第82話.特別の意味
休まず警報音が鳴り響く中。
何事かとルイゼたちが急いで会議室を出たときだった。
「キャーッ!!」
上階から、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
声のする方を見上げてみれば、八階に……おろおろと後ろを振り返りながら歩く、シャロンの姿がある。
「や、やめて! 来ないでぇえっ!」
ひどく怯えた様子で叫ぶシャロンの背後を見遣り、ルイゼは目を瞬かせた。
(あれは……?)
熊とウサギと、それにおそらくは犬をデフォルメしたようなデザインの色とりどりのぬいぐるみたち。
しかし通常のぬいぐるみと違うのは、それらが二足歩行していることと、成人男性の背丈ほど大きなサイズだと言うことだろうか。
「おお、【もふもふ君】たちがお仕事してるねぇ……」
「【もふもふ君】?」
首を傾げると、手で庇を作るようにして上階を見上げていたフィベルトが教えてくれる。
「各階に配置されてる侵入者迎撃用の魔道具だよ。といっても魔術式の制約で人に危害は加えられないから、警備兵が駆けつけるまでの時間稼ぎ用なんだけど……」
「ああー、前におれらで試作した魔道具っスよね。審査通ったけどぜんぜん他国で人気出なくて……」
「あんなに可愛いのにねぇ……」
しみじみとアルフとフィベルトが会話している。どうやら術式刻印課が生み出した魔道具の一種だったらしい。
黒いビーズの瞳をした動物たちに周囲を取り囲まれて、シャロンはがたがたと震えている。
フィベルトの言った通り、確かに危害を加える様子はないが……それでもぬいぐるみたちは巨体なので、かなりの迫力があった。
(とにかく助けないと!)
ルイゼが動こうとした、その瞬間。
「きゃっ」
飛び出したエリオットに突き飛ばされ、転びそうになったルイゼは誰かの腕に受け止められた。
「シャロン!」
エリオットはルイゼに当たったのにも気づかず叫んでいる。
そんなエリオットの足先がふわりと宙に浮いたかと思えば、彼女の身体は六階から八階へと――素早く空中を移動していた。
一連の滑らかな魔法発動に、ルイゼの目は思わず釘づけになってしまう。
(エニマ様も、風魔法の使い手だったんだわ)
自分自身を浮かせるなんて芸当を見たのは初めてだ。
魔法省の幹部候補として名を知られているだけあり、エリオットは凄まじい実力の持ち主らしい。
八階の手すりを軽々と飛び越えたエリオット。
それから少し遅れ、普段は研究所の正面口を中心に見回っている警備兵たちまでも、階段で八階へと向かっているのが見えた。
……そこで今さら。
ルイゼは未だ誰かの手に受け止められたままだったことを思い出した。
「すみませんフィベルト室長、……っ!?」
体格からして間違いないだろうと、謝りながらも慌てて振り返ったのだが。
そこでルイゼは目を大きく見開くことになった。
というのも、肩に置かれた腕の持ち主はフィベルトではなかったからだ。
(る、……ルキウス様っ!?)
はしたないほどの大声は、何とか形にせずに済んだ。
しかし数週間ぶりに会うルキウスは、じっと食い入るようにルイゼのことを見下ろしているばかりで何も言わない。
そのときには警報音は既に止んでいて。
沈黙のまま、ふたりはしばし近すぎる距離で見つめ合う。
「……ルキウス様?」
「…………」
呼びかけてみても無言のまま、ルキウスは何も答えない。
それと何故か、ルイゼの肩をしっかりと抱き留めたまままったく離してくれない。
困って視線だけを彷徨わせると、少し距離を置いて傍に控えていたイザックと目が合った。
「よっ」というように口が動いている。ルイゼもそんな彼に会釈を返そうとしたところで。
「これはどういう状況だ?」
ルキウスが、ルイゼにではなく――周囲の課長たちに向かって問いかけていた。
その場を代表してフィベルトが口を開く。
「……えーっと、ルキウス殿下。確認してもいいですか?」
「なんだ」
「先ほどシャロン・カリラン公爵令嬢が、『ルキウス殿下に呼ばれた』と八階の研究室に向かったんですが、殿下は八階にはいらっしゃらなかったんですか?」
不可解そうにルキウスが眉を寄せる。
「……俺はたった今、来たところだが。カリラン公爵令嬢が来ているのか?」
「はい。所長から特別補助観察員の認定証を授かったようで、先ほどまで会議にも参加していました」
シャロンの名前には、ルキウスも心当たりがあったらしい。
そのやり取りを聞きながら、ルイゼは沈黙するルキウスのことをじっと見つめていた。
(少しだけ、懐かしそう……?)
