその衝撃を逃してから、魔王の腕を掴む。
そのまま、物理的なぶつかり合いが始まった。
白と黒の肉弾戦である。お互い、魔力的な攻撃を届かせることができないならば、こうする他ない。
だが、こちらには、冷静な第三者の視点――ハルカの視点という利がある。
気づいてしまった。さっきの睨み合いではなく、この無秩序な闘争の中でこそ、リン様の攻撃を届かせることが可能なのだと。
左手で魔王からの攻撃を捌きつつ、右手は敵に悟られぬよう後ろ手に、静かに魔法を構築する。
さっきの【神の光】による火花が、パチパチと音を立てて膨らみ始める。
青白く、妖しい光。それは、敵の忌々しき眼光か、我らの道を拓く雷光か。
そのいずれであるかを分かつ必要はない。なぜなら――
「うっ……ウガァァァァ!!」
――それらの光は、悲鳴と共にひとつに融け合うのだから。
そう、いま、私たちは、雷を魔王の目に打ち込んだ。
睨み合いのうちにあっては確実に避けられたことだろう。混沌のなか、敵の身で唯一鱗のない場所を攻めたのだ。
それからは、敵の動きが明らかに鈍くなった。何より、あれほどに鋭い光を湛えていた碧眼が白く濁っている。上手く視界を奪えたのだろうか。少しでも痛手になれば儲けものだと思っていたが、思ったより効いたらしい。気配と魔力で私たちの存在を検知しているようで、彼女の突進する方向はいつもきちんと私の方を向いているが、素早く身を翻せば素通りしてしまうのだ。
これは、こちらに分がある。
だが、油断はできまい。
さらにそれから、【神の光】で燐光の剣を作り上げ、手に取った。
剣術は苦手だけれど、リヒトスタインで多くを教わってきた。このパーティでは常にミーシャやソフィア、ルイの動きを見てきた。
恩返しとばかり、既に馴染みつつある龍の腕を振るって、剣を魔王の身に突き立てる。
仲間たちが傷をつけてくれたことで、尾の鱗は大部分が崩れており、ひと振りで切り取ることができた。
他の部分はほとんど鱗が残っていたが、さっきまでとは話が違う。動きの鈍くなった敵を相手に何度も何度も巨大な刃を突き立てれば、次第に傷は深く、多くなっていく。
初めに比べればかなりその勢いが衰えてきた。その頃から、仲間たちが加勢し始める。
脆くなった鱗に、ユーリによる氷魔法、ステラやセレーナによる風の術が当てられる。
ソフィアやミーシャによる攻撃も加わると、いよいよ敵の衰弱が見てとれた。
こちらの一方的な蹂躙戦。
そんな、序盤からは想像もできないような局面へと切り替わってから、どれほどの時間が経ったか。
一体何度、燐光の刃をその黒光りする体へと突き立てただろう。
純白の龍は、青い幻の剣をその手に握りしめて飛翔する。
狙うは首筋。
ただその一点へと一直線に閃光が走り――ひとつ、大きな傷となった。
次の刹那。
傷口を中心として、光が放たれる。
白のような、青のような、黄金のような――閃光は見る間に爆ぜ、あたり一面を包み込む。
――それはまるで、朝日が宵を飲み込むかのように。





