第92話.ルイゼの魔術式
マシュー・ウィルク。
眼鏡を掛けた青年の姿に、ルイゼは目を丸くする。
(所長の息子である彼が、どうしてこんなところに……?)
困惑するルイゼの肩からマシューはすぐに手を離したが、その代わりというように目の前のエリオットに固い笑みを向けた。
「どうも、エニマ子爵令嬢。お元気そうで何よりです」
「……ええ、あなたこそ」
対するエリオットはといえば目を眇め、薄笑いを浮かべている。
(お二人は知り合いだったの?)
以前パーティーで会った際は、マシューは一言もそんなことは言っていなかったが。
「よく兄からもあなたの名前を聞きますよ。どうやら良い噂ばかりではないようですが」
「負け犬の遠吠えの話? 低俗すぎて、あまり興味はない話題だけど」
だが、どうやら仲が良いわけではないらしい。
二人の間には寒々しいほどの距離が――否、むしろ険悪な雰囲気が漂っているように感じられた。
エリオットの隣に立つノインまでも、敵意の瞳でマシューを見下ろしている。
一触即発の空気が、喉をひやりと通り過ぎるが……先に引いたのはエリオットだった。
「……それじゃ、あたしたちは行くから」
こちらを見て言い放つエリオットに、ルイゼは頭を下げた。
「はい。お疲れ様です」
「今日くらいはゆっくり休みなさいよね」
「お気遣いありがとうございます」
ルイゼがにこりと笑うと、エリオットは「気遣ってないわ」とそっぽを向いてしまう。
ノインを連れて彼女が警備隊に合流したところで、黙ったままのマシューが口を開いた。
「ルイゼさん。大丈夫ですか?」
出し抜けの問いに、ルイゼはきょとんとしてしまう。
しかしマシューは周囲を窺うようにしながら。
「エリオット・エニマに絡まれていたでしょう。研究所でも、理不尽な目に遭わされているのでは?」
(絡まれていた……というか)
むしろ結果的に、ルイゼが自ら絡みに行ったようなものである。
しかし詳細を話すのもどうかと思い、ルイゼは首を左右に振った。
「そんなことはありません。エニマ様は真面目でまっすぐな方ですから」
(他人以上に、ご自身に厳しい方なんだと思う)
それは、この数週間、彼女の傍に居てルイゼが感じたことだ。
しかしルイゼの返答が気に食わなかったのか、マシューは顔に笑みを貼りつけたまま何も言わない。
ルイゼはそんな彼にぺこりとすると。
「マシュー様。私も帰りますね」
「送っていきましょうか」
「いいえ、平気です。あちらの通りに家の馬車を待たせておりますので」
優しげなマシューの表情が、ほんの僅かに軋む。
だが彼はそれを、すぐさま柔和な笑みで打ち消した。
「そうですか。ではまた、ルイゼさん」
「ええ、また」
ぺこりと頭を下げ、ルイゼは一度も振り返らずにその場を離れた。
なんとなく、まだマシューがこちらを見ているような気がしたからだ。
◇◇◇
ルイゼは自室で、届いたばかりの手紙を読みふけっていた。
週末だけはミアとエフィーと共に、魔道具研究所の寮ではなく伯爵家に戻るようにしている。
というのも、ミア以外の使用人たちの様子を確かめるためだったり、パーティーに参加するためだったりと、理由はいろいろあるのだが……結局のところ、実家の部屋がいちばん落ち着けるからだ。
(前はこの場所を、狭い檻のように感じていたけれど)
それでも、父や母、リーナとの思い出が色濃く残る場所なのは間違いない。
今はひとりきりのその部屋で、ルイゼが読んでいるのはケイトからの手紙だった。
ルイゼが手紙を出したのは二週間前だが、律儀にもう返事を書いてくれたらしい。
手紙には、最近はリーナと少しずつ話すようになったことや、魔道具祭には夫と共に遊びに行く予定であることが綴られている。
もちろん、ケイトは暗黒魔法などの細かい事情については一切知らない。だが彼女は、表向き静養のために訪れたガーゴインやリーナと積極的に関わってくれているのだ。
(王都から届く書簡には、フレッド殿下からリーナ様宛ての手紙が紛れ込んでいることもありますって……ええっ、そうなの?)
その情報は初耳だ。
だが王都からの書簡ということは、ルキウスやイザックの目を通してあるもののわけで――つまり彼らが、フレッドの行為に目を瞑っているということだろうか。
そしてケイトによれば、リーナはその手紙をいつも読むことはせず、だが捨てることもせずに、「いつか焚き火の火種にするから取っておいて」とケイトに預けているらしい。
その悪しげな言い様は間違いなくリーナのもので、ルイゼはその文面に目を落として苦笑してしまった。
手紙の返事を書いたあとは、さっそく仕事に取り掛かることにする。
エリオットには「休む」と言ってしまったが――今からやろうとしているのは一律調整課の業務とは厳密には別のことなので、休日も使わないと準備が間に合いそうにない。
(ケイトたちに……それに、リーナにも見てほしいから……)
既に魔道具の設計図自体は完成した。
現在は外装設計課の課長であるヴィニーに相談し、一部の詰めは甘いが実現は可能だと及第点をもらっているところだ。
つまり、外装の準備は魔道具祭に充分に間に合う。
(だから私は、早く魔術式を完成させないと!)
造りたい魔道具のことを胸に思い描きながら、ルイゼは夢中になってペンを走らせる。
思いついた魔術式を、手当たり次第に紙に書くなど、本来であれば効率の悪い行為だ。
だがそうせざるを得ない理由があった。
というのも、現在のルイゼは【刻印筆】を所持していない。
だからどの魔術式が、どんな効果を実現させるのか――それにはどの程度の魔石が必要になるのか、把握することができないのだ。
そんな現状でも魔道具製作を進めるためにルイゼが思いついたのが、まず魔術式を思いつくままに準備するという方法だった。
ルイゼにとって、それ自体が決して苦ではなかったのだ。
(以前はよく、既存の魔道具の魔術式を、どう組み替えたらより効果的なのか思考していたから)
【光の洋燈】や【眠りの指輪】を始めとした生活魔道具の多くは入手が容易いため、手に入れるたびに解体し、隠蔽術式を解けば魔術式を読み取ることができる。
その度にルイゼは、美しい魔術式に感動しながらも、さらにそれを改良する術を見出そうとした。いま自分がやっていることはそのときの行為に近い。
(他にも、【通信鏡】や【昇降機】の魔術式を想像して、書いてみたり……)
稀少価値が高く手が出せない魔道具については、解体したいと夢見ながらもそれが叶わなかったので、用いられた魔術式を想像することで楽しんだ。
……魔術式の構築。
それは魔道具開発において最も花形とされながらも、最も泣き所とされる分野でもある。
何故ならば――誰も思いつかない、とびっきりの言霊を紙の上に記せと言われ、その通りにできる人間などまず居ないからだ。
だが、ルイゼは無意識に浮かぶ楽しげな笑みのままに、さらに右手を動かし続ける。
既に、彼女が走り書きした魔術式の数は千に届くほどである。
――ルイゼ自身は、それがどれほど稀有な才能なのか、まったく自覚していなかったが。
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