読み取れた、微細な表情の変化はすぐに隠れ――ルキウスは「つまり」と口を開き直した。
「俺の研究室にカリラン公爵令嬢が侵入を試みて、それで警報が鳴っていたということか」
「でも――どうしてでしょうか?」
ルイゼが思わず呟くと、ルキウスが不思議そうに瞬く。
おずおずとルイゼは続けた。
「私が特別補助観察員だった頃は、ルキウス様の研究室に問題なく入れましたから……」
特別補助観察員に常時の立入りが許されているのは、研究所の五階以下の部屋だということはルイゼも知っている。
しかしケイトに会うため、ルキウスの開発した【扉】を使ってヤズス地方に空間転移したとき。
ルイゼは認定証を、ルキウスが待つ八階の扉にかざして入室した。あのときは【もふもふ君】たちに囲まれたり、警報音が鳴ったりもしなかったのだ。その理由がルイゼには分からなかった。
「……ふ」
するとルキウスがおかしそうに吐息を吐いた。
彼が脈絡なく、しかもあまりにも柔らかく笑ったので、課長たちは度肝を抜かれたらしい。
慣れているフィベルトとアルフは、なんだか生温かな目をしていたが。
「その答えは簡単だ、ルイゼ。俺が君の認定証を事前に登録しておいただけだ」
「え?」
「俺の研究室に立ち入れる人間は、ルイゼと、術式刻印課の第三研究室の面々くらいだな」
知らなかった事実を明かされ、ルイゼはしばし唖然とする。
そしてその意味を少しずつ、呑み込み始めると……頬が熱くなっていくのを、抑えられなくて。
(……大袈裟かもしれないけれど。"特別"だって、言われたみたいに感じる……)
見つめ合うふたりを茶化すように、イザックが軽く口笛を吹いた。
「いやー、愛されてるねルイゼ嬢。しかし残念ながら、現在のルイゼ嬢の認定証だとルキウスがどんなに頑張っても登録できなかっ……」
主人に鋭く睨まれ、イザックが芝居がかった仕草で口元を覆う。
空気が弛緩したそのときだった。上階から、バタバタとした足音と声が響いてきた。
「エリちゃん、助けて……っ」
「シャロン! やめて、シャロンを離してっ!」
再びルイゼたちが見上げると、階段を降りてくるのは二人の警備兵に挟まれたシャロンと、その後ろに続くエリオットだった。
シャロンも泣き出しそうにしているが、エリオットの取り乱しようは尋常ではない。普段は冷静なために、その動揺ぶりは痛々しいほど顕著に表れていた。
そこで助けを求めるように顔を大きく振っていたシャロンが、はっと立ち止まる。
「ああっ……! ルキウス殿下っ!」
大粒の涙を零しながら、シャロンはルキウスを見る。
駆け寄ろうとした動きは警備兵たちによって食い止められた。
同性であるルイゼの目から見ても――涙を流しながらも微笑むシャロンは、庇護欲をそそるような可憐さに満ちていて。
だが、見返すルキウスの瞳はひたすらに冷たかった。
「カリラン公爵令嬢。ここで何をしている?」
「えっ? な、何って……」
「俺の研究室に入って何をするつもりだったか訊いている」
あらぬ疑いをかけられていると気がついたのか――。
シャロンは夢見る乙女のように紅潮していた顔を、一気に青ざめさせた。
あまりに驚いたためか、涙も引っ込んでしまっている。
「ち、違いますっ。わたしはただ、ルキウス殿下に会いたくて……!」
「それなら東宮に謁見を申し込めばいい。違うか?」
「それは……」
正論を返され、シャロンが俯いて押し黙る。
しかし顔を上げた次の瞬間には、彼女の瞳には明らかな怒気が宿っていて――それはルキウスの腕の中に居るルイゼに、一直線に向かってきているようだった。
ルキウスは敵意に満ちたシャロンの視線から庇うように、強くルイゼを抱き寄せると。
「連れて行け」
「は」
第一王子から直接の命を賜ったのに驚いた様子だったが、警備兵たちは丁重に頭を下げた。
彼らに挟まれたまま、シャロンは階段を下りていく。
少し落ち着いたのか、無言のままエリオットもそれについていったところで、ルキウスが口を開いた。
「……イザック」
「おう。りょーかい」
名を呼ばれただけだったが、すべてを察したようにイザックも遅れて階段を下っていった。
そんな彼らを見送った、その直後だった。
「……ルイゼ。少しいいか」
未だ肩に置かれたままの手に、少しだけ力が込められて。
どこか余裕のないルキウスの瞳が、ルイゼのことを見つめていた。






